敵討ちで寺社巡りの謎 ― 2026年03月21日 14:06
われわれは今でも旅行や見学会というと、目的地でなくてもその行程の中にある有名な神社やお寺にお参りします。近くに出かけるときでも、ごみごみとした人出の多い場所や施設を敬遠するようになると、特に理由はなくともその地域の寺社にいくことがあります。現代人にとっては古い歴史や文化財・自然に触れるような思いがするからだと思います。昔のひとはどうだったかというと、江戸時代の名所絵図などを見ても、各所の風景や自然とともに神社仏閣をたずねてあるくということが多かったようです。ただしそこには明らかな時代による目的の違いがあるようです。
現代人は寺社に自然や清らかさ、静寂といった精神的な慰めの要素を求める割合が高いでしょう。しかし江戸以前の人たちにとっての寺社仏閣参りにはもっと切実で直接的な要望・願いがあったのではないでしょうか。例えば寺社の境内で定期的に開かれる縁日などの市場には普段購入できない工具や資材、珍しい食べ物を扱う屋台が並び、現代のデパートや専門店のような役割があったことが想像できます。これは1950年代くらいまで続いていたかもしれません。
さらに、これは現在ではほぼ「お遊び」の領域になってしまったような「占い・お神籤」や「お守り」の価値が想像以上に高かったことです。病気を直す医学が不十分で、広範なコミュニケーション手段も皆無の時代、不安を解消し、何かを求めるには寺社の神託にすがる以外にありませんでした。
もうひとつ、現在ではあまり意識されませんが、寺社地というは人々を引き寄せる特別の空間であったことです。人びとが自分の村や町を離れることは難しく、広範な地域を結ぶ交通機関もありませんでした。人々が集う日常的に出会う場所もありませんでした。そしてそこは同時に多くの情報が集まる場所でもあり、群れ集う人たちに訪ね、噂話に耳をすませば、現代人がテレビやネットで得るような情報が得られたに違いありません。
ひとが情報を求める必要性―そのもっとも切実なのが誘拐された子供や失踪した親兄弟の捜索そして犯罪者被害者による「犯人捜し」でしょう。森鷗外に『護持院原の敵討』という短い歴史小説があります。敵討は「かたきうち」と読み、仇討ち(あだうち)ともいいますが、江戸期には「主君や直接の尊属を殺害した者に対して個人的に復讐を行う日本の制度」とされ、武士には条件により公権力から正式に認めれていた行為です。しかし、この敵討の難しさはなにより目的の敵である人間をどう探し出すかという点にあります。警察力による捜索がない時代、どうのようにして目的の人間を探し出すのか。この小説には敵を探す旅で日本中を放浪するさまが描かれていますが、彼らがよりどころとしたのが各地のこうした神社仏閣でした。
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小説では、姫路城主酒井雅楽頭の江戸上邸の大金奉行、山本三右衛門が侵入した盗賊により殺害され、その息子と姫路にいた三右衛門の弟、賊の人相を知る町人の3人が仇討ちの許可を得て出発します。特にあてはなく、上州方面という噂により、まず高崎に向かいます。本文からその後の捜索を追ってみます。
結局、高崎(上州)では足跡が知れないので、前橋へ出ます。藤岡に出て、五六日いた。そこから武蔵国の境を越して、児玉村に三日いた。三峯山に登っては、三峯権現に祈願を籠めた。八王子を経て、甲斐国に入って、郡内、甲府を二日に廻って、身延山へ参詣した。信濃国では、上諏訪から和田峠を越えて、上田の善光寺に参った。越後国では、高田を三日、今町を二日、柏崎、長岡を一日、三条、新潟を四日で廻った。そこから加賀街道に転じて、越中国に入って、富山に三日いた。木曽路を太田に出た。尾張国では、犬山に一日、名古屋に四日いて、東海道を一宮に出て、佐屋を経て伊勢国に入り、桑名、四日市、津を廻り、松坂に三日いた。松坂を立って、武運を祈るために(伊勢神宮に)参宮した。それから関を経て、東海道を摂津国大阪に出て、ここに二十三日を費した。その間に松坂から便があって、紀州の定右衛門が伜の行末を心配して、気病で亡くなったと云う事を聞いた。それから西宮、兵庫を経て、播磨国に入り、明石から本国姫路に出て、魚町の旅宿に三日いた。それから備前国に入り、岡山を経て、下山から六月十六日の夜舟に乗って、いよいよ(噂をきいた)四国へ渡った。讃岐国丸亀に着いた。文吉に松尾を尋ねさせて置いて、二人は象頭山へ祈願に登った。すると参籠人が丸亀で一癖ありげな、他所者の若い僧を見たと云う話をした。が、それは別人であった。
