江戸時代の奉行制度とAI ― 2026年07月14日 14:56
また森鷗外からのスタートで失礼します。1915年(大正4年)に発表された『最後の一句』という歴史小説があり、これにも太田蜀山人の随筆『一話一言』という元資料がありますが、タイトルになっている「最後の一句」というのは文中の言葉は鴎外の創作とされています。
あらすじは、元文3年に大阪の船乗り業者桂屋の主人・太郎兵衛が積荷の不正事件で死罪となります。悲嘆にくれるその家族の中で、長女のいち(16歳)をはじめとする5人の幼い子供が「父の代わりに自身と兄弟たちを死罪にしていただきたい」という驚くべき助命の願書を出します。この時の大阪西町奉行佐々又四郎が大阪城代に相談、女房と子供たちを白洲に呼び寄せ、責め道具を並べて圧迫し、一人一人に事情を聞ききますが、いちだけは祖母の話から事情を聞き父の無罪を確信したこと、自身を殺して父を助けてほしいことを理路整然と答えます。なおも、「お前の申立には嘘はあるまいな」と佐々が拷問をほのめかして尋ねても、いちは「間違はございません」と答え、なおも、お前の願いを聞いて父を許せば、お前たちは殺される。父の顔を見なくなるがよいか、との問いに、いちは冷静に「よろしゅうございます」そして「お上の事には間違はございますまいから」と付け加えます。この「お上の事には間違はございますまいから」というのが表題の最後の一句です。願いは聞き届けられ、太郎兵衛は、この時の宮中での桜町天皇大嘗会執行恩赦を名目に死罪を免れます。
小説としては大事なポイントである「お上の事には間違はございますまいから」という言葉ですが、これは鷗外の創作で、この言葉を聞いた奉行などの驚きと警戒の念などの細かい描写には官僚組織から身を引いた当時の鷗外の思いが込められているとされています。
ただ、ここで私はこの「最後の一句」に、深入りしません。思うのは、こうした心情に訴えて罪状が軽減されるということが起きたということの意味です。子供たちのこの行動は、戸時代の書物『五孝子伝』などにも「浪速の五孝子」として記録が残るようで事実と思われます。15歳の少女がこうした行動を思いついたわけですから(お上に)こうした嘆願書を出すということは、珍しいことでしょうが、社会的に考えられないことではなかったようで、小説の中にも「目安箱」の制度があるのだからどんな訴えも聞かないということはないのだと奉行が判断する一節があります。
現代の裁判制度の中でも判決に対して心情的な意味で主に刑の軽減を求める嘆願書はあります。この嘆願書は、現状では刑事訴訟法に基づく「情状(量刑を決めるための様々な事情)」を立証するための、数ある証拠の中の一つという位置付けです。
ここで出てくるのが「情状」です。量刑を決めるための様々な事情というわけですが、これは個々の裁判での被告の個人的・社会的な事情を裁判官が斟酌して量刑の参考にするということになります。現代の人権意識では親の代わりに自分を斬首してほしいというような歎願が受け入れられることはないでしょうが、子供や恋人の代わりに身代わり自首するようなケースはあるのですから、心情的にはありえます。
大事なのは、こうした人間の情愛・感情を判断・斟酌できるのは情愛・感情を共有できる人間だけだということです。昨今はそれも分からない人もいるようですが、これは別として、こうした究極の判断を「機械」には任せられません。お分かりのようにここにAIによる判断の最終基準があるということです。
昨今のウクライナ戦争を報じるメディアの情報によると、戦闘において、人間の兵士の代わりをするロボット兵士(兵器)が実際に登場しているようです。恐ろしいというなかれ、一般市民に無差別殺人やレイプを行う可能性のある人間の兵士より、そうした行為をシステム的に禁止したロボットのほうが安心だという意見もあります。これは自動操縦の自動車の安全装置にもいえそうで、どんな状況でも冷静さを失わない自動運転のほうが事故は少ないという結果もあるそうです。
思わぬ方向に進んでしまいましたが、わかることは、「(もしかしたら悲嘆にくれる母親の心情を察したのかもしれませんが)父の命を救ってほしい」と訴える15歳の少女の一途な気持ちにこたえる心情を持っている奉行が、当時の江戸幕府の官僚制度の中にもいたということです。
(上)こんなSFみたいなものは無いようですが、(下)は本当に計画中のロボット戦闘車のようです。これにAIが搭載される日も近いでしょう。
元箱根の六道地蔵 ― 2026年06月18日 14:21
上の写真は「六道地蔵」と呼ばれる箱根の石仏です。巨大な岩に穿った浅い洞窟の中に掘られた仏像いわゆる摩崖仏です。
小田原と三島の間の箱根路を通る東海道には旧街道が残り、主に江戸時代に造られた石畳道などを随所に残して、そこが「自然歩道」として整備されていることから日本の「旧街道歩き」の精緻のようになっています。しかし、この旧街道ルートは、登山鉄道やロープウェイが通る強羅や塔ノ沢、芦ノ湖観光などの代表的な観光ルートからはずれていますので、意外に通ることが少ないものです。
