梅雨空のハスの花2018年07月07日 20:15


しばらく真夏の暑さが続いていましたが、7月の2日からは台風の影響もあってかまた梅雨に逆戻りの天候。そんな中である会主催の「まち歩き」が川越で行われました。今回は「雨天中止」でも「雨天決行」でもなく、参加を個々の判断に任せるという方法をとりましたが、問題の天候は悪化、雨か曇りか予報が続き、前日はとうとう「雨」になり、当日も小雨が降り続いている状態でした。そのため、申込者は35名あったのですが、最終的に来るのは5、6名くらいかなと悲観的な予想を立てていました。実際には14名が参加。奇特というか熱心というか、驚きました。

この日は、先日このブログで紹介した川越郊外の伊佐沼でハス(古代ハス)の花を見るのがメインです。バスで沼近くまで行き、広大な水田の中を伊佐沼用水沿いに歩いて、沼の畔に建つ薬師神社に到着。元はお寺で、明治の神仏分離の際に廃寺になり、薬師神社と称するようになったそうで、神社の横にお地蔵様という日本的に楽しい場所です。さて、ハスの花は、咲いていました。水面から絵に描いたように大きな葉と花を伸ばしています。一面の緑の中の赤桃色の大きな花弁がいいですね。仏教的というか熱帯アジア的な情緒と美しさを感じます。雨の中ですが、葉も花も実に鮮やかです。

次いで、川越市立博物館。ここでは川越城のジオラマや川越城の書かれた江戸城図屏風(レプリカ)などが見られました。このあと、川越城の遺構である本丸御殿、三芳神社に残る土塁のあとも見ましたが、やや離れた小高い丘にあったというる三層の富士見櫓の跡が、いかにも城跡という感じがして印象深いです。

十勝岳で大火口をのぞく2018年07月16日 17:09


おなじみ地元の山の会が企画した7月8日から4日間の北海道・大雪山登山ツアーに参加しました。出発前から最終日の羽田着まで予想外の出来事やハプニングの連続でしたが、登山計画自体は悪天候の中、予定通りに終了しました。その模様は山の会のブログに書きましたのでご覧ください。(http://00418964.at.webry.info/

この登山ツアーの中で感じたことをいくつか。まずうれしかったこと。旭岳もそうですが、特に十勝岳登山で、活火山の象徴である噴火口を間近に見られたことです。望岳台登山口から石ころだけの急坂を登ること1時間45分、巨大な火口の縁に出ました。(上の写真)左に擂鉢火口、右にグラウンド火口です。十勝岳火山群中央部というそうですが、火口グラウンド火口の先には中央火口があり、擂鉢火口の縁を逆に進めば昭和火口の噴気が確認できるのでしょうか。目の前には槍のように切り立った十勝岳の主峰がそびえています。この日(7/10)は天候が悪く視界もよくなかったのですが、ときおり霧が切れて火口全体が見渡せます。植物の姿はいっさいなく火星のように荒涼とした世界が続いています。私はなぜかこういう風景が好きで、これは感激でした。(なお、擂鉢火口の長径は約400メートル、グラウンド火口は約800メートルです)。

次に印象に残った自然は1日目(8/9)の旭岳~黒岳縦走で遭遇した雪渓です。特に旭岳の北東斜面、同じく北鎮岳北東の大きな雪渓、実は初めて見る本格的な雪渓でしたので新鮮な光景でした。雪渓といっても斜面に残った残雪と思いますが、ともに下りだったこともあって慣れない私はてこずりました。あとで知りましたが、雪渓の上は冬山に近いアイゼンが必要だったようで、4本爪の軽いものでは制御が難しかったのかもしれません。夏山を甘く見てはいけません。

最後に私の体力。1日目の縦走は8時間以上歩きましたが、それほど疲労は感じていませんでした。少し前の奥多摩の御前山から鋸尾根縦走のほうがよほど大変でした。しかし、2日目の十勝岳登山では、景観には感動しましたが、その後、足が続かず、上に書いた火口付近で景色を眺めながら休憩していました。私の体力は2日以上もたないのか! 情けないことでした。

中世の「道」に関する講演会2018年07月19日 14:35


埼玉県には「鎌倉街道」とよばれる古道がかなり残されています。私もつい先日の「まち歩き」で、毛呂山町に残された史跡「鎌倉街道跡」をたどりました(http://mylongwalk.asablo.jp/blog/2018/03/19/8806693)。この「鎌倉街道」については知りたいことがたくさんありますが、実際の東国の中世史の中でどのように成立したのか、どう位置づけされているかについてはよくわからないところがあります。そんななか。以前、朝霞市の講演会でお話をうかがったことのある高橋一樹・武蔵大学教授にまたご講演をしていただく機会ができました。

今年一番暑かった7月11日、大宮の埼玉県立歴史と民俗の博物館友の会講堂で、高橋一樹・武蔵大学教授による講演会「鎌倉期武蔵国の街道と人・モノ・文化」が開催され、150人近いたくさんの人が集まりました(上の写真)。

