風力発電所を見学2020年01月13日 13:29


地元の環境団体の見学会で洋上風力発電所として稼働している茨城県・神栖市のウインドパワー社を訪問しました。訪れた神栖市は近くに鹿島コンビナートの巨大な煙突も見えそうな場所ですが、ここから千葉県を含めて長く続く海岸線―いわゆる鹿島灘は大型砂丘で有名な風の強い海岸線として知られています。そのため10年以上前からここに風力発電所いわゆる風車が建設されてきたという歴史があります。

ここに立地するウインドパワーグループの風車群は鹿島灘に面した海上に並んでいます。洋上といっても海岸線から数メートルの距離です。このため風車をごく近くで見上げることができますが、この日は雨模様の曇り空なのに風がほとんどないという天候のため風車の羽根はほとんど動いていませんでした。それでもウインドパワーの元気な女性専務(小松崎さん)に近くの砂丘の上にある高台から並んで風車を見ながら説明を聞くことができました。

風力発電は環境負荷の少ない効率の良い発電方法として注目されていました。特に近年は北欧では大規模施設が建設され、全世界では再生エネルギーの18%近くを占めるまでになってます。ただし、日本ではそれほど普及はしていません。課題がありそうです。

近くで見上げてみると実に巨大な羽根です。発電所の高さ60メートル、ブレード(羽根)の長さが40メートルあるそうで、ここには15基の発電所(風車)があり、合計5300万kwhの発電能力があります。これは一般家庭の15000世帯分の電力をまかなうことができる能力になるそうです。その他にこの鹿島灘地域では千葉県方面まで伸びる海岸線に50基の風力発電所(風車)が設置されているそうですが、われわれが見ている海岸のやや沖合にも30基の洋上発電所が設置される予定で今年から工事に入るとのことでした。

風力発電はエネルギーコストが低いことが利点なのですが、半面、風のない時あるいは強すぎる時(3メートル以下あるいは15メートル以上)は発電できないことや建設に適した遠浅の海岸が少ないこと、さらに風切音などの発生もあり、立地が制限されるなどの制約があります。また、日本では再生エネルギーの促進政策が遅れたため、現在、風躯力発電所の建設は国産メーカーではできなくなってます。現在の設備は国産ですが、これは建設が10年前のためです。これも今後の大きな問題だと思います。

それでも小松崎さんは「2011年の東北大震災のときにもまったく影響なく発電を続けました。すでも10年以上の実績があります。風力発電の可能性は大きいです」と今後の抱負を語ってくれました。この海岸では年間平均風速6~6.5メートルの風が吹くそうです。風力はもちろん、水力、太陽光、地熱などを交えた再生エネルギーが日本中の電力網で結ばれるようになれば、季節や昼夜にかかわらず安定した電力が供給可能になります。まだ時間はかかりそうですが、こうした未来が想像できます。

鹿島砂丘の一郭に建設された風力発電所ですから、海外線に沿って銚子まで走るバスの中から多くの風車が見えますが、同時に、鹿島砂丘の景観もよくわかります。砂丘はマツなどが植樹されかなり緑化が進んでいますが、今でもかなりの苗木が植えられているところをみると砂との戦いは続いているようです。神栖市内では自動ドアの開閉が制限されているという話も聞きました。観光客としては興味深い景色ですが住んでいる人にとっては大変なことなのです。

4つの富士塚を1日でまわる2020年01月15日 10:06


博物館友の会の「まち歩き研究会」で4つの富士塚を電車を乗り継いで1日で訪問しようという企画を行いました。江戸八富士といわれた富士塚のなかで、これまで廻っていなかった富士塚です。

参加者は22名。まずは江古田富士。西武池袋線で江古田駅に移動します。駅前からすぐ、浅間神社内にある富士塚の叢林が目に入ります。富士塚は高さ約8m、直径約30m。江戸時代後期に下練馬村・中新井村・中村の各講により構成される「小竹丸祓講」によって天保10年(1839年)に築かれたものと考えられます。関東大震災によって損壊しましたが、その後、復旧工事が行なわれ、国指定の重要有形民俗文化財に指定されています。今回、練馬区文化・生涯学習課および氷川神社の協力で富士塚内の見学・登拝が可能になりました。全員で富士塚内に入り、全体を観察、大変立派な造営で管理がよく行われていることもわかります。頂上にある奥宮にもお参り、当時はこの宮社の正面に富士山が見えたのでしょう。(写真上)