伊予国の銅山は諸国の悪者の集まる所だと聞いて、一行は銅山を二日捜した。それから西条に二日、小春、今治に二日いて、松山から道後の温泉に出た。中大洲を二日捜して、八幡浜に出ると 舟は豊後国佐賀関に着いた。鶴崎を経て、肥後国に入り、阿蘇山の阿蘇神宮、熊本の清正公へ祈願に参って、熊本と高橋とを三日ずつ捜して、舟で肥前国島原に渡った。そこに二日いて、長崎へ出た。長崎で三日目に、敵らしい僧を島原で見たと云う話を聞いて、引き返して又島原を五日尋ねた。それから熊本を更に三日、宇土を二日、八代を一日、南工宿を二日尋ねて、再び舟で肥前国温泉嶽の下の港へ渡った。長崎行の舟に乗った。長崎を立って、大村に五日いて佐賀へ出た。筑後国では久留米を五日尋ねた。筑前国では大宰府天満宮に参詣して祈願を籠め、博多、福岡に二日いて、豊前国小倉から舟に乗って九州を離れた。
周防国宮市に二日いて、室積を経て、岩国の錦帯橋へ出た。そこを三日捜して、舟で安芸国宮島へ渡った。広島に八日いて、備後国に入り、尾の道、鞆に十七日、福山に二日いた。広岸山の神主谷口某と云うものが、怪しい非人の事を知らせてくれたので、九郎右衛門が文吉を見せに遣った。しかし敵ではなかった。姫路を立って、明石から舟に乗って、大阪へ追いかけて往った。それからは三人が摂津国屋を出て、木賃宿に起臥することになった。もうどこをさして往って見ようと云う所もないので、神仏の加護を念じながら、日ごとに市中を徘徊していた。ここで息子の宇平が精神に異常をきたして行方不明になる。宇平を尋ねて歩く際に玉造豊空稲荷の霊験の話を聞き、頼んでみると「敵は春頃から東国の繁華な土地にいる。宇平の事は御託宣が無い」と云った。こう云っている所へ、一行は江戸からの便りを受け取る。「浅草でそれと思しき男の消息がみつかった」というものである。その知らせを受けて急いで江戸にもどり、浅草寺から両国の花火の日に敵を見つけ、助太刀と江戸にいた娘のりよが加わって神田の護持院原(現在の錦町辺り)で仇をうちます。
最初の太刀で切りつけたのが女性(被害者の娘)だったことでこの仇討ちは江戸で有名になり、助太刀をした叔父山本九郎右衛門によって綴られた「山本復讐記」が残っています。森鷗外のこの小説もこの記録をもとにしているとみられます。
お分かりのように、江戸の事件ですが、関東から甲州、信濃、尾張、大阪、山口、四国、九州と全国各地を移動して各地の目付で様子をきいたりしますが、その間に、書いてあるだけでも、三峯権現、身延山、善光寺、一宮、伊勢神宮、象頭山、阿蘇神宮、熊本清正公、大宰府天満宮、安芸国宮島、玉造豊空稲荷その地の有名な寺社に参拝しています。先に言ったように、行楽ではなく人の集まる場所で様子をうかがいまた神託を受けてその後の捜索の参考にしているのです。最後の玉造豊空稲荷のお告げは結果的に的中していたことになりますが、逃亡というのも意外に常識的なものなのかもしれません。
上の絵は歌川豊国の『両国花火図』(江戸東京博物館ホームぺージより)。当時の賑わいがわかります。こうした中で必死で人探しをする者もいたのでしょう。事件の起きたのが天保4年(1833年)12月の年末、仇討ちが天保6年7月の夏なので1年半程の意外に短い期間にこれだけの距離を歩いていることになり、交通や通信の発達具合もわかります。

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