北アルプスの山々を堪能2018年08月09日 19:18


8月初め、北アルプスの蝶ヶ岳から常念岳の縦走に行ってきました。いつもの山の会のメンバーで参加者は6人。うち4名が女性です(最近は山の上でも女性が多いようです)。

北アルプスにはご存知のように立山、黒部から乗鞍など数々の名山が競うようにそびえていますが、特に有名なのが槍ヶ岳から穂高連峰にかけての峰々と思います。といっても自分が登っている時には山の形は見ることができません。この大パノラマを目の前にできるのが今回登った蝶ヶ岳から常念岳につながる稜線付近です。

展望には天候も大事です。昨年、上高地までいきましたが、数日間の雨模様で穂高さえ一度も見ることができませんでした。今回は2泊3日の旅行中はほとんど快晴。両山ともすべて未経験者ということで心配もありましたが、登山自体も非常にうまくいきました。

ただし、そこは日本アルプスですから、第1日目の三股登山口から蝶ヶ岳への登りは森林帯のなかの急坂に汗を流し、2日目の蝶ヶ岳から常念岳への縦走では森林限界を超えて遮るもののない破砕岩の重なる山頂部の苦しい歩みを続けました。最終日の一ノ沢下りも大変でしたが。冷たい谷川の流れをいくつも渡ったりと楽しい経験もしました。

2つの山の頂上や宿泊した蝶ヶ岳ヒュッテ、常念小屋からは眼前の梓川などがつくる大渓谷を挟んで、槍ヶ岳、中岳、南岳。さらに大キレットを越えて北穂高、奥穂高などの穂高連峰が、まさに指呼の間といえるほど近くに見えます。私などはそうたくさん山にくることはないと思いますから、大変貴重な体験をさせていただきました。同行の仲間に感謝です。

ただ、これは完全に個人的な反省なのですが、(最初の日の)寝不足と強い日射で、2日目はかなり疲れてしまい、休みながらの常念小屋到着になってしまいました。頂上付近は破砕された石の山で日差しを遮るものがありません。以前もありましたが、私は汗をたくさんかきますので疲労が激しいようで、今後のことを考えるとこうした厳しい登山では、2日以上の行動が心配になってきました。

雄大な写真も撮りましたが、それはみんなどこかで見たような感じがします。上の写真は下山時(一ノ沢)の最後に登場する「山の神」というトチノキの巨木です。

正福寺の千体地蔵2018年08月13日 14:04


東京都下の東村山にある正福寺の地蔵堂は関東地方では数少ない国宝に指定されている建築物です。聞いてはいましたが、こうした面に詳しい方の案内で始めて訪れ、ちょうど8月8日の施餓鬼供養の日であったことからお堂の内部を見学することができました。この地蔵堂は、本尊の地蔵菩薩の周りに、多くの人々が寄進した小さなお地蔵様が並んでいることから、地元では「千体地蔵堂」といわれています。

地蔵堂に赴く前に、東村山市立の「ふるさと歴史館」に立ち寄り、学芸員の方に、この「千体地蔵堂」について詳しく解説していただきました。地元の宝ということで歴史館内には「千体地蔵堂」の精密な模型が内部構造までわかるように展示されています。そこで、桁行三間、梁間三間という格式と伝統による大きさや一重裳階(もこし)付,入母屋造,こけら葺, 裳階銅板葺附(つけたり)という建物の概要がじっくりと理解できました。また、垂木の組み方の特色、美術的な鑑賞の仕方も教えていただきました。

昭和9年の改修の際にこの垂木の中から発見された墨書銘により、この地蔵堂は室町時代の応永14年(1407年)の建立とわかり、鎌倉の円覚寺舎利殿とともに禅宗様建築の代表的遺構として国宝建造物として指定されたとのこと。それまでは、鎌倉幕府第8代執権の北条時宗が鷹狩りの折病気になり、夢枕に黄衣をまとった地蔵菩薩が現れ、丸薬をいただき、眠りから覚めたら病いが治った。そこで地蔵尊を敬い、弘安元年(1278年)この地蔵堂を建立したという寺伝があったそうです。

鎌倉時代の時宗伝説はおくとしても、この地に、これほど古くから、格式の高い地蔵堂と当然それにふさわしい寺院があったことになります。鎌倉街道が通り、古代から、東海道と東山道を結ぶ文化伝播の土地であったのでしょう。

当日は台風の風雨が予想されるなかで、短時間の内部公開にうまく出会うことができ、うす暗い堂内でしたが、錫状を持ったおなじみの地蔵菩薩を中心に、左右に、これは現代につくられた木製のケースの中に、掌に納まるような小さな地蔵菩薩が整然と鎮座する姿を拝見いたしました。いずれもなにがしかの願いや御礼の気持ちが込められたお地蔵様なのです。