次いでJR総武線千駄ヶ谷駅へ。ここには都指定重要有形民俗文化財である千駄ヶ谷富士があります。塚のある鳩森八幡神社は駅より徒歩5分くらいの近さです。池を前景にした庭園の様に見える富士塚で、寛政元年(1789)の築造と言われます。高さ約6m。頂上に至る登山道は自然岩を用いた階段となっており、山腹にはクマザサも植えられています。麓に里宮(浅間社)、身祿様、烏帽子岩が置かれ、山頂には奥宮があります。ここでも記念撮影後、全員で参拝登山をしました。

境内を出て、坂を下ると今年のオリンピックのメイン会場となる新国立競技場が巨大な姿を見せています。1週すると大変なので、全体の4分の1ほどを見上げるようにして通り過ぎながらの見学です。複数のテラスの上に植栽がされ、垂木部分に木材を使った独特のデザインです。私はかなり良いデザインと思いますが、参加者はそれぞれの感想があったようです。

3番目はJR鶯谷駅へ。ここから10分ほどにあるのが小野照崎神社の富士塚、通称下谷坂本富士です。残念ながら安全のため富士塚内に入ることはできませんでしたが、1828年(文政11年)建造で、高さ6mの堂々たる風格。苔むした溶岩に歴史を感じます。ここも建設時の形態をとどめるとして、国の重要有形民俗文化財に指定されています。

境内には古い庚申塔もあります。『江戸名所図会』にはこの富士塚ではなく境内の入谷庚申堂のことが出ています。日本三庚申となっていますが、日本三庚申とは京都の金剛寺(八坂庚申堂)、大阪の四天王寺庚申堂、東京の入谷庚申堂だと言われているようです。

最後は、JR東十条駅に移動し、線路を渡り、地蔵坂を登った古道の脇にある東京富士塚通称十条富士です。ここは塚自体が富士神社になっています。かなり大きく伊藤元講などの建てた石造物が、30数基あります。遅くとも、天保11年(1840)10月には冨士塚として利用されていたと推定されています。他の富士塚に比べ、保存状態はあまりよくないようですが、ここで行われる7月の山開きの行事は大変盛大な地域の年中行事になっているそうで地元で愛されている富士塚であることは確かなようです。

浅間嶺の古道2020年01月20日 13:18


今年最初の登山は浅間嶺です。浅間嶺は奥多摩の五日市方面から甲州(山梨県)方面に向かう道で、浅間尾根とも呼ばれます。向かう先には大菩薩嶺があり、そこを過ぎると塩山に至ります。多くが古い街道の跡になりますので険しいアップダウンはなく、冬枯れの林の中を落ち葉を踏んで歩く楽しい山歩きになりました。

今回は地元の山の会8名、武蔵五日市から7時10分発のバスに乗車します。秋川に沿って浅間嶺登山口までの登りの道はかなり長く、途中に「払沢の滝」バス停がありますが、ここが下山の目標値です。「人里」という謎の地名も出てきました。

午前8時過ぎ、登山開始。最初の浅間坂はややきついですが、尾根に出てしまうとあとは旧街道の面影を残す平坦な登山道です。ここを五日市方向に戻りますので、さしたるアップダウンもありません。この尾根がある檜原村は村域の9割以上が森林でかつては林業が盛んだった場所です。新しい林業の動きもあるそうなのでスギやヒノキの植林地はよく手入れがされている感じです。広葉樹林も薪炭材で利用されていたようでクヌギやコナラが多く落ち葉が積み重なっています。

歩いていると道路わきに小さな石仏があります。頭に馬を乗せた馬頭観音のようで、荷運びに馬を利用していた古道の名残でしょう。数か所でみかけました。単調な街道ですが、途中では、猿石という大きな岩で謎の「猿の手形」を探したり、最高度地点(930メートル)である一本松では、地名が一本松なのか一本杉なのか(2通り書いてあります!)を確かめたりというイベントがあり飽きません。

道の一部には「古甲州道」と標識が置かれた区間もあり、この道がいわゆる「甲州裏街道」の一部であったことがわかります(写真)。生活道路としてはその後も使われていたのでしょう。眺めのよい展望台で昼食休憩。この日の眺望はそれほどでもありませんでしたが、奥多摩の御前山や大岳山が雄大に迫っています。

休憩後、少し進むと、先ほどバスの中で見た謎の地名「人里」が出てきました。へんぼりと読むようです。これは難解地名です。モンゴル語とか朝鮮語由来という説もあるようですが、奥多摩・秩父にはこうした不思議な地名がいくつかあります。

