寄居・赤浜の俳諧碑と古文書2026年09月05日 20:43


川越から北へ向かう児玉往還という古い道があります。途中の武蔵嵐山付近までは鎌倉街道となっていますが、そこを過ぎると荒川に出ます。ここには橋がなく古来より船で越える「赤浜の渡し」になります。街道は上州・まで続きますが、この赤浜地区は渡船場という交通の要衝として宿駅が置かれ、この地の文化の中心の地位であったようです。


このため、この地に残された古記録や文化財も多いのですが、特別に有名な場所もなく、(私は)これまでほとんど知らずにいたのですが、昨年の夏ころから(まったく個人的なものですが)この地にかかわる話題を2つ知ることになり、不思議なものだと思っています。


■──壽楽院の俳諧記録──■


そのひとつは壽樂院という、この地にある古寺に関する文化財です。この寺院は荒川のほとりに建ち、上州新田家の家臣岩松家の創設という古い歴史がありますが、江戸時代以降は、聖天院信仰のひとつである荒川歓喜天の中心として多くの参詣客が訪れ、俳諧などの文芸の奉納も盛んだったようです。


私が以前属していたある団体の青木美枝さんという女性会員がこの地の郷土文化人で、この壽樂院に残された句碑や俳額、墓碑などの古記録を時間をかけて解明していたのですが、2024年くらいと思いますが郷土史研究雑誌『埼玉史談』にその結果を発表しました。全解明ではないようですが、今後を考えて公開したのでしょう。団体で一緒だった人が昨年コピーを送ってくれました。


記録は2回連載されています。順に芭蕉句碑、探題箱(仮称)、季題札(仮称)、俳額、連句額、墓石となります。簡単な概要を気記しますが、私は青木さんのように文学者でないのではほとんど感想です。


●芭蕉句碑


最初にいったように、この壽樂院には歓喜天を祭る「聖天堂」があり、江戸から明治にかけて北武蔵一帯の人々が祈願・供養の目的で参拝しました。こうした地域の文化人による俳句額や連句額もかなり奉納されていたようで、芭蕉句碑はこうした地域の文人たちの手で幕末期に建てられたものです。「川上とこの川下や月の友」という、芭蕉が江戸の住居近くの小名木川(隅田川に注ぐ運河)で詠んだ句(続猿蓑)が彫られています。(上の写真と拓本は深谷市のホームぺージより)


句意は青木さんによると「今宵は名月。川上にいる友も、川下にいる自分が今見ている月を、きっと眺めているだろう」というもので、何かにつけて月見を楽しんだ江戸期の文人の荒川を通じた風流の心を感じさせます。


「句碑の文字が立派」と青木さん。「堂々としていて嫋やかで、まるで荒々しい急流の荒川が秩父の山奥から流れ来て寄居の街を通り抜け、ようやく伸び伸びと全身を広げたかのような」というとおりの自由闊達な筆遣いと思います。書家を「掖山巻紀拝書」と判読しています。同じ巻掖山の句碑裏の碑文には句碑を建立した趣旨が述べられています。これも難しい古体文なので、青木さんが示してくれた現代文の文意を載せておきます(一部改変)。


 川上とこの川下や月の友 の芭蕉句碑文章


「荒川は秩父の山から流れ出て、隅田川の上流のことである。岸は険しく、流れは急で、まるで放たれた矢のようだ。武蔵野に流れ来ると、眺望が一気に開け、この地で見る月の眺めは素晴らしい、荒川を巨擘(天下一の川)と呼んでほしいものだ。芭蕉翁が深川で吟じた月の一句に共感すると言って、この地の人々が心を一つにして壽樂院にこの碑を建てたのである。寺の境内の花々、荒川の岸辺に遊ぶホトトギスや千鳥たち、白く輝く秩父の山並み。それら全てが荒川の景色にみごとに調和している。この荒々しい荒川には、戸田から登る鮎や鯉が急流の中で育ち、昔から御上への献上品として知られている。この鮎や鯉のように、荒川の上流下流に住む人たちが、水魚のように友誼として仲良く行き交い、高尚な一路(俳諧・発句の道)を辿って(学んで)いけば、必ず荒川のように立派な物人が出てくるに違いないと信じてこの度、この碑を建てたのである」(最後に「慶應三年八月 東都 行庵酒雄 識」と記されています)