もう一冊の『平家物語』2018年08月28日 14:32


今年の2月に覚一本の『平家物語』を読み始めたことをこのブログで報告しています。それから半年、この7月にやっと最終巻「灌頂の巻」に到達しました。振り仮名や解釈の助けになる注釈はついていますが、本文は原文のままなので苦労するかと思いましたが、案外楽しんで読み進んでいけました。かなりの現代語訳のついた、いわゆる「一二〇句本」をすでに読んでいたこともありますが『平家物語』そのものが語り物として成立したということもあって、現代の読者から見てもそれほど難解ではないということでしょう。

案外困ったのがごく簡単なこと、例えば、「おぼし飯し」の「飯」には意味がないなどいうこと。このへん、古典文学の基礎知識は必要だったかもしれません。この読書の最中、つねに参照したというようなことはありませんが、「手引書」として手元においてときおり目を通していたのが石母田正著の『平家物語』と杉本秀太郎著の『平家物語』の2冊です。みんな同じ書名でややこしいのですが、二人とも書名はこれしかないと考えたのでしょう。

石母田正著の『平家物語』は著者が著名な古代史研究者で古典文学愛好家です。1957年(昭和32年)に発行されていますが、論理的な内容と明解な文章によって60年以上を経た今なお必読の研究書としての読者を引き付けてます。名著ですね。

杉本秀太郎著の『平家物語』も最初の雑誌連載が1988年(昭和60年)ですから、すでに30年以上前のことになります(連載は7年間)。杉本秀太郎氏もフランス文学が専門とは思いますが、日本古典への造詣も並みではありません。ただし、この『杉本平家』は研究書でも読書案内書でもありません。『平家物語』という膨大な作品を、自らの爼の上にあげ、古今東西の歴史を超えて縦横無尽に論じた文化論であり、かつ絶妙のエッセイでもあります。文学といってもいいでしょう。表題のもう一冊の『平家物語』とは、この『杉本平家』のことになります。

覚一本の『平家物語』を読んだあと、ここでもう一度落ち着いてこの杉本秀太郎著の『平家物語』を読んでみました。そしてあらためて『平家物語』の奥行きの深さ、隠された背景と事情、そこに登場する人物の時代を超えた普遍性―欲望と葛藤が少しだけではありますが、わかった気がします。

いくつか例をあげると、第4巻の「競(きおう)」の段。重盛、宗盛、仲綱など全盛期の平家の公達が登場するよく知られた話ですが、宗盛は気に入った競(この美男の新参侍を、と杉本秀太郎は注釈)を何度も呼び寄せます。ここに男色という表に出にくい事情があることを杉本氏は見逃しません。正当の覚一本ではいわれないと気づかないかもしれませんが、実は『平家物語』にはこうした隠微な世界が隠れているようです。

ついでに当時の好色の世界ものぞかせてくれます。「灌頂の巻」は後白河上皇が隠遁している健礼門院(徳子)を訪ねるという有名な話ですが、その理由のひとつに健礼門院に対する後白河上皇の愛着であったことが他の流布本には示されているとのこと。これは正当派『平家物語』だけではなかなかわかりませんが。この時、健礼門院は三〇歳で、後白河上皇は五九歳です。現代から見ればまだまだ元気な男女ですが、健礼門院はこの数年後に亡くなっていますから(異説もあります)この時点でも相当な心身(容色)の衰えがあったのかもしれません。

もうひとつ、『平家物語』に登場する人物で(特に埼玉県では)熊谷次郎とともに名高い斉藤別当実盛の話があります。これも通常は、実盛は、富士川合戦での敗退の恥辱を注ぐべく、また老武者と侮られないように髪を黒く染め必死で闘った武士ということが称賛されていますが、杉本氏によれば「これが潔いことだろうか」となります。実盛は、ただ「身を忘れて」死に場所を求めたにすぎないのではないか。さらにそれに重ねて、平家の作者は物語の構成上「昔の朱買臣(漢の武将)は錦の袂を会稽山に翻し、今の斉藤別当はその名を北国の巷にあぐとかや」という対句証言を成り立たせるために、実盛に錦の直垂や萌黄色の鎧をまとわせ、凄惨な最期を飾り立てたのだろうと推測します。

実盛に限らず、『平家物語』は後半に至って、頸をかかれ、斬首され、さらに自害する平氏の武将の挿話が相次ぎます。いすれもこの物語を琵琶法師が大衆に哀調深く聞かせる芸能とみれば、こうした通俗にうったえる場面も当然のことではあるのでしょう。しかし、杉本氏はこうした美的に構成された(ある意味で作り物の)残酷な場面が続くこの箇所で「『平家』の語るがままを辿り返すのが徒事に思えて往生している」「(名誉の死など)うとましく思う気持ちを抑えることができない」とも語っています。

京都でももっとも古い民家のひとつの生まれである杉本氏は、遠く過ぎ去った『平家物語』の世界を、自らの時代意識の中で共感し、登場する人々をまるで血肉のように感じる感性があるかもしれません。他に、大松明と称して民家に火をつけてしまう義経を「好きになれない」というのもそのひとつでしょうか。

なお、この『杉本平家物語』は雑誌(講談社の「本」)連載時から安野光雅の挿絵が添えられています。しかもこの杉本氏の連載自体が安野氏の構想だったと「あとがき」で氏が明かしています。上の図はその安野光雅著『繒本平家物語』(講談社)の中の「大仏炎上」の場面です。図柄の全部でなく、申し訳ありませんが、使用させていただきました。

