朝霞の琵琶湖?2018年04月09日 14:03


朝霞市にも『琵琶湖』があることは知っていました。ただし、地図の上ではその名前は記載されていません。なにより市民であっても自由に見ることができません。この謎の湖は陸上自衛隊朝霞駐屯地のなかにあり、年に数回一般公開されるだけだからです。

4月8日、今年も一般開放が行わているのということで、和光市駅から歩いて朝霞駐屯地にでかけました。実物の戦車や榴弾砲も並んでいる広報センターは何度か訪れていますが、その向こうの緑地に行くのははじめてになります。ただし、今年は桜の開花に合わせるという予定は完全にはずれ、緑地内のソメイヨシノはすでに新緑の街路樹になっていました。紅いボタンザクラと売店を載せたバスがわずかにお花見の雰囲気をただよわせています。

『琵琶湖』というのは通称かと思っていましたが、敷地内の道路に「琵琶湖南通り」の表示がありましたから、駐屯地内では正式名称かもしれません。芝生広場の西のはずれ、ケヤキやサクラ、ヒマラヤスギの大木に囲まれた林の中に「琵琶湖」はありました。規制線があって水辺までは下りられませんでしたが、幅100メートルくらいの細長い湖面が木々の間からのぞいています。予想以上に自然度が高く、良好な環境です。

たしか、この池は朝霞市と和光市の間を流れる越戸川の源流のひとつにもなっていたと思いますが、都市公園の一部にでもなっていればそれなりに「名所」になったでしょうが、他の例を見れば、汚染される危険もあったでしょう。自衛隊敷地の一部として残ったのはよいかわるいか、判断できません。

無人運転の「舎人ライナー」2018年04月10日 07:29


赤山街道という、江戸時代の関東代官・伊奈氏が整備した古道を歩く会の行事で、日暮里・舎人ライナーの終点に。駅名にもなっている見沼代親水公園(東京都足立区)は、利根川から流れ下った見沼代用水がこの付近の毛長川に流入する最終地点につくられた公園ですが、今回、注目したのは日暮里・舎人ライナーです。

この電車には以前にも乗車したことがあるのですが無人運転とは気がつきませんでした。日暮里駅からほぼ一直接、道路上を一脚高架に支えられて10キロあまり走ります。この区域は地図を見るとわかりますが東京都と埼玉県が複雑に入り組んだところにあり、東京の田舎といってもいいような、地味な場所です。荒川の低湿地帯でもあるところから20年くらい前まではかなり田畑の残る地域で、かつ、バス便以外の公共交通のない「陸の孤島」でもあったようです。

都営交通のひとつとしてこの日暮里・舎人ライナーが開業したのは2008年(平成20)。ほんの10年前です。その後、沿線の人口も増え、今ではかなりの利用度合いと思われます。特長のひとつは「ひとと環境にやさしい新交通システム」ということで自動運転を行う新交通システムということです。

このところ、自動車の無人運転が注目されていますが、専用軌道を使う、こうした公共交通システムが無人運転に一番適していることは明らかです。お台場を走る「ゆりかもめ」がその代表ですが、この日暮里・舎人ライナーも着実に実績を積んでいるようです。

先頭車両に乗ると、確かに運転席がありません。操作パネルのような機器が隠されている可能性はありますが、とりあえずは人が運転することは考えていないようです。確かに、高架を走る専用軌道で、交差する道路や分岐線もない、これ以上は単純化しにくい路線ではあります。ホーム上ではすべてホームドアと連動。どこかで人間が見ていることは確かと思いますが、慣れてしまえば、水平に動くエレベーターに載っているような感じで、違和感や恐怖はありません。

こうなると、私がいつも乗っている武蔵野線なども、ホームの改良工事を行えば無人運転ができるのではないかと思ってしまいます。乗降客数が圧倒的に違いますから車掌さんは必要と思いますが、同じ線路を走る貨物列車や快速電車などとの調整も含めて将来的には、少なくとも技術的にはできそうです。

電車の自動運転が技術的さらに経営的に可能となった場合、自動車の場合もそうですが、最後の悩みどころは、運転・操縦という「仕事」には「面白さ」や「やりがい」という、より人間的な価値があるのではないかという考え方です。人命を預かる公共交通にはそれは必要ないという意見もあるでしょうが、そうした大変な仕事だからこそやりがいを感じるのも人間なのです。

この日も先頭の席に座って楽しそうな子供がいました。あこがれてもこの電車は運転できないのです。

ミュージカル『李香蘭』2018年04月13日 18:20


風の強い日の夜、芝浦埠頭の自由劇場でミュージカル『李香蘭』を鑑賞。この作品は、1991年の初演以来、なんと900回近くの上演を重ねている、浅利慶太構成・演出のオリジナルミュージカルです。

日中戦争開始の昭和初年から太平洋戦争・日中戦争終結までの20年間を背景に、中国の歌姫として活躍した(日本人)李香蘭こと山口淑子の半生もとにした作品です。もちろん劇中のさまざまなシーンはフィクションなのですが、背景の歴史的事実はまるで歌う歴史年表のように細かく説明されていき、日本軍の強引な中国進出はややカリカチュアライズされて語られます。これが28年間続けられてきた演出の基本なのでしょう。