●探題箱(仮称)と季題札(仮称)


俳諧の集まりで季語の選定などに使用したものと思いますが。詳しい使用法は不明とされています。しかし、後年になり、箱の中に季題が書かれた木の札が91枚発見され、青木さんの解読された季題が発表されています。


●俳額・連句額


寺社への額の奉納は各地で行われますが、ここでは、この地方で行われた俳句の会の作品を額に書いて、歓喜天の中心寺である壽楽院に奉納したものでしょう。俳額は縦約75cm、横約240cmのかなり大きなもので、修復されているため判読は比較的明瞭な状態とされています。青木さんは、ここに掲載された俳句と連句を句内容と詠み手、地域を解読して掲載しています。内折々の生活の中でつくられた素朴であたたかい雰囲気が、江戸末期から明治期の地域の雰囲気を現わしているようです。


■──寄居に残る古文書──■


もうひとつは、同じく寄居の赤浜地区に残る古文書を研究・解読して、その結果を自身のWebサイト「寄居の古文書([yorii-komonjyo.org])で発表している内藤正人さんです。内藤さんの場合も所属する会の友人を通じて、その研究成果を知ることができました。内藤さんと私は直接の面識はありませんので、二人とも知人というわけではありませんが、偶然とはいえ、またまったく個人的なことですが、埼玉県北部の赤浜という共通の場所で、ほぼ同じ時期に、地域の文化財発掘に取り組む人がいてそれを知ることができたということに何か偶然の妙みたいな思いをしました。


内藤さんの研究の全容と、こうした作業に取り組むようになった経緯については、上記の寄居の「古文書サイト」本文と関連エッセイで詳しく語られています。発端は「定年を迎え古文書修業の第一歩として、妻の実家の戸籍を頼りに家系図作成を目論んだところ、妻の高祖父が赤浜村(現埼玉県大里郡寄居町赤浜)の名主を務めていたこと」のようで、「(奥さんの高祖父が)名主を務めた慶応4年(1868)・明治5年(1872)の2冊の御用留を複写することができた」のををきっかけに、それから始まったという、古文書初学者の悪戦苦闘は「出会いから公開まで」のページで紹介されています。


現在、同サイトでは「歴史的出来事に関連する御用留を、かいつまんで紹介するのではなく、御用留を記載順のまま全文掲載することで、主観をできるだけ排し、客観性を重視する方針」としているとのことで、 トップページにその趣旨が記されています。


「タイムマシンに乗って、ある時代のある地に降り立てば、その土地の当時の出来事が体験できる。多くの人が一度は空想したことがあると思います」「慶応4(明治元)年と、明治5年の2冊の御用留をはさんで、神仏分離令・江戸を東京と改称・明治と改元・版籍奉還・戸籍法公布・廃藩置県等々、明治政府により社会制度の大きな改革が実行されました」「2冊の御用留を並べることで、明治初頭に庶民の生活がどのように変化していったかを疑似体験してみたい」2025年6月、6年の歳月を経て、ようやく公開することができました。」


どうぞ、このサイトを訪問し、歴史の面白さを感じてください。


両国で「バッグ」を紛失2026年08月26日 19:28


東京都墨田区両国にある江戸東京博物館が約4年間の大規模改修をへて今年3月にリニューアル開館しました。この江戸東京博物館を訪れるという見学会がありシルバーデーで65歳以上が無料になる日に、例の友の会見学会で一緒に訪問しました。この博物館は実は少し前に家族でもいっていましたが、内容は何回行ってもそれなりに興味深いので楽しんだのですが、その昼の食事休憩時(前後)に、私の不注意で自分の背負っていたバッグを紛失するということがありました。