私も箱根には結構来ていますが、この旧街道ルートを実際に踏破したことはなく、せいぜい観光地である箱根関所跡付近にその雰囲気を感じる程度でした。しかし人生も終盤、心残りのないようにということで、今回は山の会で、地形や道の様子を探りながらの再訪することを考えながらい歩いてきました。
出発は根湯本駅からです。早雲寺までは裏の狭い近道を行きます。この日の朝までかなり雨が降っていたこともあり道は濡れています。畑宿までの2時間弱の緩い登り坂で、途中の新道の並行する旧道の石畳道はけっこう歩きにくいです。それでも当時の旅人には、それ以前の泥道や竹道よりはるかによかったようで、明治に入ってもこの石畳は造られつづけたとのこと。確かにより古い道と思しきあたりでは石の角がすり減っている気がします。
増水した須雲川や避けて途中の急坂区間をバスで乗り切り、甘酒茶屋まで進み、休憩後、ここからも石畳歩道など旧街道の雰囲気を感じながら芦ノ湖畔の元箱根港に到着です。のどかな雰囲気から一転、観光地の雰囲気です。
この元箱根からも、いわゆる「鎌倉古道」と呼ばれる湯坂道方面に続く旧道が延びています。今回の旧道歩きは当初からこの近くに残る「箱根仏群」に立ち寄るのが大きな目的でした。小涌谷を経て箱根湯本へ帰る路線バスに乗車してすぐの「六道地蔵」バス停で降ります。一面何もない草原が広がり芦ノ湖方面には小さな池が見えます。これが精進池で、ふとみると道のわきに「箱根石仏群」という色褪せたパネルがひっそりと建てられています。以前あったという「石仏館」は終了ということで、今や立ち寄る人もないのかもしれません。無情なようですが、こののさびれた風景は石の地蔵にはふさわしいのかもしれないと私には感じられました。石仏群は旧道をはさんで広がっていて、六道地蔵はすぐ先にある素朴な地下道を通って街道を越えた反対側にあるようです。
狭い広場の先、崖沿いの草に半分隠れるように見えるのが地蔵堂でしょうか。建物に近寄るとお堂の中の暗闇に星の光る白い点が見えます。お堂は浅い洞窟を覆うように建てられていて、中心に六道地蔵が白い岩の台座に座っています。暗い中で、よく見ると岩一面に浮き彫りされていることに気がつきます。これが摩崖仏─岩に刻まれた仏像です。星の光と見えたのは菩薩の額の白毫(びゃくごう)でした。暗さに慣れてきても全体はそう明瞭には見えませんが、白い石に掘られた蓮の花びらに座り、右手に錫杖をもっているのは間違いなく地蔵菩薩です。座像は珍しいかもしれません。大仏とはいえませんが、ひとの倍位の背丈はありそうで、静かな顔がまっすぐこちらを見ています。
私がこのような洞窟の中の仏像を始めてみたのは九州を訪れた40年ほど前のことです。JR大分駅からバスで30分ほどの距離にあった低い崖の中腹に掘られた洞窟でした。当時はまだ臼杵大仏が国宝指定される前だと思いますが、まして有名遺跡でもないこの場所には訪れる人もなく閑散として、探さなければ場所もわからないほどでした。しかし、外光を浴びてかすかに輝く石仏(廬舎那仏だったと思います)の存在感には息を飲む思いでした。宗教的というより美的芸術として素直に感動したのだと思います。
その後、旧街道歩きや見学会で多くの野仏、石仏に出会う機会が増えましたが、今回この箱根で出会った「六道地蔵」は、大分の摩崖仏以来のすばらしい経験でした。箱根の六道地蔵は再建されたというお堂に保護されていますが、近くにお寺や施設はありません。また、この箱根石仏群には他にも応長地蔵(火焚地蔵)など、いくつもの貴重な石仏が残り「六道地蔵」と同じ国の重要文化財に指定されているものもありますが、六道地蔵以外はほとんど野ざらしで芦ノ湖畔の旧街道脇にたたずんでいます。
この場所は江戸時代以前から東海道が通っていましたが、時に火山性の有毒ガスと思われる現象で旅人が亡くなったそうです。そこで、地獄と呼ばれここが六道(地獄・餓鬼・畜生・修羅・人間・天上)に分かれる辻だと考えられていたとかで、無名の修行僧がここにあった箱根火山の噴出岩に心を込めて仏像を刻んだのだと思います。精進池という名ものもその名残でしょうか。
この地蔵群を超えると道は東に曲がり、湯坂道とよばれる尾根道をたどって箱根湯本に向かう山道になります。今回の須雲川沿いの道ができる以前のいわゆる「鎌倉古道」です。
美しく怖いシャクナゲの花 ― 2026年05月28日 18:17
5月の中旬、伊豆半島の天城山に登ってきました。天城山は伊豆半島最高峰の万三郎岳(1406m)を含む天城連山の総称で、原生林や池が広がり、豊かな自然が残されているので私も観光などでたびたび訪れていますが、登山は初めてです。東伊豆の伊東駅からバスと車で約1時間の「天城高原」地区はゴルフコースが有名ですが、天城山を縦走するハイキングコースも整備されています。有名な場所なので手入れがされていると思ったのですが、万三郎岳、万二郎岳をめぐる周回コースのかなりの部分の登山道がかなり荒れていて、丸太などで設営されていますが、ほとんど歩けないような場所もあります。特に縦走後半の下り部分では、標高差も少なく地図上では平坦に見えるのですが、思わぬ時間がかかってしまいました。
