立山で地獄・極楽の世界を満喫2022年10月16日 18:48


富山県と長野県の境に巨大な壁のように高く聳え立つのが立山連峰です。ここは、今でも日本の山岳アルペンルートとして最高のひとつですが、この山々にはもうひとつ、『立山曼荼羅』に象徴される山岳信仰の長い背景があり、その歴史的・民俗的な側面も、世界遺産になった富士山に負けないものがあります。登山自体が大衆化してしまった富士山と違って、立山は、車やバスで行けてしまう麓の室堂はともかくとして、代表的な三山参りだけでも体力的に大変なので、雄山山頂の立山神社さらに遠くの別山神社は結果的に「聖地」の静寂を保っています。


この立山には、かなり以前、立山黒部アルペンルートの案内にのせられて大手旅行者のツアーに参加して室堂付近を散策したことはあるのですが、当時は山岳信仰にもそれほどの知識がなく、おまけに登山もやっていなかったので、雄山に登っていく人たちを見ても「こうやって登っていくんだ」という単純な関心しか持ちませんでした(そこの自然には興味がありましたが)。


昨年からこの立山登山の話は出ていたんですが、コロナで中止となり、今年は大丈夫だろうということで期待が膨らんできました。そして立山の秋も深まった9月終わりから10月初めにかけ、3日間の短い日程でしたが、ようやく念願の登山と雄山神社参拝を体験することができました。


https://asakasanyukai.seesaa.net/article/492571771.html


この登山の概要は、一緒に行った地元の山の会のブログ(上)に書きましたので、ご覧ください。


この旅でひとつわかったのは、あまり厳しい登山道はないといわれる立山ですが、森林限界を超える岩石だらけの尾根や谷を5時間、6時間と歩くのは大変ということ。その理由の大きな部分は私の体力と知覚・反射機能の衰えによるもので、複数のひとと行動する登山では迷惑をかけないということだけでも苦労します。


この立山というのは、日本の山岳地系研究のパイオニアたちが歩いた場所でもあり、2日目、最初に登った雄山とその次の大汝山、ともに3000mを超える山ですが、この2つの山を結ぶ尾根の東の谷は日本最初の氷河が発見された巨大な御前沢カール、西斜面は明治時代に日本最初の氷河地形が確認された山崎カール(天然記念物)という記念すべき場所です。また、日本アルプスの最北端にあるここの山頂からの景観は抜群で、北の富山湾からぐるっと南東方向に槍ヶ岳や穂高の峰々そのはるか東方に富士山、西には加賀の白山―日本列島の中央山岳地帯が一気に見渡せます。


ここから少し進んだところの真砂岳の高みを超えると見えてくるのが、小さいが非常にまとまった美しいカールで、中に一筋の雪渓が確認できます。これが内蔵助(くらのすけ)氷河です。日本でこれまでに確認された氷河はすべて立山連峰付近にありますが、その中で最小ながら、中を登山道が通っているので、唯一、一般登山者が渡ることができます。残念なことに、この氷河に降りるためにはカール斜面をトラバースしないとだめで、積雪の一番少ないこの時期ではそうとう歩かない雪面とたどりつけません。すでにここまでで予定時間より遅れていることもあり、立ち寄りは中止になり、氷河に一番近い尾根の上で記念写真を撮るだけになりました(写真)。しかし、この雪渓は小さく、この下に厚さ数メートル以上の氷の塊があってゆっくり斜面をすべっているとはちょっと信じられない気がします。



次いで、別山に到着。この山も立山三山を構成する重要な場所で、地味ながら堅固な石組みの壁に守られた立派な社が建てられています。参拝するひとは多くありません。立山三山とは雄山とこの別山それに、方向が逆なので今回行かなかった浄土山のことをいいます。さて、この辺から劔岳が大きく見えてきます。ただ、運の悪いことに直前からガスが尾根を這い上ってきて、その姿を隠し始めました。次の剣御前屋まで、消えては姿を現すこの劔岳を見ながらゆっくり進みました。近くで見る劔岳はまさに迫力充分です。精悍というか、いかにも隆々たる岩の山という感じ。ちなみに劔山は『立山曼荼羅』では「針の山」ですから「登るべからず」と表現されているようです。