身に着けていたバッグを無くすというのはなんとも間抜けなことですが、中にはその日の朝の両国駅での集合時に参加者30人から集めた参加費約9000円も入っていました。あとは本人の小銭入れや事務用品、資料などですが、そうした実害はもちろんのことながら、紛失したことに気が付かなかったという自分の情けなさや注意力の喪失感で実に不快な感じになりました。


細かいことをいっても仕方ありませんが、(蕎麦屋さんでの)昼食の後ににバッグがないことに気づき、すぐにその店と「両国のれん」という駅中の施設に紛失届を出し、さらにおそらく博物館を出る際に置き忘れてきたのではないかということで、一緒にいた見学会の委員の人たち数名と一緒に江戸博にもどり、会場内を探し、ここでも受付に遺失物の届けを提出しました。場合により、店外で発見の可能性もありますので、少し離れた両国交番を探して、ここではかなり詳しい遺失物届を提出し、遺失物番号をもらい「都内で発見されれば連絡されます」との言葉を受けました。


ということでその日は、暑い中、数箇所を歩いて付き合ってくれた友人たちに感謝してあとは連絡を待つだけになりました。水曜日でしたが、翌日の木曜日になっても連絡はありませんでした。次の金曜日の午後、「両国のれん」の警備の人から電話がありましたが、「まだ見つかりませんか?」というお尋ねでした。気を使っていただいているようです。そしてさらに1日おいて日曜日の午後、また「両国のれん」から電話があり、今度は「黒いカバンが見つかったようなので、明日にも本所警察に連絡するように」とのことでした。発見時の状況をきくとほぼ間違いなさそうです。そのさい、遺失物ナンバーを教えられました。


翌月曜日の朝、さっそく、指定された本所警察署に電話しました。代表電話で、事件ではなく遺失物の確認だと告げると、会計課というところに転送され、女性の担当の方に「遺失物ナンバー」を伝えると、しばらくして手元にバッグを持ってきたようで、当方の伝える形状・特徴が一致したということで間違いないでしょうとなりました。さっそく、暑くならないうちにと午前中に押上にある本所警察署に出向き、現物を受け取ってきました。


返ってきたバッグは資料などの内容・中身もまったく紛失前と同じで、実害はありませんでした。現金については小銭も含めてすべて外に出され、警察の会計?に入るようで、そのまま同額が別に返金されました。中2日ほどおいて、施設の方からの届け出のようなので、あの日、蕎麦屋さんに入る前にどこかに置き忘れ、そのまま見つからなかったという感じです。思えば、「なくした」と気づいた時、単純に「江戸博に置き忘れた!」と思い込んでしまったのが間違いでした。思い込みを反省しました。「両国江戸のれん」の担当の方、博物館の担当の方、本当に親切でした。皆様ともども感謝です。


写真は本所警察署付近から見た東京スカイツリーです。

槍ヶ岳の岩穴の思い出2026年08月04日 18:50


連日の灼熱地獄の中で、ときおり、以前に登った北アルプス、槍ヶ岳のことを思い出すことがあります。とはいえ、登頂の感激など良い思い出ばかりではなく、私には頂上小屋を前にした最後の急登の苦しくそして暑かったことが体感的に蘇ってくるのです。目の前には目的の槍の穂先も小屋も見えているのに足元の滑りやすい登山路は厳しく、なにより8月の太陽はこれほどの高地でも容赦してくれません。休みながら一歩ずつの蝸牛のごとき歩みで、同行者に遅れ、あせりますが足が進みません。


そんな中で途中の少し窪んだ岩場の下に小さな洞窟のような場所があり、そこにあるの修行者が登山中に休んだという岩穴だと誰かがいっていました。なかばふざけて、そこに入って陽をよけて休もうとしましたが、かなり狭く、ちょっと無理でした。どうもこの穴は、(あとで調べると)「播隆窟」という知られた場所のようでしたが、その時は知りませんでした。


