また『八月の光』2022年07月01日 21:32


6月に梅雨が明け、続いて暑い日が続いています。このブログでこれまでも何回も触れているウィリアム・フォークナーの小説『八月の光』ですが、タイトルに影響されているわけではないものの、なぜか、真夏になると思い出してしまいます。真夏以上の過酷な太陽が照り付ける中で、他にすることもない日と時間を選んで、この小説をはじめから静かにゆっくりと読み返しています。ただし以前に通読している加島祥造氏訳ではなく、2016年に出た諏訪部浩一氏の訳によるものです。難解で知られるフォークナーの小説ですが、「とにかく読みやすい訳を」と要請されたこの翻訳をどう感じるか、じっくり楽しみます。(上の写真は、埼玉県内の複数の地点で40℃を超える気温を記録した日の太陽)


以下は、2008年10月と2018年02月の2つの時期に書いていた文章です。多少の修正を加えながら残しておきます。


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アメリカの大統領選挙で、黒人系のバラク・オバマ候補がやや有利な闘いを進めているそうです(2008年10月時点)。比較的、人種差別意識のない現代の日本人はあまり意識しませんが、このことにアメリカ社会の大きな変化を見ている人は多いと思います。思えば、黒人の公民権運動を率いていたマーティン・ルーサー・キング牧師が暗殺されたのが1968年、50年前です。ほんの2世代前にもならない時代には、黒人を同じ人間と見ない白人が大多数だったのです。それくらい50年間の変化は大きいのですが、それでは、さらに、その50年前にはどうだったのか。ウィリアム・フォークナーの小説『八月の光』がそれを示してくれます。


1920年代の貧困と宗教戒律、人種偏見に満ち溢れたアメリカ南部の街、ジェファーソン。逃げた婚約者を追い求めるアラバマの田舎娘リーナ・グローヴ。やさしく、気の弱いバイロン。世間から隠れて生きる牧師のハイタワー。リーナから逃げまわるだけのルーカス・バーチ。豪邸でひとり暮らす中年女のバーデン。そして、その中心にいるのは、職をもとめて放浪する、見た目は白人だが黒人の血をひく孤児のジョー・クリスマス。彼とそれをとりまく人間たちが、濃密で、深い闇のような感情と人間関係をもつれ合わせていくなかで、巨大な渦がゆっくりと回転するように時間がすぎ、やがて凄惨な殺人事件がおきます。それはこの小説時間のなかでは予想された事件であり、当然のようにジョー・クリスマスはつかまり、リンチを受け殺害されます。そして最初の登場と同じように、陽気なリーナ・グローヴの旅が始まるところで物語は終わります。


黒人の血をひきながら、見た目は白人の孤児というジョー・クリスマスの二重、三重に複雑な生い立ち。多分、これは百年前の南部アメリカでは決定的なことだったのでしょう。また、こういう主人公を設定することが、人種差別という一見わかりやすい問題の根本に、人間の存在にかかわる、単なる見かけ以上の深い何かがあることを示すためにも必要な状況だったのだと思われます。最初にもどると、確かに表面的には、アメリカに黒人系の大統領が生まれるかもしれない現状は100年前には考えられないことでしょう。(しかし、すこし深く見てみると、中南米や中近東民族に対する新たな差別が生まれ、また、オバマ氏がアメリカ上院議員で唯一のアフリカ系黒人であることにも示されるように、実はみかけの上でも差別がなくなる日はまだまだ遠いようです)また、この小説に示されたような人間の不可解な行動は、いまでもどこかで起こっているのです。この小説がもつ本当の価値は、そこにあると思います。


ただし、『八月の光』は、哲学書でも心理学の本でもありません。無類の面白さを持つ小説です。それぞれに圧倒的な存在感を持つ人間たちが織り成すこの物語は、読むたびに私たちをその中に引き込む不思議な魅力を持っています、


私の印象に残っている場面がいくつかあります。


冒頭、製材所で働く人たちの前に風のように現れるジョー・クリスマス。多分、この時代には、こんなふうにして各地を放浪して歩く男たちがいたのでしょう(スタインベックの『怒りの葡萄』はその10年ほどあとに出ますが、社会状況は似ています。ちなみに禁酒法の時代です)。この登場の仕方がとてもうまい。何度も読み返しましたが、そのたびに感心します。