最後の日は、室堂まで下山です。途中で雷鳥沢という大きな谷まで急坂を下るんですが、高度を下げるにつれ、ほぼハイマツだけだった植生に小さな草花が増え、ササも目につくようになり、見渡す斜面は赤、黄、緑の美しい紅葉に覆われていきます。この付近で、先頭を進んでいたSリーダーが道の真ん中で給餌行動中の一羽の雷鳥(ライチョウ)を発見しました。ライチョウはこの立山に300羽ほど生息するらしく、特にこの場所では目撃が多いようですが、やはり偶然の産物です。午前中にここを通過したのが幸いしたと思います。これほど近くではっきりとこの鳥をみたのは初めてです。最後に地獄谷の様相を除き、地獄の先の天国を思わせる青いみくりが池では隣にある日本最高度の温泉に入りました。



今回、念願の立山で『立山曼荼羅』の地獄・極楽の世界を歩きました。果たして、生まれ変われたどうか分かりませんが、何かこの世界への義務のひとつを果たしたように心が軽くなった3日間の旅でした。


昇仙峡を経て金櫻神社へ2022年10月27日 11:15


少し前の記事「金峰山の五丈岩 」で紹介したと思いますが、金峰山山頂に、忽然とあるいは見方によっては悠然と聳え立っているのが五丈岩です。この五丈岩が、金櫻(かなざくら)神社のご神体であることは書きましたが、この金櫻神社の本殿は少し離れた、名勝で名高い昇仙峡の近くにあります。ちなみに、このご神体である五条岩に「登る人がいるので困ります」ということで神社側が貼り紙などで注意を呼び掛けているというニュースが最近ありました。どこでもこのように宗教事物を軽視するひとはいます。


昇仙峡は、奥武蔵の山を水源とする富士川の支流・荒川が数万年の長い年月をかけて、巨大な花崗岩の台地を刻み込んで形成した大渓谷で、新緑や紅葉の季節には大変な観光客がおとずれる山梨県の名所として全国的に知られています。この昇仙峡渓谷の近くまでバスで行き、そこから結構急峻な山肌を登ったところにあるのが羅漢寺山で、ここからは渓谷をのぞき込む形で、昇仙峡の奇岩、巨岩をひと目で見渡せます。観光客はロープウェイでも行けるのですが、登山道もあり、天気の良い一日、数人で登ってきました。ロープウェイの通る場所とは少し違うようで、一面の杉木立の中、倒木を乗り越えていく登山道はあまり利用する人もいないように思われます。この道はかつて地元のひとが麦などの産物を運んだ古道の跡のようで、上にたどりつくと「麦坂峠」という標識があります。


羅漢寺山の山頂は、さすがに観光客も多く、それを狙った富士山遥拝施設(実際、富士がとてもきれいで拝みたくなるのも分かります)や不思議な記念施設、お土産屋、レストランなどが乱立して、天下の歓楽街の様相を呈しております。この山頂一帯の岩石は花崗岩が風化した細かい砂状の表面に覆われています。さらに、そこからほどなく、そう苦労名もなく行ける、その名も白砂山になると、観光客も減り、富士山はじめ奥武蔵の山々が全方向に広がり、実に気持ちがいいです。


羅漢寺山にも金櫻神社の社殿はあるのですが、やはり、ここは本宮に行きたい。となると、ここからまた小1時間近く歩かなければなりません。そして着いたところが山梨県甲府市御岳町の静かな山間部に突然現れる赤い大鳥居の神社です(写真)。すぐ隣にはこれとは対照的に白木の大鳥居が目立つ夫婦木(めおとぎ)神社があります(この神社も由緒ありそうです)。金櫻神社の本殿はさらに石段を登ったところにあり、途中、湧水があり、小さな池まであるという水に恵まれた山の中腹になります。ここからご神体のある金峰山を結んだ線がかつての修験者が通った道になると思われます。この神社の御神宝は水晶だそうで、金の桜とは水晶のことでしょうか。いずれにしろ、今でも様々な宝石が産出される場所です。