上の写真がその岩穴で、「山岳/アウトドアライター 高橋 庄太郎氏のブログ(http://yiz00776.cocolog-nifty.com/blog/)」に掲載されています。「播隆窟とよばれ、それなりに歴史的なスポットだけに、入り口付近には金属プレートに説明書きが付けられている」とあります。金属プレートには気が付きませんでしたが、そうでないと、そいいう“いわれ”を聞くことはなかったでしょうから、多分あったのだと思います。


現在、日本アルプスのほとんどの登山道にはいくつもの山小屋があり、登山者はそこで休憩したり泊まったりできますが、江戸期から昭和までこうした設備のない中で、登山者あるいは修行者は山中の岩の窪みで雨風、雷を避け、野宿をしていたようです(播隆窟は小さくてあまり実用的ではないですが)。


明治から大正期に活躍した作家の芥川龍之介は東京府立三中(現・都立両国高校)の3年生だった1909(明治42)年8月、学友5人で案内人を雇って槍ヶ岳に登頂していています。この経験は作品『槍が岳に登った記』や『槍ヶ岳紀行』として発表されています。最近までこのことを知らなかったのですが、深田久弥の『日本百名山』には東大の同窓生で評論家の小林秀雄のことが何回か出てきますし、川端康成も伊豆山を歩いているわけですから、当時の裕福な大学生に流行した趣味であることがわかります。


登山は今やもっともカネのかからない大衆の娯楽になっていますが、当時は今の海外旅行なみだったのかもしれません。高校生の芥川などでも案内人を雇っていますから、時間と費用をかけて浮世を離れた登山などできるのは、当時でもかなり恵まれた家の子弟だけだったと思います。


芥川龍之介の槍ヶ岳登山は横尾から始まりいくつかの山を越えていたようですが、この時に河童橋(上高地)があり、後の小説『河童』はこの橋のたもとの穴から始まります。また、槍ヶ岳登山の途中には赤岩という巨大な岩の下の洞窟状の窪みで休憩したことがでてきます(下の写真)。



この岩屋は、「赤沢岩小屋」と呼ばれる登山の拠点だったようです。これも、高橋庄太郎氏のブログによると、上の写真のような場所です。確かに私がもぐりこんだ「播隆窟」と比べると、数人がキャンプできそうな場所ですが、現在はほとんど立ち寄る人もいないようです。

江戸時代の奉行制度とAI2026年07月14日 14:56


また森鷗外からのスタートで失礼します。1915年(大正4年)に発表された『最後の一句』という歴史小説があり、これにも太田蜀山人の随筆『一話一言』という元資料がありますが、タイトルになっている「最後の一句」というのは文中の言葉は鴎外の創作とされています。


あらすじは、元文3年に大阪の船乗り業者桂屋の主人・太郎兵衛が積荷の不正事件で死罪となります。悲嘆にくれるその家族の中で、長女のいち(16歳)をはじめとする5人の幼い子供が「父の代わりに自身と兄弟たちを死罪にしていただきたい」という驚くべき助命の願書を出します。この時の大阪西町奉行佐々又四郎が大阪城代に相談、女房と子供たちを白洲に呼び寄せ、責め道具を並べて圧迫し、一人一人に事情を聞ききますが、いちだけは祖母の話から事情を聞き父の無罪を確信したこと、自身を殺して父を助けてほしいことを理路整然と答えます。なおも、「お前の申立には嘘はあるまいな」と佐々が拷問をほのめかして尋ねても、いちは「間違はございません」と答え、なおも、お前の願いを聞いて父を許せば、お前たちは殺される。父の顔を見なくなるがよいか、との問いに、いちは冷静に「よろしゅうございます」そして「お上の事には間違はございますまいから」と付け加えます。この「お上の事には間違はございますまいから」というのが表題の最後の一句です。願いは聞き届けられ、太郎兵衛は、この時の宮中での桜町天皇大嘗会執行恩赦を名目に死罪を免れます。