大菩薩山で「峠」を実感2018年08月29日 17:56


大菩薩峠は奥多摩方面と甲州(塩山)をつなぐ青梅街道の途中にあり、歩いて移動する昔の旅人にとっては最大の難所だったようです。今回、この大菩薩峠を「街道歩き」ではなく登山で訪れました。いつもの山の会の山行。登山の目標は正確には峠の少し先の大菩薩嶺(大菩薩岳)で、日本百名山のひとつでもあります。、

午前8時過ぎにJR甲斐大和駅に到着。大菩薩峠は気軽に登れる山として人気があり、山小屋もたくさんあるので多くの人が訪れ、駅前から観光用の路線バスも出ています。われわれもこのバスに乗って、笛吹川の支流である日川に沿って、曲がりくねりながら高度を上げていく山道を50分程走行、途中の「丸石峠入口」で下車しました。この一帯はカラマツの林に囲まれた自然観察歩道になっています。登山道はこの道路脇から始まっています。

9時前、登山開始。すぐに林道跡(廃道)に出ます。たぶんここで1300メートル以上の高度があるはずで、この日も猛暑だった下界に比べると気温はかなり低いものの湿度は高く、細かい雲霧が立ち込めて視界を遮っています。途中、晴れていれば絶景と思われる場所も何カ所かありましたが、われわれは近くの樹木や草花だけを眺めながら淡々と歩いて10時18分、大菩薩峠への分岐となる石丸峠に到着です。さらに10時56分、介山荘と思われる大きな建物が見え、大菩薩峠に到着とわかりました。

峠の高度は1897m。ここまで上がってくると雲霧も晴れてきて、特に、北東側の奥多摩渓谷方面の様子はすっきりと見えました。塩山の市街地方面も視界が良好で、ここが重要な峠道であり、多摩川流域と富士川流域の分水嶺であることもよくわかります。ここに建つ介山荘は小説「大菩薩峠」を書いた中里介山を記念してつけた名前と思いますが、この日もたくさんの人が休憩していました。

大菩薩連嶺(山地)の最高峰は大菩薩嶺です。そこを目指して峠を過ぎ稜線をゆっくり登ってゆくと「賽の河原」とよばれる場所がありました。昔の峠はここだったそうです(上の写真))。さらにその先を進んだところにごつごつした大岩があり、その下で大勢の人が休憩していました。雷岩です。雷が落ちたのか、誰かが雷に打たれたのか、下りの上日川峠への分岐点でもあります。

一帯は南西方面に大きく開けた平坦地で、眼下の森の中に大菩薩湖(ダム)が見えます。その上には雲がわいていますが、上空の風が強いのか、形が変わり、ときおり富士山の頂上付近が紺色の影のように出現します。今日はこれで満足です。大菩薩嶺(大菩薩岳)はすぐ上、丈の高い木々に囲まれた静かな場所でした。

名栗川上流の獅子舞2018年08月31日 13:28


大菩薩峠から奥多摩の深い谷を眺めたのが8月24日。。その谷間から北へひと山を越すとそこは荒川流域である入間川の谷になります。この付近では名栗川といいますが、翌日、その最上流域にある下名栗地区の諏訪神社で行われた獅子舞を見ました。気温37度にもなろうというこの日でしたが、埼玉県立歴史と民俗の博物館友の会の「お祭り研究会」という酔狂な団体が開催した見学会です。

獅子舞というのは日本で最も多い無形民俗文化財だそうです。朝霞にもありますね。ただ県レベルの指定はあまりありません。この下名栗の獅子舞は江戸時代、奥多摩の高水山(高水三山)から伝わったという言い伝えがあり、奥秩父地方の山村で古くから行われてきた行事だと思われます。

毎年、8月の祭礼の日、村(今は飯能市)の中央、名栗川渓谷に沿って並んだ丘陵の中で見た目にもきれいな三角形の杉に覆われた小山の麓にある諏訪神社。そう広くはありませんが、境内すべて使って行うかなりおおがかりな催しです。普段は閑散としていると思われますが、この日は車椅子に乗った高齢の方から若い母親に抱かれた幼児まで、常設されているスタンドや臨時の桟敷がいっぱいになるほどの人出です。

ここの獅子舞は雄獅子が2頭、雌獅子1頭、これは腰に太鼓を持っています。他に、華やかな花飾りをかぶって「ささら」と呼ばれる楽器で調子をとる女性が3名、子供もいます。他には神社本殿上では神楽囃がならび、ゆるやかな雅楽を演奏します。こうした中で「解説」によると、川を渡ったり、雄獅子と雌獅子の掛け合いなどの簡単なしぐさが延々と続きます。1つの演目がかなり長いので見ている人は退屈しますが(おまけにこの日の暑さです)。数十年以上前までの村里の祭りの雰囲気はこんなものだったのでしょう。

2日連続の早起きでやや疲れました。