やがて冬期休暇中の「峠の茶屋」を通り、時坂峠を越えて目的地の「払沢の滝バス停」についたのは2時半頃。そこから遊歩道を歩いて払沢の滝を見学しましたが、この季節、本来なら凍結しているらしいのですが、今年は暖冬でその気配もありません。それでも名瀑と渓谷を楽しむことができました。バスの時刻が迫っていたので急いで戻り、名物の豆腐屋さんでお土産を買ったりしながら、乗車。帰りのバスは下りでもあり区間も短いのであっという間に駅につきました。

窓の外の大船観音2020年01月21日 19:29

横浜に行く用事があり、その夜は大船駅(鎌倉市)前のホテルに泊まりました。本当に駅の前で、夜、部屋の窓から外をのぞくとまばゆいばかりの大船駅のプラットホームが目に飛び込んできます。眼下には東海道線と思しき電車が走り抜けていきます。電車の轟音は夜中まで聞こえました。朝になってカーテンを開けると、昨夜は気づかなかったのですが、駅の向こう側の緑の丘の中腹に白く大きい観音様の上半身が見えます。有名な大船観音です。

東海道線や横須賀線でこの大船を通過するたびに、車窓の風景として眺めていたこの観音様ですが、あらためてこう見ると、いかにもこの街の風景として溶け込んでいるように思えます。しかし、この観音像はそれほど古くからここにあったわけではありません。調べてみると完成したのは昭和35年(1960)ですから東京タワーより新しいことになります。

ただし、前史があり、一番最初の計画は昭和2年ということです。建設目的も、戦前のことですから「この国を憂え、この国を護る」や「世相浄化」という国粋主義的な思想の趣意書(「護国大観音建立会」)がつくられています。昭和初期は「国難」という言葉が使われ、大変な不景気のもと、軍部による大陸侵略が行われるという時代でした。しかし目的ははたせず工事は中断されます。

しかし、大船観音ホームページによれば、その後を継いだ当時の大船観音寺高階瓏仙禅師が「日本人も中国人も平等に供養していく」を趣旨としてあらためて発起を行ったということです。「皇軍の英霊は各地に奉祀されることとなれり。然れども未だ支那軍戦死者の霊をも平等に供養する表式無し。依って本会は日支親善の情誼及び宗教的超越観地より怨親平等の大慈悲心に基づき皇軍幾萬の英霊と倶に同じく興亜戦線の犠牲たる支那軍の戦霊をも併せ祀る」(大船観音ホームページ)。ただし、これも戦争体制の中で実を結びません。

そして、建設計画が息を吹き返すのは昭和29年、戦後の復興になんとかめどがつき経済界にも資金的な余裕ができ始めたときです。観音建設の目的は「日本の興隆と世界の平和にさらに大戦の英霊を慰める」ことに変わります。ひとりひとりの心の平和が実現できなければ世界平和などできません。

本来の観音菩薩の教えからいえば、計画当初の「護国平和」が戦後の「世界平和」に変わったのは当然なのですが、戦前の建設計画におても、日中戦争の最中に、人間の区別なく(敵味方の区別なく)戦死者の供養を考えていたということは記憶していく必要があると思います。こうして完成した大船観音は目の前を行き来する通る人びとの生活を眺め続けています。

余談ですが、昭和初期には日本中に大仏や観音像が建立される機運が盛り上がっていたようです。私の住んでいる埼玉県・朝霞市にも「朝霞大仏」なる計画がありました。これも戦時中に計画が頓挫しますが、戦後に再興されることはありませんでした。

大月の厄王院と猟師さん2020年01月29日 13:44

中央線の大月駅前に降りて上を見上げるといくつもの山が目に入ります。北側にどっしりと存在感のある岩殿山がそびえていますが、南側にはもっと大きな山塊が連なっています。一番手前に見えるのは菊花山。この山の背後に御前山、九鬼山、高畑山など富士山を展望できる峰が続き、見えませんが、その地下にはリニアモーターカーの長いトンネルが掘られているわけです。

この御前山から菊花山を通って大月駅に戻るという周回コースを歩きました。9時半過ぎ大月駅を出発。こんなに駅に近い山ですがコースの経験者がなく、登山道発見にやや苦労しましたが、全員あせる気配はありません。登山口に「御前山・厄王山奥の院」になっていましたが、確かに道端には厄王山の合目標識があり厄王院信仰の山のようで、赤い鳥居が入り口になっています。地元(駒橋)ではお参りする人の多い神社の参詣道にもなっていることになります。