深夜、ミス・バーデンの屋敷に忍び込んだクリスマスは食堂に自分のための食事が用意されているのに気づく。彼は、それをすべて床にたたき落してしまう。そして最後に暗い家の中で、床に落ちた食べ物を手にとって口に入れる──。


自分を理解しようとし始めたミス・バーデンを殺し、家に火をつけ逃げるクリスマスは、行く先々で人々が自分を恐れているのを感じている。ある男女から奪った車に乗るとき、彼は自分が大きな銃をもっているのにはじめて気づく──。これも逃亡しながら、クリスマスは川のそばの草むらで髭をそり始める。ポケットからかみそりを取り出し、水たまりに写った自分の顔を見ながら髭をそる。まるで社会への参加儀式であるかのように──。


もちろん、これは私の個人的な趣味で、これらの場面が特に重要ということはないと思いますが、こんな箇所をあげていくときりがありません。こうして、八月の光のなかで、静かに悲劇と喜劇が進行していきます。Light in Augustとは、真夏、特に八月のミシシッピで年に数回あるという不思議な光に満たされた日のことだそうです。日本でも晩夏になると、地上は夏なのに空や大気だけが秋になっているという日がありますが、そんな感じなのでしょうか(私はこの言葉に、暑く乾いていながら不安に満ちた静かな雰囲気を感じています)。


個人的なことですが、私は、真夏。ことに暑さが頂点を迎える昼間、厳しい陽差しの中を歩いているとき、私は、かならずといってよいほどこの『八月の光』という言葉を自然に思い浮かべています。小説の強烈な印象と「真夏」そして「八月」という言葉が私の中で結びついて存在しているようです。


小説的技巧という意味では、まず、心の動きをあらわす内的独白があります。ときにあらわれるこの独白で、小説時間の進行は止まり、一人称の文体は読む者を一気に主人公に感情移入させます。使い方はかなり難しいと私は思いますが、これが、この小説の強い印象の理由のひとつになっていることは確かです。この内的独白部分は原文ではイタリック体ですが、日本語版ではゴシック体になっています(日本語にも欧文のイタリックに相当する一種の軽い書体がほしい!)。


次にやはり大きいのは、複数の物語が同時に進行していく形式でしょう。それぞれの物語の中で、登場人物はお互いに関係するようでいて、最後まで関係しなかったり、思いもかけない方法でかかわったりします。これはフォークナーの究極的に描きたかったものが、ひとつの時代やひとつの街(地域)であり、その中で展開される人間の営み、いってみればひとつの小世界であるということを示しているように思えます。


作者であるフォークナー自身、まるでこの小説のジョー・クリスマスのように、数々の職を転々とし、激しい肉体労働をしながら小説を書いていた時期もあったそうです。そして、自分の作り出した架空の町=ジェファーソンを舞台に、アメリカ文学という枠をはるかに超えた、この不朽の名作を完成させたのです。


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オバマ大統領の誕生の記事から10年がたちました(2018年02月)。2期8年の任期を終えたオバマが去り、かわりにドナルド・トランプという70歳を超えた白人がアメリカ合衆国の大統領になっています。この大統領は「アメリカ第一」を掲げていますが、それは「白人第一」とも聞こえます。それは、白人のつくりあげたアメリカ合衆国でが、「黒人」というかつての差別された人種だけでなく中南米系のヒスパニックと呼ばれる「ラテンアメリカ出自の人種」や「アジア人」も増加し、純粋な白人系が数の上では少数派になる事態も予想されるようになったことと無関係ではないでしょう。そして「白人の権利」を主張する、かつての差別とは違った意味での白人優越主義が台頭しています。こうした人種の複雑さばかりではなく、広い意味の性差別、障碍者差別が本音と建前のを混同した形で議論され、そこに人間が根源的にもっている優越感や劣等感が一緒になって、日本においても清潔できれいな外見の下でいつまでも流れ続けているようです。


