二度目の高水三山2019年12月07日 16:15


ブログによると2017年の3月にも登っている奥多摩の高水三山に、おなじみの地元の山の会で出かけました。

前も書きましたが、高水三山とは御嶽渓谷の奥にある3つの山―高水山(たかみずさん)、岩茸石山(いわたけいしやま)、惣嶽山(そうがくさん)のことで、山の上に寺社があり、信仰の山になっています。

車道歩きを始めると、道脇に不動明王?や地蔵尊の立派な石仏があったりします。麓の高源寺の阿弥陀堂も見事です。かなり温かで歩いていると厚めのシャツ1枚で十分なほどです。一帯はスギの植林が多いですが、秋の紅葉シーズンなので、カエデやブナ系広葉樹の黄や赤が点在して青空に映えています。

最初の高水山の頂上近くには「高水山」と山号を掲げた高源寺という立派なお寺があります(上の写真)。高水三山は仏教と神教の霊山です。また3つの山とも標高は近いのですが別の山ですから尾根をかなり下ってまた登るということの繰り返しで、結構体力を使います。2番目の岩茸石山も巻き道がつくってあるほどの険しさがあります。頂上からの眺めは素晴らしく、秩父・飯能方面の山々が見渡せます。すぐ左に見える棒の折山を越えると名栗湖、ここが多摩川と荒川(入間川)の分水嶺になっているわけです。情けないことに前回の記憶がほとんどありません。

最後は惣嶽山。ここも頂上付近はかなり岩と木の根のからまった急斜面があります。す。登り切ると頂上の平坦地に立派な青渭神社の奥の院があります。ここも前回来ているのですが、全面が丈夫な金網で覆われていて近寄ることができまないことや社殿には様々な物語を表す凝った彫刻がほどこされていることは同じです。

惣嶽山から急な岩場を少し下ると、ここに聖なる井戸があるはずなのですが今回は通りませんでした。前回の記録では「二本の大木の間に注連縄(しめなわ)が通してある」となっています。真名井と称する霊泉(別名青渭の井)で、古代から清浄な水の出る場所だったことが寺社の信仰のつながったのでしょう。青渭神社経由で直下の沢井駅に下る道も通じています。ここには清酒「澤乃井」という酒造メーカーもあり、地名も沢井なのですからよほど良い水に恵まれているのでしょうね。澤乃井園という面白い場所もあるようですから今度は行ってみたいものです。

大混雑の高尾山で富士道を2019年12月10日 15:33


少し前に記事を書いた高尾山の浅間神社と富士道をめぐるまち歩きを11/22に行いました。参加者は17名、意外に多くの方が参加してくれました。この日は秋晴れ、絶好の紅葉日和ということで予想はしていましたが登山口から多くの人でかなりの混雑。なるべく全員一緒に行動したかったのですが、表参道を歩きだした時点でひとり坂道を歩けそうもないということでケーブルカー駅に戻りました。

薬王院までは約1時間半くらいでしょうか、なんとか全員歩きとおせました。薬王院では見事な紅葉を鑑賞できました。ケーブルカーは乗るまでに相当時間がかかるようで途中待ち合わせに変更して、一行は薬王院天狗の像付近で休憩後さらに石段を登って、不動堂裏手にある富士浅間神社に向かいます。

この小さな浅間神社こそ、天文年間に北条氏康により富士北口浅間神社から勧請されたもので、これにより、高尾山と富士山信仰が結び付けられ、江戸時代以降の富士講の隆盛にともない高尾山が発展を遂げる要因となっているようです。ただ、ここで参加者の確認ができずにいるうちに、この日の登山者の混雑に押されるように移動が始まってしまい、結局、高尾山頂に行くことになりました。それでも通った道が「富士道」であることは確かです。山頂付近ではまた数名の参加者が下山することになりました。お疲れさまでした。

残った一行が山頂から裏高尾方面に通じる長い石段・坂道を下って行くと、紅葉台という高台付近でススキ越しに富士山がよく見える場所があります。早朝よりは雲が出ていましたが、ここで秀麗富嶽を拝見しました。地名は富士見台園地となっています。実際の富士講参加者がどこで富士山を遙拝したかは不明なのですが、このすぐ南にも登山道があり、そこには富士見台という場所があります。今回は、そこまで行くことができませんでしたが、ともかく高尾山での富士山遙拝を終えて清々しい気分で富士道を歩きなおし、あらためて浅間神社に参拝して、帰りも表参道を歩いて下山しました。

『至福千年』の世界2019年12月13日 13:47


石川淳の小説『至福千年』を久しぶりに読み返しました。奥付をみると「昭和44年4月第2刷」とあり、購入したのは私が20歳になるかならないかの時期と思われます。その後、少ししてから再読した記憶もありますが、今回は相当に楽しんで読むことができました。