高橋一樹先生は日本中世史が専門分野です。旧家や寺社に残された文書を解読して中世の政治経済体制の研究を行っていますが、代表的な著作である『東国武士団と鎌倉幕府』の中で<陸・海・河の道と地域―当時の社会に特有の人やモノの移動と集散、その場の特質>を解明することを大きなテーマとして掲げているように、地域のつながりや当時の交通体系を明らかにすることによって新しい東国の中世史確立を目指しているように思われます。今回の講演会は当初、埼玉県の“古道歩き”としてポピュラーないわゆる「鎌倉街道」とは中世の政治経済状況の中でどのように成立したのかを知りたいという素朴に疑問だったのですが、講演を聞いているうちに、これは中世史の在り方に関係するような大きな問題なのかもしれないという感じがしてきました。なお、以下はこの日の講演の個人的な感想であることをお断りしておきます。

講演は詳細なレジュメにもとづいておこなわれました。最初に「私が著書『東国武士団と鎌倉幕府』で主張したかったことは<鎌倉ありき>で中世東国の交通体系を考えてはいけないということでした」と基本的な考え方が示されました。これがこの日の講演で高橋先生が一貫して述べていた考え方です。つまり、東国の街道・交通は鎌倉に政権が確立する以前もあるいは政権滅亡以後も存在していたということです。事例としては、古代の実際に使われた地図などによると相模から武蔵を通って下野や常陸に進む「東山道武蔵道」があったとこがわかります。これは古代の東海道と東山道を結ぶ道です。熊谷もこの道に接していたようです。

11~12世紀における南北ルートはこの「東山道武蔵道」だけでなく。相模国府→武蔵北西部(河越?)→下野にいたる幹線ルートがあったようで、陸奥までを視野に入れた東西交通の重要な役割を担っていたのではないか。このルートからわかることは、鎌倉は12世紀までの東日本における東西交通の体系から外れているということです。

これは頼朝による幕府開設が行われた13世紀以後になると都市的発展をとげる鎌倉を軸とした広域的な交通体系の整備不可欠になり、都市鎌倉を軸とした広域的な交通体系が完成し、上野―信濃―下総―常陸への放射状ルートの道路網が完成します。切通の工事と“鎌倉街道”、さらに海上交通路の整備が行われます。

河川・海上交通についても新しい視点から考える必要があり、武蔵方面の物流は府中から多摩川と東京湾を通って鎌倉の海岸に運ばれた可能性が大きい。板碑の材料の石材なども当然水上交通で運ばれたのではないか。都市鎌倉の前浜に武蔵守=北条氏の倉庫:武蔵国の国領から納入される年貢物の集積所があるが、多摩川~鎌倉・前浜という“海道”による武蔵からの物資=武蔵国から納入される年貢は大量かつ多様な布・米は船での運送が便利。多摩川の河口を鎌倉街道中道が通過した場所に丸子という地名(陸路と水路の結節点)が残り、古代の鎌倉道が多摩川と交差する地点にも中世から確認できる借宿(カリヤド)地名(現在は刈宿)が存在しています。

酷暑の日に至仏山へ2018年07月28日 16:11


熊谷で41.1度という最高記録をつくってしまった7月23日、おなじみ山の会で尾瀬・至仏山に登りました。2台の車で午前7時前、尾瀬戸倉に到着。晴れ、気温がかなり低い。その後の天候を考えると酷暑の下界より一足早く大気の入れ替えがあったようです。ここから約20分間、大型タクシーで移動。さらに標高をあげて1600メートル地点の鳩待峠に到着すると当然また気温は下がっています。

今回は尾瀬湿原にもいける山ノ鼻方面にいかず直接至仏山を目指しました。樹林帯に作られた登山道をゆっくり登ること約1時間強。下草のササが茂るシラカバの林を気持ちのいい風が吹いているという感じです。

9時半過ぎ、笠が岳方面への分岐を過ぎ、小至仏山から至仏山に至る岩尾根が青空に映えて見える見晴らしのいいお花畑に到着。ここには整備された木のテラスベンチが並んでいます。当然ここで休憩。タカネナデシコ、ハクサンチドリ、コバイケソウなどの高山植物のかなたに尾瀬ヶ原そして2つの耳を持った燧ガ岳の姿がはっきり見えます。

いよいよ山頂へ、蛇紋岩の入り組んだ岩場を乗り越えていきます。乾いているせいかそれほど滑りはしません。けっこう距離があり、いくつかの峰を超えて、登山客の姿が見え隠れする至仏山の頂上を目指します。11時過ぎ、到着。晴天で、風もあるので視界がよく、西方には八木沢ダム、東方には尾瀬沼とその彼方の燧ケ岳。さらに皇海山、武尊山も遠望できました。八木沢ダムは湖岸が白く、かなりの渇水状態であることがわかります。昼食休憩の人も多く、混雑していましたので写真撮影だけにして早々に下山することになりました。結局、先ほどのテラスまで戻って休憩することになってしまいました。

登りも特に疲労はなく、なにより天候・気候がよかったことで、楽しい登山になりました。