もっとも、これには登山者(私のこと)の高齢化に伴う肉体の限界もあり、致し方ないのかもしれません。文句をいいましたが、今回の登山道はすべて温暖林の豊かな樹々に覆われた樹林で、まさに「涼しい環境と豊かな自然が魅力」といううたい文句通りの山歩きになりました。ただ途中に無数にある林の中の小流や谷川といった水の流れがほとんど枯れていて、岩石の河原を横切るということが多く、今年の冬の水不足を実感しました。また、そのせいで、登山後の2日間、脚の筋肉が痛かったです。
このシャクナゲは、平地の庭園にも普通に見られますが、標高2000メートル以上のほとんど森林限界というような、しかも岩だらけの場所に生えていて、春には綺麗な花を咲かせます。その理由ですが、その厚い葉には「毛茸」と呼ばれるふわふわとした毛が生えており、これが厳しい山岳環境での強い日差しや乾燥、風から身を守るようです。さらに、なんとその葉や花、蜜などには「グラヤノトキシン」という強い神経毒が含まれいて、誤食すると人間にとっても危険なほどだそうなので、当然シカなどの野生動物の食害からも守られているという、まさに「きれいな花には毒がある」を実践しているわけです。この「きれいであり、シカなどの食害もない」というのが現代日本でもっとも身近な植栽に利用される理由だと思えます。
寒山拾得 ― 2026年05月02日 14:22
中学校だったと思いますが、国語の教書に「寒山拾得」という短い話が載っており、その中には2人の子供のような姿のお坊さんが笑いながら佇んでいるような奇妙な挿絵が掲載されていたのを覚えています。この『寒山拾得』というのが森鴎外の小説というのはどこかで聞き及んだ覚えがありますが、改めて全集版の中にこの、短い物語を発見し、『寒山拾得縁起』という、関連というか、同時に、この小品作成の契機となったことを書いたエッセイも読むことができました。
寒山拾得というのは、古代中国の寺に残る唐の時代頃の伝説来な僧侶・詩人とのことです。豊干・寒山・拾得の作として多くの漢詩が残っており、実在の人物とする見方もありますが、詳しいことは不明だとのこと。詩とともにいうか、それ以上に有名なのが「寒山拾得図(禅機図断簡)」という、上の図の国立博物館所蔵の「寒山拾得図(禅機図断簡)」で、同館のホームページ掲載のものです。教科書に掲載されていたのもおそらくこの絵でしょう。ここには、特に難しいものはなく、自由で楽し気な生活のイメージだけが残ります。この絵があってこその寒山拾得伝説といえるのではないでしょうか。
もちろん、鴎外の小説もこの絵の生み出す、2人の子供のような僧侶の陽気で反権威的な生き方にあこがれるような雰囲気をもっています。唐の時代に頭痛に悩む官吏・閭丘胤が豊干禅師に導かれ、文殊菩薩と普賢菩薩の化身とされる寒山と拾得という二人の奇妙な風狂僧に会う物語です。寒山と拾得の隠遁生活と無の境地、そして「道」への問いかけを描いた作品です。 「唐の貞観のころだというから、西洋は七世紀の初め日本は年号というもののやっと出来かかったときである」で始まり、閭丘胤という台州の主簿というかなりの高官でありながら実在したのかしなかったのかわからないが、実在しないと話にならないのでいたことにする、というひとを食った設定で始まることでわかるように、鷗外の中では力を抜いた楽しんで書いたと思われる作品ですが、その理由はほぼ同時に書かれた『寒山拾得縁起』というエッセイで明らかになります。
「縁起」によれば、この寒山拾得については自身の子供に説明を求められて即興的に書いた話だというのです。この『縁起』の最後に、寒山が文殊菩薩の化身というこの意味が2人の子供にわからず、説明のために当時「メッシア」(救世主)と話題になっていた人物のこと例えに語るも、それも子供には通じないので「実はパパァも文殊なのだが、まだ誰も拝みに来ないのだよ」というのが最後のオチみたいになっています。この部分も教科書にあったように記憶しているのですが、確認できません。もちろん、いくら簡単に書いたといっても鴎外の小説ですから、難解な部分や語句が登場します。教科書版はどちらも抄録だったかもしれません。
この寒山拾得図を鷗外は自宅に飾っていたというますから、この楽しい世界を好んでいたのでしょう。よくいわれるように、鷗外は自身が陸軍のほぼ最高の高級官僚であり、常日頃、役人世界の通俗さを感じていながら、小説など精神の世界ではまったく異なる自由な内面を探求するという、複雑な精神生活を送っていました。しかもその2面性を鷗外は破綻なくこなし、豊かな家庭生活も送りました。この『寒山拾得』に登場して、自由人たる禅僧に対して堅苦しい名乗りを行って、笑われてしまい呆然とする官吏・閭丘胤の姿は、確かに形式ばった官僚への風刺や皮肉というレトリックを感じさせますが、されにそれを超えて、ただただつまらぬ狭い世間を笑い飛ばしてしまう豪快さを感じさせます。