石川淳の作品を読むたびに感じるのは、なんといってもその文章の中から立ち上ってくる魔力的といってもいい快感です。一種の空想的社会主義ユートピアみたいな香りもなくはありませんが、これとて読者を現実からほんの少し非現実的な世界に逃避させるための仕掛けだと思えなくもありません。この思想性はエッセイや評論にも感じられますが、とりわけ『鷹』やこの『至福千年』などの小説にはそうした雰囲気が強いように思います(ちなみに『鷹』はストーリーや思想性など含めて素晴らしい作品です)。といって、私が石川淳の作品をたくさん読んでいるかというとまったくそんなことはありません。石川淳選集という本人が選んだという著作集があることがわかりましたので挑戦してみたいと思っています。

さて、『至福千年』とはなにか。これは確実に宗教的な匂いがしますが、その通りで、キリスト教で「キリスト再来の時から一千年間地上の王国が出現し、その後に最後の審判が来る」という終末思想だそうです。『至福千年』文庫本の解説を書いている渋沢龍彦氏によると「(ヨーロッパ中世に生まれた)生活苦から逃れるための地上楽園という夢」のことをも差すようです。

日本でこの言葉がいつ使われたのか。まして、開国か尊王攘夷かで揺れ動く幕末の江戸にそうした思想を実現しようとする隠れキリシタンの暗躍があったのかどうかはとりあえずどうでもいいこと。石川淳の小説は、そうした歴史の真実などとは無関係に(ただし、大枠では政治文化の流れに矛盾なく)ときに夢幻の世界も交えて進んでいきます。

更紗職人の源左、俳諧師の冬蛾、神官の加茂内記、材木商の松太夫など江戸の下町にうごめく怪しき人物たちが、かつての長崎での体験で得た聖教(伴天連)と至福千年の教えを幕末動乱に乗じて実現しようと図る一派、妨害する一派に分かれて暗闘を繰り広げる――山田風太郎の世界のようですが、ユートピアとディストピアが混然したファンジックな夢の世界、しかもこれが江戸情緒と、失われてしまった良質の日本語という舞台設定の中で繰り広げられるわけで、これは石川淳でなければ書けないものだろうと思います。

ところで、この小説の中で謀略を企む加茂内記は、今の新宿区にある大久保の水稲荷神社の宮司になって登場します。ここには現在、高田富士塚が移転されていますが、内記が江戸庶民への洗脳目的で行うイベントの舞台のひとつとして使われているのがこの富士塚であることは、さすがに江戸の文化を知り尽くした作者だけのことがあります。富士塚は当時の江戸の町にあってほとんど例外的に存在した巨大な民間土木プロジェクトです。信仰という観点で許されていたのでしょうが、ここに石川淳はまさに地下に溜まって火を噴きかねない鬱屈した庶民の情念をみていたのかもしれません。上の写真は江戸名所図会の中の水稲荷と高田富士です。

伊豆ケ岳の男坂に挑戦2019年12月16日 13:53


飯能(名栗)方面から高麗川沿いに秩父を目指す時に超えるのが正丸峠ですが、この正丸峠から山上の聖地といわれる子の権現や竹寺を経て吾野に下る縦走路上の最高地点が伊豆ケ岳(850メートル)になります。春にも行っているのですが、冬を迎えるこの季節に山の会の人たち7人で挑戦です。伊豆ケ岳には「男坂」という有名な岩場があります。春に来た時は気の弱い男性2人組みだったため遠慮しましたが、今回は登ってみます。挑戦とはこのことです。また下山路にある「浅見茶屋」の名物うどんも賞味してみたいものです。

この日(12/11)は快晴・無風おまけに東京都内では20度Cに迫ったというほどの暖かい一日でした。前回の高水三山といい、ことしの初冬はかなり異常気象かもしれません。

出発の正丸駅には午前8時過ぎに到着。線路を渡って高麗川の支流沿いの静かな街道を遡り、やがて正丸峠方面への分岐点に出ます。ここからが本格的な山道になり、伊豆ケ岳につながる稜線に出るまでは険しい足場が続きます。

途中に説明版もありましたが、伊豆ケ岳は、チャートと呼ばれる海底に堆積してできた非常に硬い岩石(ガラスと同じくらいとか)でできているそうで、確かにいたるところに岩石が露出しています(両神山もチャートの山のようです)。特に山頂部はかなり切り立った岩稜になっているのですが、そこに到達するのに、岸壁を直登する男坂とその横を巻いていく女坂があります。男坂には、危険度が高いのか「落石危険」の大きな表示があり(相当前からのようです)、何となく通行禁止の雰囲気です。