中心人物が李香蘭ですから、劇中でも、「夜来香」「蘇州夜曲」など彼女の代表曲が歌われますが、「海ゆかば」や「月月火水木金金」など、軍歌や戦時高揚歌もかなり登場、これが時代を象徴することになります。

冒頭と最後は上海軍事法廷で李香蘭が裁かれる場面。最後に裁判長は『憎しみに憎しみをもって報いれば悲劇は永遠に終わらない。憎しみに徳をもって報いよう。被告は無罪』という意味の判決を述べます。かなり明確なメッセージといえます。

会場は満員でした。私の様な中高年もかなりいますが、若い女性が圧倒的です。細かい歴史の流れの説明は正確に伝わっているでしょうか。写真はホームページから。当日のものではありません。

岩殿城2018年04月19日 20:47


ひと月ほど前のブログで伝えした中村彰彦氏の保科正之に関する講演(http://mylongwalk.asablo.jp/blog/2018/03/14/8803149
)の中で、山梨県・大月市にある「岩殿城」のことに触れていました。長篠の合戦で織田信長らに破れた武田勝頼が、その後、最後の砦として目指しながら力尽き、直前で自害したという悲劇の城です。この時の話は、後に信玄の娘で保科正之の養母になるという見性院に関するエピソードの一環なので、それ以上の説明はありませんでしたが、中央線沿いに何回か見覚えのある、あの岩殿山上につくられた古城の、空に向かって聳え立つ岸壁がまざまざと思い出されました。

その岩殿山にはじめていく機会がありました。とはいえ、634メートルの立派な山ですから要するに登山ということです。ただし、大月駅から山頂付近まではそのほとんどが階段で、市街が一望できる城址は、桜祭りが行われる市民の憩いの場のようです。いまはそうしたのどかな場所ですが、江戸時代初頭までは、眼下を行く旅人や兵士を監視し、他の城が落ちれば籠城の場ともなるという命がけの戦闘の場であったわけです。

思えば、ここを通る甲州街道は、東海道や中山道に比べて歴史の前面に出ることが少なく、江戸五街道のひとつでありながら、うっかりすると中山道の脇往還扱いされることもあります。しかし、山と谷の、この厳しい大自然を越えて走る街道は、今でも、中央線沿線の山々を愛する人たちばかりでなく、多くの人の夢を誘うものがあります。

上の写真は、岩殿山で有名な「稚児落し」の難所と思しき場所。多くの人が訪れる観光地になっていては危険度が低くなっていくのは致し方ないことでしょうか。なお、岩殿山は、昨年夏の豪雨災害で岩山の一部が崩壊し、公園の水道も水が出なくなっています。規模は違いますが、先日訪れた埼玉県・鳩山町の「おしゃもじ山」も山体の一部が崩れ土砂がむき出しになっていました。最近の異常気象のすさまじさの事例を見ているようです。

川越の伊佐沼2018年04月25日 17:56


思ったより広いという印象。曇り空の下で水面が白く光っている―伊佐沼です。川越のはずれに大きな沼があるということは子供のころから知っていました。地図を見ると、私が利用していた川越線の日進という駅から2つ目(現在は3つ目)の南古谷駅のほぼ真北2キロメートルほどの距離にあることが簡単にわかります。しかし、どういうわけは大宮にいたころも朝霞に移ってからも縁がなく、この沼を見たことがありませんでした。

「川の県」とかを標榜している埼玉県ですが、河川敷の広さを河川の面積とすれば確かに間違いではありません。もうひとつの内水面である「湖沼」については、おおきなものはそのほとんどがダム湖や灌漑用の溜め池など人工的湖沼です。これに対して伊佐沼は改修を繰り返してはいますが、基本的に自然湖沼と思われ、27ヘクタールの水面積で、埼玉県では最大です。かつてはこの2倍の広さがあったとのことです。

この沼に行く方法については、上に述べたように川越線の南古谷駅からまっすぐ歩くのと、あとは、これが普通になりますが、川越駅からバスで入口まで行くという2つがあります。この沼を「まち歩きの」対象にできないかということで、先日、出かけてきました。行きは川越駅から喜多院付近まで行き、あとは約30分、ひたすら歩きました。このコースは(逆でもいいですが)川越の街あるいは川越城が武蔵野台地の上に位置していることを実感できます。

そしてこの台地の外縁をぐるりと囲んでいるのが新河岸川です。この川はかつて伊佐沼から流れ出していたといいますから、かなり広い低湿地が川越城の周りを囲んでいたことが想像されます。初雁城という川越城の別名も湿地に群れる水鳥にちなむものです。

これからの田植えの季節に向けて、沼は水をたたえ、夏には古代ハスの花が咲くということです。帰りは伊佐沼から南古谷駅に向かい水田地帯の中の一直線道路を歩きます。これも約30分です。周囲の田園は広大で、まもなく、広大な水田中に青い稲の葉が揺れる光景が見られると思います。難をいうと意外に車の行き来があるということです。16号線へのバイパス、近くの病院への通院ということでしょう。