かつてはここまでバス便があったようですが、今は廃止され、代わりに「実証実験」だという「乗り合いタクシー」が手軽に呼べ、一行はそれに乗って、路線バスの終点である「昇仙峡滝上」に向かいました。


「隅田川歩き」の3回目2022年10月30日 12:18


このブログの中で「隅田川テラス歩き」を2回掲載しています。博物館友の会の中の「まち歩きクラブ」主催で始めました。最初は浅草辺りを区切りに2回で行けると思ったのですが、実際に歩いてみるとこれがなかなか大変。両岸あるテラスのどちらかの側のテラスだけを歩くだけならいいのですが、テラスを歩いてひとつの橋を渡り、反対側のテラスを歩いて次の橋を渡るということを繰り返すわけですし、橋はかなり高い土手の上にありますから川面近くにあるテラスとは階段で行き来することになります。歩く距離は2倍近くに増え、おまけに季節は真夏に向かっています。そこで3回になり、夏を避けたり、雨で延期したりして第3回目は10月の最後で、半年がかりのイベントになりました。(以下は、友の会のブログとほぼ同じです)。


そんなわけで、第3回目(永大橋から勝鬨橋)は開催されました。約1カ月の延期にも関わらず、当日の参加者は27名と相変わらず多かったです。東京メトロ・人形町駅に午前10時集合、水天宮通りを隅田川へと出発。まずは前回の続きである隅田川大橋から渡り始めます。さして特徴のない新しい橋なのですが、前回の清洲橋、本日の永代橋という2つの見どころのある有名な橋が左右に一度に眺められるビューポイントなのです。


 永代橋からの高層マンション群


次が永代橋。この橋は「隅田川巡り」の中でも定評のある美橋で「帝都東京の門」と言われていたようです。かのドイツの ライン川のルーデンドルフ鉄道橋をモデルに設計されたとされ、その景観とともに、現存では最古のタイドアーチ橋ということもあって国の重要文化財に指定されています。そして、この橋の上から河口方向に目を向けると、空に突き刺さるような佃島の高層マンションが眼前に迫ります。始めて見た時の迫力を思い出します。30年ほど前から始まった東京湾岸のいわゆるウォーター不フロントの開発は現在も続いていますが、今でも東京の(というか、ややおおげさにいうと日本の)もっとも現代的な風景のひとつとして、われわれを魅了します。ちなみに今回の参加者の中に当時のこのマンションの販売に関わっていたという方がいました。この付近で隅田川は本流と分流に分かれ、分かれた方は「晴海運河」という名称になります。


次は、中央大橋を渡って佃島エリアに入ります。佃島はもともとは隅田川の河口にできた自然の砂州が原型で、歴史的には徳川の江戸移転時といいますから、今から400年以上前に大坂の佃村と大和田村からの入植を契機として、その後の河口埋め立てによって完成した漁村でしたが、特に戦後、高度成長時代から付近の埋め立てが本格化し、石川島、月島と地続きとなり、いまやビル、マンションンの林立する、都心に近い高級生活・商業地区になっています。


 佃島に残る江戸風情


橋を渡り、島に入ります。といっても大通りの賑わいは銀座や日本橋の延長の感じです。しかし、そこから少し路地を入ると佃神社、住吉神社のある旧佃島地区になり、隅田川と繋がる狭い水路の付近には小さな家や商店が並んで下町の生活感がただようの風情になります。そこにかかる佃小橋で記念写真をとりましたが、通りには車もあまり走らず、この日は観光客もあまりいませんので、われわれは公園でゆっくり休憩できました。この日を含めて、私はほんの数回しか佃島を訪れていませんが、高層マンションがありながら、昔の佃島の風情を残す住吉神社と入江付近の静かな町のたたずまいや整備された公園、川際の遊歩道など、都心の超好立地を別にしても、かなり生活しやすい場所だなという印象をもちました。