今回は岩場大好きという女性陣も多く、ほぼ全員が男坂に登りました。高さはそれほどでもないのですが結構きつい傾斜で、なんとか鎖場を克服すると、今度は狭い岩の間の登りと下りです。10時15分頃、登り切った伊豆ケ岳は、冬枯れの季節のためかかなり見晴らしがよかったです。

ここから子の権現までは尾根道なのですが、古御嶽、高畑山、名のないピークといくつかのアップダウンが続きます。天目指峠(あまめざすとうげ)という奇妙な名前の場所で昼食ですが、「浅見茶屋」に寄る予定なので食欲を調整?した人もいたようです。最後の愛宕山を過ぎて子の権現には午後1時半過ぎに到着。急いで下山開始、一路「浅見茶屋」へ。店は開いているようですが、人の少ない平日の午後、果たしてうどんが食べられるのか。

2時15分頃、民家風の店に到着。店の前に車やバイクが駐車中で順番待ちの客が9人という盛況ぶり。こんなに人気の店とは知りませんでした。この日のうどんはわれわれで終わったようで、あぶないところでした。やれやれ。ところが、このあと、店の外で待機し、店内で待ち、やっと注文してからもさらに待ち、竹筒容器に入った肉汁うどんが到着したのは2時間後でした。

待たされたためもあったのか、大変おいしく体も温まりました。食後は暗くなるのが嫌なので走るように吾野駅に向かい、17時4分発の飯能行きに乗車できました。

『ジョゼフ・フーシェ』2019年12月21日 19:11


ジョゼフ・フーシェといっても西洋史に興味がない人にはほとんどなじみがないでしょう。私も同じ、ツヴァイクの伝記を読んで初めて、このフランス革命からナポレオン帝政の終わりまでフランスというか当時のヨーロッパ政治の裏表に暗躍した人物のことを知りました。

このツヴァイク全集の1冊を手にしたのはどうも20代前半のようですが、白地に緑のリボン模様の入ったこの本を見ると(表紙も本文も経年劣化してしまいましたが)今でも、当時の感動がよみがえるような気がします。というのはツヴァイクのこの伝記がとてつもなく面白かったことを今でも覚えているからです。その後、『マリーアントワネット』『マゼラン』などを読み、これらも大いに楽しんで読みました。ほとんど基礎知識のないヨーロッパ中世の政治の波乱万丈さや帆船での明日をも知れぬ航海の苦難が、やや大げさにいうと、まるでその場にいるかのような現実感をもって感じられるのは、ツヴァイクの調査の綿密さと表現力によるものであることはいうまでもありません。

伝記や評伝さらには吉村明の史伝小説などの魅力が、まずは事実とそれを掘り起こしていく作家の力にあることはいうまでもありません。確かに、事実自体が興味深いものなのですが、その表現が学術報告書みたいな無味乾燥なものではほとんどの人は、そのテーマによほど関心を寄せているのでなければ、読もうとはしません。

ツヴァイクの伝記を生き生きとさせているのは、語り口の平明さと例え(比喩)の巧みさでしょう。私は翻訳で読んでいるわけですが、多分原文の感じもこんなものと思います。よい例かどうかはわかりませんが、「第8章ナポレオンとの決戦」の中で、いわゆる百日天下のなかでナポレオンはフーシェを(中心から遠ざける意味で、実権を持たない)警察長官に任命しようとします。

しかし、フーシェはそうとわかっていながら引き受けます。この時の彼の心理を次のように例えてます。『この派手ごのみで熱心きわまる、精神の賭博師も、悲劇的な欠点をひとつ持っている。つまり、彼は、世界を賭けた大ばくちとなると、わきにひっこんでいたり、ただの一時間でも、単に傍観していることができないのだ。彼はたえずカードを手にして、切り札を出したり、札を混ぜたり、イカサマをやったり、場を攪乱する手をうったり、掛金を倍にしたり、ぱっと勝ち札をだしたりしていないと気がすまない』。精神の賭博師という云い方が効果的です。

これに対してナポレオンの心ははどう動いたのか。これについては『のどをかわかした人が、毒が入っていると知りながら、水に手をだすように、忠実で無能な人たちよりも、むしろ、この聡明で信頼のおけぬ男を自分の身近にかかえた』という大変分かりやすい例えで書いています。

なお、ツヴァイクの作品で、次に読もうと思っている『マリーアントワネット』は、日本の少女漫画(後に宝塚歌劇になる)『ベルサイユのばら』の原作にもなっていることはよく知られています。ツヴァイクの作品ではこの『マリーアントワネット』の方が名作といえるかもしれません)