寒山詩は唐代の隠者文学として、当時の禅僧からよく読まれたそうですが、それは隠者たちのあいだで、現世の価値観の愚劣さを強く批判する考えがあったからで、その点が、鴎外のこの作品の主題を解く鍵になるとされています。
Eメールが届かない! ― 2026年04月25日 17:05
このブログの見学会の記事でおなじみの団体のお世話をしていますが、会から会員への情報連絡は数年前からホームページに掲載しさらに定期的にEメールによる通信を組み合わせるというそれなりに現代的な方法に切り替えています。利用しているLPというレンタルサーバーにはホームぺージの他に「メールマガジン機能」があり、500人規模の登録のメルマガジンを複数作ることができるので「Web会報」という形で2か月に一度、定期配送しています。
ところが、2週間ほど前の4月10日に送信したこの会からの情報が一部の会員に届かないということが起こりました。ややこしいことに無事に届く会員もあり、実は私自身のメールアドレスにも届くものとそうでないものがありました。私の場合、2つのメールアドレスがあり、一方に届いていたので、すぐには気がつかなかったのです。(上の図は私の使用しているメールソフトの受信画面)
●2つのネット会社と4回の情報のやりとり
今回の連絡には5月の総会などの案内も含んでいますので少しあわてました(後述のように同じ内容でホームページもありますので致命的ではありませんが)。とりあえず役員を中心の10数人に(通常のメール送信で)着・不着の確認を行いました。その結果わかったことは驚くことに不着つまり届かなかった会員のほうが多かったのです。こういうことはこれまでなかったので、これは送信側の問題だろうと考え、サーバーのメンテナンスに連絡をとることにしました。この会のネットの運用は、先に書いたようにホームページ運用も含めLPというレンタルサーバーを使用しています。このサーバーの中の「メールマガジン機能」はわりに簡単な設定で利用でき、これまで特定のアドレスに届かないということはありましたが、ほとんどは不注意によるもので大規模は問題はありませんでした。
ユーザーページの中にサポートの項目がありますので、まずはネットで質問を送信しました。最近はほとんが最初はAIによる自動対応です。メールアドレスの間違いや迷惑フォルダ機能による間違いがないこと、先月まで正常に受信していた多くのユーザーが一斉に不着になったことなどを説明すると、カスタマーサービスに連絡をするようにとの案内が出ました。いよいよここからが人間との話し合いです。
このあと、ロリポップカスタマーサービスに、このメールマガジンが届かない件について正式に調査をお願いしました。2日後に「配送ログを確認したところ、宛先側のサーバーにて受信が拒否されている状況でした。」との回答がありました。拒否の理由はメールあるいはドメインの形式が不明あるいは無い?ということでしょうか。前回までは届いていたので不思議なんですが、まずは、受信側のサーバーに問い合わせということで私のメールも対象なので、すぐにasahi-netのサポートに問い合わせしてました。
asahi-netのサポートは以前も使用したことがあります。今回は2回やりとりを行い、結果として、当方から送ったEメールのソースコードを解析してもらい、以下の結果になりました。ほとんど意味はないと思いますが、記録として載せておきます。
*
2か月前に直接届いたメールのヘッダより、システム上の差出人アドレスが
*
ここで<jp@mm.junosaitama.net>というドメイン(発行元のネット上の住所)名が出てきました。これで謎がとけました。これは昨年(2025/03)の更新時に新規継続をしないで中止したドメインです。そのかわりに現在は<https://junosaitama.main.jp/>というサブドメインを使用しているのですが、この旧ドメイン名がメールマガジンの初期設定の中に残っていて、送信されるそれぞれのメールのヘッダ情報に書かれていました。そこで、こんどは受信したそれぞれのメールサーバー側がこの情報によりサーバーを調べて、(3月までは存在したが4月には)存在しない─そこで怪しいメールという判定をして「受信拒否」したのではないでしょうか。
一度中止したドメインがどのくらい残存するのかを調べてみると<GoogleのAI>の回答では
ホームページのドメインが有効期限切れなどで「有効でなくなった」場合、即座に削除されるわけではありませんが、最終的には削除(廃止)されます。ドメインは、有効期限が切れた後、一定の猶予期間を経て、最終的に誰でも取得できる「空きドメイン」の状態になります。 /ドメインが有効でなくなった場合でも、即座にデータが完全に消滅するのではなく、一定の「猶予期間」を経てから削除される仕組みになっています。
また、その猶予期間については1年間ではないかという