ところで、『八月の光』の背景になっているのは1920年代、つまり100年前のアメリカです(小説の発表は1932年)。この小説の主要な登場人物であるジョー・クリスマスは「白人の女性と黒人の男性」の間に生まれた私生児で、両親はおろか自分の出生についてもなにひとつ知りません。これは小説の随所で暗示的にあるいは明確に示されています。一見して人種差別が悲劇の原因であることはわかります。しかし、この小説は単に人種差別というより、人間の生きることにかかわる根源的な問題―自分が何ものかを知らない悲劇―をテーマにしているのです。自分が何ものかを知らない悲劇とは、一瞬も安住の時間がない永遠の孤独ということです。私たち―社会の中に適合して暮らしているわれわれは、自分の外側にいる何かに無意識に頼っています。それは、親や兄弟といった親族や地域社会さらにいえばその外側に連なっている所属企業やサークルや国家に至るまで共通する何かに守られているという安心感です。しかし、そこに何かの疑問をもったとき、あるいはこれは想像するしかありませんが、はじめから「そこにいることができない」立場だったときの恐るべき孤独感と不安、これは常に文学のテーマになります。

夏に咲くバイケイソウの花2022年07月13日 14:02


7月中旬に北アルプスに行く予定がありますので、その足慣らしということで、おなじみの高尾山に登ってきました。今年の異例に早い6月下旬の「梅雨明け」とそのあとの強烈な暑さ(というより熱波)がひと段落した日に思い立ったのですが、事前予想での天候は晴れ時々くもりでしたから悪くはないはずが、なぜか稲荷山の登山道を歩き始める午前7時過ぎにはあやしい雲行きになり、縦冠に雨粒の落ちる音も聞こえてくるようになってやや焦ります。それでも天候は徐々に回復してきましたが、前日までの「戻り梅雨」の影響でじっとり湿った赤土と岩。その上を這いまわる木の根というのが登山道なので仕方ありませんが、気を遣います。増えてきた木道も濡れると案外に滑りやすいものです。この天候のせいか、暑さのため、高尾山にしては人が少ない印象です。


高尾山ではいつも込み合う山頂に寄らずに巻き道を通りて小仏城山までの静かな縦走路を歩きます。城山から先は小仏峠から旧甲州道を下るか、少し頑張って景信山まで足を伸ばして下山道を下りるというのがいつものパターンです。この日も、同じように進んでいると一丁平前の急坂にバイケイソウの花が咲いているのが目に留まりました。どうも夏の初めに咲くようです。今年は暑さという点ではすでに盛夏の雰囲気がありますが、実際の季節はまだ初夏といってもいい時期です。


バイケイソウはユリ科だそうです。大きく長い葉が特徴的ですが、どうも有毒成分が含まれているようで、厚労省のホームページの中の「自然毒のリスクプロファイル植物」には以下の記述があります――太く直立した茎に楕円形の大きな葉をもち、初夏に緑白色の花を多数総状につける。(略)不快な苦みがあることも特徴。全草に有毒アルカロイドを含有し,加熱しても毒は消えない。誤食すると嘔吐,下痢,手足のしびれ,めまい等の症状が現れ、死亡する危険もある――なにやら恐ろしいですが、おそらくこの毒成分のためでしょうか、自然界ではシカの食害から免れているようで、下草がすっかり食べつくされた山でもこの草が残っていることが多く、植物にうとい私でもわかるほどです(それでも他に食べるものがないと、シカはバイケイソウの新芽や猛毒で有名なあのトリカブトの茎なども食べてしまうそうですから、これはシカのためにも自然のためにはなんとかしないといけない問題と思います)。


しかしあらためて見てみるとこの花はとても美しいです。すっきりと伸びた長い茎の上に、自然な白色の上品な穂と花が咲いているさまはいかにも自然の造形の典型という感じです。気が付くと他にもバイケイソウが幾株もあります。高尾山から小仏城山に向かう道にはもう少しするとヤマユリがたくさん見られるようになりますが、これは多分人工的に植栽した可能性もあります。ヤマザクラが植えられているのもたぶん植栽でしょうが、有毒のバイケイソウはまさか植えたりしないとは思います。


特に変わったこともない山行でしたが、思いがけず、バイケイソウの花が見られました。その近くではハンゲショウの葉も見かけました(下)。半夏生とか半化粧などという文字が当てられているように、花の周囲の葉っぱが半分以上、白く変色するので「半分、化粧」ということだと思います。これも初夏の季節を印象付けるもので、これは俳句から学習しました。



しかしこれからの暑い季節、低山に登る人も少なくなります。汗をかきながら歩いてくる登山者にはなんとなく親近感がわいてきます。