中世の「道」に関する講演会2018年07月19日 14:35


埼玉県には「鎌倉街道」とよばれる古道がかなり残されています。私もつい先日の「まち歩き」で、毛呂山町に残された史跡「鎌倉街道跡」をたどりました(http://mylongwalk.asablo.jp/blog/2018/03/19/8806693)。この「鎌倉街道」については知りたいことがたくさんありますが、実際の東国の中世史の中でどのように成立したのか、どう位置づけされているかについてはよくわからないところがあります。そんななか。以前、朝霞市の講演会でお話をうかがったことのある高橋一樹・武蔵大学教授にまたご講演をしていただく機会ができました。

今年一番暑かった7月11日、大宮の埼玉県立歴史と民俗の博物館友の会講堂で、高橋一樹・武蔵大学教授による講演会「鎌倉期武蔵国の街道と人・モノ・文化」が開催され、150人近いたくさんの人が集まりました(上の写真)。

高橋一樹先生は日本中世史が専門分野です。旧家や寺社に残された文書を解読して中世の政治経済体制の研究を行っていますが、代表的な著作である『東国武士団と鎌倉幕府』の中で<陸・海・河の道と地域―当時の社会に特有の人やモノの移動と集散、その場の特質>を解明することを大きなテーマとして掲げているように、地域のつながりや当時の交通体系を明らかにすることによって新しい東国の中世史確立を目指しているように思われます。今回の講演会は当初、埼玉県の“古道歩き”としてポピュラーないわゆる「鎌倉街道」とは中世の政治経済状況の中でどのように成立したのかを知りたいという素朴に疑問だったのですが、講演を聞いているうちに、これは中世史の在り方に関係するような大きな問題なのかもしれないという感じがしてきました。なお、以下はこの日の講演の個人的な感想であることをお断りしておきます。

講演は詳細なレジュメにもとづいておこなわれました。最初に「私が著書『東国武士団と鎌倉幕府』で主張したかったことは<鎌倉ありき>で中世東国の交通体系を考えてはいけないということでした」と基本的な考え方が示されました。これがこの日の講演で高橋先生が一貫して述べていた考え方です。つまり、東国の街道・交通は鎌倉に政権が確立する以前もあるいは政権滅亡以後も存在していたということです。事例としては、古代の実際に使われた地図などによると相模から武蔵を通って下野や常陸に進む「東山道武蔵道」があったとこがわかります。これは古代の東海道と東山道を結ぶ道です。熊谷もこの道に接していたようです。

11~12世紀における南北ルートはこの「東山道武蔵道」だけでなく。相模国府→武蔵北西部(河越?)→下野にいたる幹線ルートがあったようで、陸奥までを視野に入れた東西交通の重要な役割を担っていたのではないか。このルートからわかることは、鎌倉は12世紀までの東日本における東西交通の体系から外れているということです。

これは頼朝による幕府開設が行われた13世紀以後になると都市的発展をとげる鎌倉を軸とした広域的な交通体系の整備不可欠になり、都市鎌倉を軸とした広域的な交通体系が完成し、上野―信濃―下総―常陸への放射状ルートの道路網が完成します。切通の工事と“鎌倉街道”、さらに海上交通路の整備が行われます。

河川・海上交通についても新しい視点から考える必要があり、武蔵方面の物流は府中から多摩川と東京湾を通って鎌倉の海岸に運ばれた可能性が大きい。板碑の材料の石材なども当然水上交通で運ばれたのではないか。都市鎌倉の前浜に武蔵守=北条氏の倉庫:武蔵国の国領から納入される年貢物の集積所があるが、多摩川~鎌倉・前浜という“海道”による武蔵からの物資=武蔵国から納入される年貢は大量かつ多様な布・米は船での運送が便利。多摩川の河口を鎌倉街道中道が通過した場所に丸子という地名(陸路と水路の結節点)が残り、古代の鎌倉道が多摩川と交差する地点にも中世から確認できる借宿(カリヤド)地名(現在は刈宿)が存在しています。