結論として、「ドメインが失効してから約1年間は復旧可能な猶予期間が続き、その後に完全に無効化される」という流れは、多くのドメインで一般的な挙動です。/あなたが経験した「ほぼ1年後に無効になってエラーになった」という状況は、典型的なケースに当てはまっています。
ただ、ここで最後の疑問が残ります。それでは、ドメインが失効しているのになぜ有効なメールと無効なメールがあるのかということです。これについては、それぞれのメールサーバーの仕様(機能)によるとしか思えません。これが現時点の結論です。
●メーリングリストにより送信は再開
この間の経緯ついては、約10日後に全会員に説明の連絡を出しました。その中で「これまで使用していた「メールマガジン形式」の配送を中止、あらたにメーリングリスト形式のEメールを送信することになりました。形態は違いますが、会員の皆様はこれまでと変わらず着信した情報をお読みください」としました。メーリングリストもLPの機能ですが、登録したメールデータがほぼ同じように使え、かえって運用も柔軟になると思いますので切り替えた次第です。
敵討ちで寺社巡りの謎 ― 2026年03月21日 14:06
われわれは今でも旅行や見学会というと、目的地でなくてもその行程の中にある有名な神社やお寺にお参りします。近くに出かけるときでも、ごみごみとした人出の多い場所や施設を敬遠するようになると、特に理由はなくともその地域の寺社にいくことがあります。現代人にとっては古い歴史や文化財・自然に触れるような思いがするからだと思います。昔のひとはどうだったかというと、江戸時代の名所絵図などを見ても、各所の風景や自然とともに神社仏閣をたずねてあるくということが多かったようです。ただしそこには明らかな時代による目的の違いがあるようです。
現代人は寺社に自然や清らかさ、静寂といった精神的な慰めの要素を求める割合が高いでしょう。しかし江戸以前の人たちにとっての寺社仏閣参りにはもっと切実で直接的な要望・願いがあったのではないでしょうか。例えば寺社の境内で定期的に開かれる縁日などの市場には普段購入できない工具や資材、珍しい食べ物を扱う屋台が並び、現代のデパートや専門店のような役割があったことが想像できます。これは1950年代くらいまで続いていたかもしれません。
さらに、これは現在ではほぼ「お遊び」の領域になってしまったような「占い・お神籤」や「お守り」の価値が想像以上に高かったことです。病気を直す医学が不十分で、広範なコミュニケーション手段も皆無の時代、不安を解消し、何かを求めるには寺社の神託にすがる以外にありませんでした。
もうひとつ、現在ではあまり意識されませんが、寺社地というのは人々を引き寄せる特別の空間であったことです。人びとが自分の村や町を離れることは難しく、広範な地域を結ぶ交通機関もありませんでした。寺社以外に人々が日常的に出会う場所はほぼありませんでした。そしてそこは同時に多くの情報が集まる場所でもあり、群れ集う人たちに訪ね、噂話に耳をすませば、現代人がテレビやネットで得るような情報が得られたに違いありません。
ひとが情報を求める必要性―そのもっとも切実なのが誘拐された子供や失踪した親兄弟の捜索そして犯罪者被害者による「犯人捜し」でしょう。森鷗外に『護持院原の敵討』という短い歴史小説があります。敵討は「かたきうち」と読み、仇討ち(あだうち)ともいいますが、江戸期には「主君や直接の尊属を殺害した者に対して個人的に復讐を行う日本の制度」とされ、武士には条件により公権力から正式に認めれていた行為です。しかし、この敵討の難しさはなにより目的の敵である人間をどう探し出すかという点にあります。警察力による捜索がない時代、どうのようにして目的の人間を探し出すのか。この小説には敵を探す旅で日本中を放浪するさまが描かれていますが、彼らがよりどころとしたのが各地のこうした神社仏閣でした。
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小説では、姫路城主酒井雅楽頭の江戸上邸の大金奉行、山本三右衛門が侵入した盗賊により殺害され、その息子と姫路にいた三右衛門の弟、賊の人相を知る町人の3人が仇討ちの許可を得て出発します。特にあてはなく、上州方面という噂により、まず高崎に向かいます。本文からその後の捜索を追ってみます。