小下沢から景信山へ2019年12月29日 20:54


今年最後の山行は高尾山北陵の八王子城跡から景信山へ向かうコースです。つい先日にも行った場所(こういう偶然はよくあります)。前回といってもほんの3か月ほど前なのですが、今年は、その間に災害級とされた強風の19号そして予想外の豪雨となった20号という2つの超級の台風が連続して関東地方を襲い、特に20号によるまさに記録的となった大雨は伊豆から箱根そして高尾山塊を含む関東地方一帯に降り注いだため、多くの被害がでました。住民にとっては河川への影響が大きいと思いますが、関東山地全体の山間部にもかなりのツメあとが残ってしまったようです。

当然、この日もまだいくつかの登山道に影響が残っていると思われましたが、参加者が4名と少なく、時間的にも余裕をみていますので大丈夫との判断です。それでも最初の八王子城からさっそく天守台山の向かう石橋が崩れていて通行禁止。この橋は空堀にかかっているかなり強固なものと思われますが、土石流のエネルギーによりあっけなく破壊されてしまったのでしょう。回り道をしましたが、天守山についてはあとは特に大きな被害はなさそうでした。ただし、城跡全域にはまだ通行禁止の区域が残っています。

天守閣跡詰の城という碑のある場所から富士見台へ。前回は木々の葉に隠れて見えなかった富士山が見えます。南西方向の展望をうかがう場所のようです。前回はここから北陵を直進しましたが、今回は途中の狐塚峠付近から小下沢へ降りて景信山へ登り返す道になりました。ここからまっすぐ甲州街道に降りるとあまりに早い下山になってしまうため、この日は北陵をもうすこし進み、途中から小下沢方面に降りて景信山へ登り返すことにしました。

小下沢は北高尾山領から流れ出て小仏川に繋がっている谷川だと思いますが、この林道が台風被害を受けて崩壊しているという警告情報は八王子城跡にも出ていました。とりあえず斜面を下り小下沢沿いの森林管理スペースに到着。ここから、砂利窪と呼ばれる登山道を登るのですが、沢を渡った目の前の登山道が崩壊しています。沢に降り、流木や大小の岩の上を歩いてから急斜面を登ることになりましたが、特に危険な感じはしません。あとは特に被害を感じる場所はありませんでした。

景信山からは旧甲州街道の小仏峠バス停までまっすぐ下りました。写真は小下沢で食事のとき。箸を忘れたので桜の小枝を拾って代用した時の模様を友人が取ってくれました。台風被害の残る中、能天気な表情ですみません。

さいたま新都心で迷う?2019年12月31日 12:42


迷うというのはかなりの大げさ。ちょっと方向を失いかけて、よく知っているはずの場所なので少し慌てたという感じです。高校の同窓会が大宮駅近くで開かれるのですが、多少の時間があったので、埼京線の与野本町駅から歩いて大宮方面にむかいました。この逆方向はあまり歩きませんが、土地勘はあります。ところが、昨日は、少し回り道をしてみようと軽く歩き始めてみたものの、単純に歩く道路の方角を間違えたようで、見慣れない巨大なビル群に囲まれた場所についてしまいました。

午後5時に近づき、あたりは薄暗くなってきましたし、多分公共施設ばかりなのでしょう、30日ともなれば歩いている人もほとんどいません。近くに1つだけ、貨物自動車が出入りしている建物があり、ここがさいたま新都心郵便局とわかりました。隣接するのはさいたま市の合同庁舎の2棟のビルとわかりましたが、見上げるほどの大きな建物。必要なんでしょうかね(官僚大国ニッポン。余談ですが、先日、このさいたま新都心とスーパーアリーナの建設をめぐる悪徳利権屋を描いたコミックを読みました。実際にも巨大な資金が投入されて、まだまだ建設が続いているようです)。

さて別に心配することもなく、スーパーアリーナの丸い屋根が薄明の中に浮かんでいるのを見つけ、複雑に交差しているテラス上の歩道を渡り歩いて新都心駅に到着です。

東京都内のこうした再開発地域あるいは渋谷などの巨大駅などでも同じようなことを感じたりしますが、いたるところに歩けない壁があり、立体構造物が林立しているような場所は、自然感覚に反するようで、誰でも苦手です。方向感覚が失われてしまします。

それでも、思いがけず「四季の林」とか「せせらぎの丘」という小さな緑地がビルの谷間につくってあったり、鴻沼川の流れに遭遇したりしましたから、歩けば何かを見つけることはできるのでしょう。やがて、こうした場所が人間のふるさとになる日が来る、あるいはもう来ているのかもしれません。