その登山道前に小型トラックが止まり、黒い犬を連れた人がいます。登山者ではなく、どうも狩猟をしているひとのようです。犬は猟犬とのこと。さらに少し進むと道端の岩の上に背中に猟銃を背負って休んでいる人がいます。これはまさしく狩猟で山に入っているひとに違いありません。イノシシなどを狙うようですが、午前中に活動しているようです。歩き始めるとは意外に足場の悪い登りが続きますが、その途中で、パーンという銃声が何回か聞こえました。先ほどの猟師さんかどうかはわかりませんが、大月駅から20~30分の場所で猟が行われているわけです。

まもなく、2つめの鳥居が見えてきました(上の写真。遠くに見えるのが御前山)。さらにくねくね続く坂道を登ると、崖の途中につくった神社と思われる建築物が見えてきました。厄王山奥の院です。崖の一部を掘りぬいた社なのですが、かなり厳重な構造物に覆われ、網を張ってありますので遠目には倉庫のように見えます。ここから上は岩場になっていて、この山頂自体がご神体なのだと思われます。御前山(730メートル)到着です。大月方面のパノラマもいいですが、本来はここから秀麗富嶽が見えるはずですが、本日は残念。このところ真冬というのにすっきりした青空がありません。

山頂から来た道を戻ってから昼食休憩。ここから菊花山までササ薮の茂る道を進みます。低いピークを2つ越えたところが菊花山(643メートル)。ここも頂上は岩場です。大月の市街地が真下に見えます。こんな広々した風景や狩猟の行われている場所が間近にあるのが大月です。

桶川宿の“時を超える老女”2020年01月31日 18:05


次の「まち歩き」で桶川(埼玉県桶川市)に行こうと考え、関係者3人で下見に出かけました。高校生のとき桶川から来ている友人や後輩も多かったので馴染みがあることはあるのですが、実際には本格的に歩いたことはありませんでした。

企画の性格上、まず桶川の歴史民俗資料館にいくことにしていますので、桶川駅前から市内循環バスに乗りました。1時間に1本の間隔であまり便利ともいえないでしょうが、利用者は結構多いです。料金は一律で100円。桶川は中仙道寄りの低地と荒川沿いの段丘という2つに区分されるようですが、段丘上の畑や雑木林が続く地域には古代から中世までの遺跡なども多く、楽しい散歩もできそうです。歴史民俗資料館もその中にあります。

午後は、まち歩きの中心になる中仙道の桶川宿を2~3時間ほどかけて探索しました。事前に入手していた資料やガイドマップにしたがい、遺跡や史跡さらに独特の名所を探しながら歩くわけで、たいていはすぐに見つかりますが、中にはこんなところにあったというものもあります。中仙道から松山(東松山市)の箭弓稲荷(やきゅういなり)神社への道筋を示す道標「松山以奈り道の道しるべ」はやや離れた場所でしたが立派に保存されていました。一方、中仙道中の一里塚跡は歩道橋の鉄製の柱に説明が貼ってあるだけという味気のなさです。

最後に大変だったのが簡単そうな「境橋の石柱」の旧跡です。場所はマップ上に明確に印されていますから眼をこらすのですが、それらしき石柱が見当たりません。そこと思われる場所に歩道橋があるので、この工事でなくなったのかと思い、通りがかった地元のご夫婦(と思います。散歩中のようでした)にうかがいましたが、首をかしげるばかり。するとそのご夫婦がちょうどそこに杖はついていますが姿勢もよく元気に歩いてきた白髪の女性をみつけると「この人なら知っている」という感じで話しかけ始めました。するとその女性は「見ればわかるでしょ」という感じで「この暗渠が川の跡。ここをたどって行けば橋があるのよ」といいながら先頭にたって我々を誘導し、先ほどの歩道橋へ戻りました。そして歩道橋の支柱が建っている草むらの中にほんの10センチほど顔を出している四角い石を杖で差して「これよ」。さらに「場所をいうと盗まれちゃうからあまり話しちゃダメ」と謎のようなこともいいました。この意味はわかりません。

この女性は、このあと、桶川駅に向かう道まで一緒でしたが、浄念寺という古いお寺への曲がり角に来ると「この停車場通りができる前はここが道だったのよ」と言って、駅間通りに交差して伸びている旧道も教えてくれました。「ていしゃば」という言葉がごく自然に出てきましたから、全員で思わず『この人はいったいいくつなんだろう』。

記録によれば桶川駅は1885年(明治18年)に開業しています。当然、中仙道につながる駅前道路もその時にできているはずです。その前のことを見てきたかのように語るとはまさに時空をこえているのでしょうか。