結局、高崎(上州)では足跡が知れないので、前橋へ出ます。藤岡に出て、五六日いた。そこから武蔵国の境を越して、児玉村に三日いた。三峯山に登っては、三峯権現に祈願を籠めた。八王子を経て、甲斐国に入って、郡内、甲府を二日に廻って、身延山へ参詣した。信濃国では、上諏訪から和田峠を越えて、上田の善光寺に参った。越後国では、高田を三日、今町を二日、柏崎、長岡を一日、三条、新潟を四日で廻った。そこから加賀街道に転じて、越中国に入って、富山に三日いた。木曽路を太田に出た。尾張国では、犬山に一日、名古屋に四日いて、東海道を一宮に出て、佐屋を経て伊勢国に入り、桑名、四日市、津を廻り、松坂に三日いた。松坂を立って、武運を祈るために(伊勢神宮に)参宮した。それから関を経て、東海道を摂津国大阪に出て、ここに二十三日を費した。その間に松坂から便があって、紀州の定右衛門が伜の行末を心配して、気病で亡くなったと云う事を聞いた。それから西宮、兵庫を経て、播磨国に入り、明石から本国姫路に出て、魚町の旅宿に三日いた。それから備前国に入り、岡山を経て、下山から六月十六日の夜舟に乗って、いよいよ(噂をきいた)四国へ渡った。讃岐国丸亀に着いた。文吉に松尾を尋ねさせて置いて、二人は象頭山へ祈願に登った。すると参籠人が丸亀で一癖ありげな、他所者の若い僧を見たと云う話をした。が、それは別人であった。
伊予国の銅山は諸国の悪者の集まる所だと聞いて、一行は銅山を二日捜した。それから西条に二日、小春、今治に二日いて、松山から道後の温泉に出た。中大洲を二日捜して、八幡浜に出ると 舟は豊後国佐賀関に着いた。鶴崎を経て、肥後国に入り、阿蘇山の阿蘇神宮、熊本の清正公へ祈願に参って、熊本と高橋とを三日ずつ捜して、舟で肥前国島原に渡った。そこに二日いて、長崎へ出た。長崎で三日目に、敵らしい僧を島原で見たと云う話を聞いて、引き返して又島原を五日尋ねた。それから熊本を更に三日、宇土を二日、八代を一日、南工宿を二日尋ねて、再び舟で肥前国温泉嶽の下の港へ渡った。長崎行の舟に乗った。長崎を立って、大村に五日いて佐賀へ出た。筑後国では久留米を五日尋ねた。筑前国では大宰府天満宮に参詣して祈願を籠め、博多、福岡に二日いて、豊前国小倉から舟に乗って九州を離れた。
周防国宮市に二日いて、室積を経て、岩国の錦帯橋へ出た。そこを三日捜して、舟で安芸国宮島へ渡った。広島に八日いて、備後国に入り、尾の道、鞆に十七日、福山に二日いた。広岸山の神主谷口某と云うものが、怪しい非人の事を知らせてくれたので、九郎右衛門が文吉を見せに遣った。しかし敵ではなかった。姫路を立って、明石から舟に乗って、大阪へ追いかけて往った。それからは三人が摂津国屋を出て、木賃宿に起臥することになった。もうどこをさして往って見ようと云う所もないので、神仏の加護を念じながら、日ごとに市中を徘徊していた。ここで息子の宇平が精神に異常をきたして行方不明になる。宇平を尋ねて歩く際に玉造豊空稲荷の霊験の話を聞き、頼んでみると「敵は春頃から東国の繁華な土地にいる。宇平の事は御託宣が無い」と云った。こう云っている所へ、一行は江戸からの便りを受け取る。「浅草でそれと思しき男の消息がみつかった」というものである。その知らせを受けて急いで江戸にもどり、浅草寺から両国の花火の日に敵を見つけ、助太刀と江戸にいた娘のりよが加わって神田の護持院原(現在の錦町辺り)で仇をうちます。
最初の太刀で切りつけたのが女性(被害者の娘)だったことでこの仇討ちは江戸で有名になり、助太刀をした叔父山本九郎右衛門によって綴られた「山本復讐記」が残っています。森鷗外のこの小説もこの記録をもとにしているとみられます。
お分かりのように、江戸の事件ですが、関東から甲州、信濃、尾張、大阪、山口、四国、九州と全国各地を移動して各地の目付で様子をきいたりしますが、その間に、書いてあるだけでも、三峯権現、身延山、善光寺、一宮、伊勢神宮、象頭山、阿蘇神宮、熊本清正公、大宰府天満宮、安芸国宮島、玉造豊空稲荷その地の有名な寺社に参拝しています。先に言ったように、行楽ではなく人の集まる場所で様子をうかがいまた神託を受けてその後の捜索の参考にしているのです。最後の玉造豊空稲荷のお告げは結果的に的中していたことになりますが、逃亡というのも意外に常識的なものなのかもしれません。
小説の元になっている実際の事件の起きたのが天保4年(1833年)12月の年末、仇討ちが天保6年7月の夏なので1年半程の意外に短い期間にこれだけの距離を歩いていることになり、江戸末期の交通や通信の発達具合もわかります。
上の絵は歌川豊国の『両国花火図』(江戸東京博物館ホームぺージより)。当時の賑わいがわかります。こうした中で必死で人探しをする者もいたのでしょう。
柳原通りの柳森神社 ― 2026年02月28日 12:32
JR秋葉原の駅から昭和通りを日本橋方向に向かって歩くとすぐに神田川の流れが見え、そこに架かるのが和泉橋です。以前の職場に近いこともあって、この付近はなじみの場所で、対岸の神田川の道を柳森通りということも知っていました。通りに置かれた地名掲示板に書かれていたからです。江戸の地形や歴史に興味を持つようになってからは、この通りが「江戸名所」だったこともわかって多少は注意していましたが、今回「まち歩き」で江戸城見附を順に回ることになり、最初に「浅草橋門」の跡を通って神田川沿いのこの通りを歩き始めているうちに「柳森神社」というこれも名所の古い神社があることを知りました。和泉橋から隅田川方面にほんの数分戻るだけなんですが、意外に知らない人も多いみたいで都会の中の見えざる文化財の多いことがここでも分かります。