次に一行は、この佃島をいったん離れて、晴海運河を渡り、越中島に向かいます。その途中の相生橋の下にあるのが隅田川で唯一の無人島!です。中の島公園という素晴らしい名前が付いていますが、見どころは晴海付近のビル群なので多分夜景がいいのだろうと想像します。ここで橋をくぐって反対側に出ると、そこに帆船・明治丸の帆柱が見えてきます。東京海洋大学の中にあり、大学の手で管理されています。


この明治丸は、明治政府が英国グラスゴーのネピア造船所に明治7年に竣工した汽帆船(鉄船)です。同大学ホームページより抜粋しますと「特別室やサロンを備えた豪華な仕様の新鋭船で、燈台業務ばかりでなく、ロイヤルシップの役目も兼ねていた。明治天皇はじめ多くの高官が乗船し、わが国近代の重要な場面で活躍。なかでも明治8年、小笠原諸島の領有権問題が生じた際に、日本政府の調査団を乗せ、英国船より早く小笠原に到達。このことによって、小笠原諸島はわが国の領土となった。」ということで、日本の国益にかなりの貢献をしています。これにより、日本に現存する唯一隻の鉄船であり、鉄船時代の造船技術を今に伝える貴重な遺産として、国の重要文化財に指定されています。船としての重要文化財指定はこの明治丸が初めてということです。残念なことにこの日は記念館(東京海洋大学)が公開日でなく、船の全体を見るだけになりました。



相生橋をもどり、佃島の河川沿いに設けられた遊歩道を歩いて再び佃島公園に。そして佃大橋を渡って築地川にもどります。佃大橋は、1964年(昭和39年・オリンピックの年)、隅田川の渡船場として320余年続いていた「佃の渡し」の位置に架けられた橋で、この時まで佃島と月島を隔てていた佃川は、佃大橋の取付道路建設のために埋め立てられ、佃島と月島は地続きになり、島としての形はなくなってしまいました。


 興味尽きない勝鬨橋


参加者の中にかなり疲れてきた人もいるので、南高橋や波除神社の見学は中止、最後の勝鬨橋へ向かいます。巨大な橋の橋脚部には国重要文化財指定のかなり立派な浮き彫りの金属製プレートが掲げられています。隅田川の国重要文化財3橋のなかでも一番力が入っているようなプレートですが、この勝鬨橋は、建設当時(昭和15年)開催予定の国際博覧会のアクセス路として日本人だけで世界一流の技術を誇示するために建設されたという経緯があり、日本の科学技術の成果を示すものでもあったことが評価されたのでしょう。なお、この橋の袂には、橋の機械式昇降時の電源を担った変電施設の跡を利用した「かちどき橋資料館」があります。何気なく入ったのですが、中には実際に橋の開閉を行う精巧な模型などもあり、大変興味深かったです。友の会参加者の皆さんは多彩な経歴の持ち主で、電気・変電設備などに詳しい方もいて「解説」をうけました。


橋の機械構造を学習したおかげで、橋を渡りながらも橋梁に無数に撃ち込まれた金属の鋲や中央部道路に残る楔形の接合部分にも関心が向いて、これを建設した人たちのことを考えながら興味がつきません。渡り終わり、これで3回にわたった「隅田川テラス歩き」と題した橋巡りはめでたく終了ですが、じつはこの下流にもうひとつ、昨年のオリンピックとも関連して「築地大橋」という橋が架けられています。元気のあるひとはわたりましょうというと、10人近くの人が手をあげ、さらに30分ほど、築地市場跡の広大な建設現場を横目に(反対側は浜離宮庭園)してゆっくり歩いて大江戸線の駅で解散となりました。