この柳森通りは神田川の土手に柳の木を植えたことからはじまっていると思っていましたので、神社は当然その後に置かれたことになります。しかし社伝によれば 「室町時代に、太田道灌が江戸城東北方面の鬼門除けとして京都の伏見稲荷大社を勧請して創建した」ということになっています。すぐ先で隅田川に合流する神田川は江戸幕府の初期に駿河台の丘を開削してここに流れるようになったわけですので、どうも柳の森が先にあり、後になってから神田川堀割の際に現在地に移り、柳の木も堀の土手に移植されたということのようです。さらに時代がたち、徳川綱吉の生母・桂昌院が江戸城内に建立したといわれている福寿神祠が境内に置かれ、烏森神社と共に江戸三森の一社と呼ばれたとなっています。場所柄からしても日本橋に近く、船で浅草方面に簡単にいけますから、当時かなりの賑わいだったことが偲ばれます。神社のホームページに掲載された江戸名所図絵(下の絵)を見ると確かに柳の植えられた土手から川岸におりた場所に稲荷が鎮座しています。
今でも、実際におとずれると、参拝する人の列は多くありませんが、絶えませんし、決して忘れられた場所ではないようです。しかし、ほとんどの人が無関心なのは、メインの和泉橋通りからはずれ、しかも神田川の両岸には商業ビルやマンションが隙間なくたちならび、元の土手(通り)から一段低くほとんど見えないこの神社の存在感はあまり感じられません。「神田ふれあい橋」という小さな目印の先にある本当に小さな鉄の橋で川を横断すると、土手越しではありますが、神社の屋根が見えます(上の写真)が、この橋はほとんど目立ちません。
柳森通り(いわゆる土手)から神社境内を見ると確かに一段下がっているのがよくわかります。境内の一番奥にあるのが稲荷神社です。
鎌倉の古道「切通し」 ― 2026年01月30日 18:10
神奈川県の古都・鎌倉はかなり訪れています。。また、「鎌倉アルプス」と呼ばれる丘陵地のハイキングコースも2~3回は歩いています。その中で気になった「やぐら」についてはこのブログに記事を書いたことがありますが、鎌倉の地形の大きな特徴である「切通し道」については語る機会がありませんでした。今回、この切通し道のひとつである「名越の切通し」に行くことができました。連続する3つの溝状の古い道は、時代を経て変化しているとはいえ、中世の素朴な街道の雰囲気をそのままに残し、史跡の名にふさわしい保存状態だと思いました。
この切り通し道は、鎌倉の中心部から「平成の巡礼道」と呼ばれる衣張山の山道を越えて、三浦半島・逗子の海に通じる峠にあたります。現在、この下を横須賀線のトンネルが通っていますが、山越えの道に通じる傾斜は今でもかなりの急角度ですから、交通の要衝であると同時に軍事上でもかなり有効な「関所」の役割を果たしたことがわかります。ただ、以前の見学会で通った「朝夷奈切通し」では切り立った崖の中にいくつもの「やぐら」があったように思いますが、ここではあまり見ませんでした。
一般に言われるように、源頼朝が鎌倉に幕府を開いた大きな理由は、南は海に、北東西は山に囲まれ、敵の侵入を防ぎやすい地形だったからと言われています。江戸のように開けた場所では、敵の侵入を防ぐのは大河川や人工的な堀割です。平地の乏しい鎌倉では、物資運搬のために山などと切り開いて造った道=切通がそのまま城壁の役割を果たしたと思われます。この鎌倉の古道のなかでも、「名越切通し」と同様な「亀ヶ谷坂切通し」「化粧坂切通し」「巨福呂坂切通し」「大仏切通切通し」「極楽寺切通し」「朝夷奈切通」は鎌倉七口と呼ばれ、鎌倉と外部を結ぶ主要な要路でした。明治以降は車道として道路拡張が行われましたが、この名越の切通しのように一部の切通しは当時の古道の姿を残しています。歴史の街、鎌倉らしい景色を散策することができる場所として保存されているのは後世の人間にとってありがたいことです。
現在の鎌倉が、「風致保存地区」などの政策で、近代化が進む都市の中にこの切通しなど中世の自然や歴史景観を保存しようとしているのは評価できますが、住宅のすぐ隣に古びた寺院や樹林の中の古道が残されているため、道は狭く、道路の傾斜は急で、住むには大変かもしれません。また、聞くところでは外来種害獣の被害も大きいそうで、この日も住宅地を走るタイワンリスを数回目にし、山上の名刹・早川寺の本堂裏の崖ではアライグマの鳴き声を聞きました。
小田原城の「総構」とは ― 2026年01月29日 13:07
年初に神奈川県の箱根と小田原を旅行したのですが、その中の半日、ひとりで小田原西部の丘陵地を歩き、気になっていた「小田原城総構(そうがまえ)」遺構を見学しました。総構とは、いわゆる戦国時代末期の豊臣秀吉の小田原攻めにさいして小田原北条氏がその防御として造成した全長9キロに及ぶという長大な土塁のことで、多くは失われてしまいましたが、西北部にはその痕跡が残り、中には深さ10メートルの巨大な堀切が連続して残っている場所もあります。最近になって小田原市がこの遺構の観光地化を図っているようで、現地に行くときれいな説明パネルも設置されています。まだ観光客は少ないかもしれませんが、この日も私を含めてそこにいた見学者(というより歴史マニア)はその規模の大きさに驚きました。
小田原駅西口からかなり急な坂道を登ると、20分足らずで、のどかなミカン畑の広がるなかこの総構の遺構が次々に現れます。この道は詩人・北原白秋の別邸があったことから「白秋の道」と呼ばれる散歩道ともほぼ重なっています。「稲荷森」(下の写真)と呼ばれる場所では、竹林として総構堀が残っており、「小峯御鐘ノ台大堀切」(上の写真)「山ノ神堀切」などの壮大な堀も現存します。
北条氏が敗れ、徳川の時代になると、現在も残る小田原駅近くの近世城郭だけが小田原城とされていますが、防御構造としてのこの大構は、江戸城における外堀のように城の一部分をなす重要なものだと思います。戦国時代最後の巨城とされる小田原城ですが、その建設の中で「総構」と呼ばれる壮大な土塁軍が建設されたということになります。
「天正14年(1586)、豊臣秀吉との対立が避けられない状況となったことで、決戦に向けて小田原城の普請が進められました。天正15年までには三の丸の丘陵部を囲郭する<三の丸新堀>が構築され、八幡山・天神山を囲う大規模な堀が完成します。
そして、天正16年(1588)、北条氏は豊臣秀吉の「天下惣無事令」を破り真田領であった名胡桃城(群馬県)を攻略、いよいよ豊臣秀吉との決戦の日が迫ります。小田原ではその頃より小田原城とその城下町を囲む壮大な堀と土塁の普請が始められます。これがこの総構です」(小田原市公式サイト)。
3ヶ月の籠城戦を可能にしたのは、言うまでもなくこの総構の存在があったからでしょう。また、この小田原合戦を契機とし、各地の城郭では総構が構築される事例が増えました。小田原合戦後、江戸時代以降もこの総構は小田原の町を守り区画する堀として用いられました。
都内の古代東海道と古道 ― 2026年01月10日 17:15
1月初めのまち歩きで「隅田川七福神めぐり」の企画を立て、その下見に浅草の対岸にある向島地区を訪れた時のこと。東部伊勢崎線・堀切駅から江戸下町の路地を思わせる道を歩いている途中、正福寺の隣に「首塚地蔵尊」という興味深い場所があることに気がつきました。説明には<首から上の病に効験があると言われている「首塚地蔵」。天保四年(1833年)隅田川橋場附近の浚渫工事の際に、川床よりたくさんの頭骨が発掘されました。関係者は正福寺と共に、合葬し碑をたてて、首塚といったと伝えられています>という記載があります。
さらに、実はこの地蔵堂のすぐ前を東西に横切る道は「古代東海道」とされ地図に記載されていることもわかりました。はるか古代、律令制の時代にここを通過した古道のコースが残っているのです(上)。ご覧のようになんてことない道で、もちろん、遺跡などはまったくありませんが、ここ隅田川左岸地区は武蔵と下総の国府を結ぶ古代東海道(奥州街道)の道筋で、平安時代から幹線道路が通過し、隅田の渡船場があったのです。伊勢物語の古歌や能曲の梅若山王権現の舞台にもなっています。震災、戦災で大激変した街ですが、道中にあるこの「首塚」は古代東海道筋の近隣でどんな惨劇があったのかは不明ですが、何かロマンの一端を感じさせます。
この古東海道については、品川の高輪地区を歩いた時に、江戸時代の海岸沿いの東海道より古い東海道筋が高輪地区を通っていることを知りましたが、最後はこの地を経て下総の国に繋がっていることを再認識しました。
東山道から東海道へ
群馬県(古代は上野国)から埼玉県北部を通って東京・府中まで通じる東山道武蔵道があったことは知られていますが、この東山道は奈良時代になって、都と東国を直接結ぶ東海道(国府経由ルート)に組み込まれます。さらに、8世紀末の宝亀二年(771)、それまで東山道に属していた武蔵国は東海道に属することになったのです(『続日本紀』に載せる太政官奏)
この古代東海道は江戸時代の5街道のひとつであり日本橋で終わる東海道とは異なり、相模国の夷参駅(座間市付近)から下総国までの経路でその間に四つの駅であったとされています(上の地図=多摩市史:東山道から東海道へ)。その中の豊島駅と井上駅の間にこの隅田地区があります。
古代の道はこの東海道だけでなく、東山道が失われた後も上野国と武蔵、下総、常陸、相模などの国を結ぶ道がいくつも存在しました。この隅田地区には隅田川の渡し場があり、東西を結ぶ交通の要衝でした。
古代東海道の近くにも南北方向、東西方向に古道があり、隅田川堤防に沿うこの道もそのひとつとして記録され、説明版が立てられています。現在の堤防には防災機能を備えr壁のような高層住宅が連なり、隅田川も見えす、道は一直線に伸びています。付近に残る古道の曲がりくねった路地と対照をなしています。






















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