小説としては大事なポイントである「お上の事には間違はございますまいから」という言葉ですが、これは鷗外の創作で、この言葉を聞いた奉行などの驚きと警戒の念などの細かい描写には官僚組織から身を引いた当時の鷗外の思いが込められているとされています。


ただ、ここで私はこの「最後の一句」に、深入りしません。思うのは、こうした心情に訴えて罪状が軽減されるということが起きたということの意味です。子供たちのこの行動は、戸時代の書物『五孝子伝』などにも「浪速の五孝子」として記録が残るようで事実と思われます。15歳の少女がこうした行動を思いついたわけですから(お上に)こうした嘆願書を出すということは、珍しいことでしょうが、社会的に考えられないことではなかったようで、小説の中にも「目安箱」の制度があるのだからどんな訴えも聞かないということはないのだと奉行が判断する一節があります。


現代の裁判制度の中でも判決に対して心情的な意味で主に刑の軽減を求める嘆願書はあります。この嘆願書は、現状では刑事訴訟法に基づく「情状(量刑を決めるための様々な事情)」を立証するための、数ある証拠の中の一つという位置付けです。


ここで出てくるのが「情状」です。量刑を決めるための様々な事情というわけですが、これは個々の裁判での被告の個人的・社会的な事情を裁判官が斟酌して量刑の参考にするということになります。現代の人権意識では親の代わりに自分を斬首してほしいというような歎願が受け入れられることはないでしょうが、子供や恋人の代わりに身代わり自首するようなケースはあるのですから、心情的にはありえます。


大事なのは、こうした人間の情愛・感情を判断・斟酌できるのは情愛・感情を共有できる人間だけだということです。昨今はそれも分からない人もいるようですが、これは別として、こうした究極の判断を「機械」には任せられません。お分かりのようにここにAIによる判断の最終基準があるということです。


昨今のウクライナ戦争を報じるメディアの情報によると、戦闘において、人間の兵士の代わりをするロボット兵士(兵器)が実際に登場しているようです。恐ろしいというなかれ、一般市民に無差別殺人やレイプを行う可能性のある人間の兵士より、そうした行為をシステム的に禁止したロボットのほうが安心だという意見もあります。これは自動操縦の自動車の安全装置にもいえそうで、どんな状況でも冷静さを失わない自動運転のほうが事故は少ないという結果もあるそうです。


思わぬ方向に進んでしまいましたが、わかることは、「(もしかしたら悲嘆にくれる母親の心情を察したのかもしれませんが)父の命を救ってほしい」と訴える15歳の少女の一途な気持ちにこたえる心情を持っている奉行が、当時の江戸幕府の官僚制度の中にもいたということです。



(上)こんなSFみたいなものは無いようですが、(下)は本当に計画中のロボット戦闘車のようです。これにAIが搭載される日も近いでしょう。


元箱根の六道地蔵2026年06月18日 14:21


上の写真は「六道地蔵」と呼ばれる箱根の石仏です。巨大な岩に穿った浅い洞窟の中に掘られた仏像いわゆる摩崖仏です。


小田原と三島の間の箱根路を通る東海道には旧街道が残り、主に江戸時代に造られた石畳道などを随所に残して、そこが「自然歩道」として整備されていることから日本の「旧街道歩き」の精緻のようになっています。しかし、この旧街道ルートは、登山鉄道やロープウェイが通る強羅や塔ノ沢、芦ノ湖観光などの代表的な観光ルートからはずれていますので、意外に通ることが少ないものです。


私も箱根には結構来ていますが、この旧街道ルートを実際に踏破したことはなく、せいぜい観光地である箱根関所跡付近にその雰囲気を感じる程度でした。しかし人生も終盤、心残りのないようにということで、今回は山の会で、地形や道の様子を探りながらの再訪することを考えながらい歩いてきました。


出発は根湯本駅からです。早雲寺までは裏の狭い近道を行きます。この日の朝までかなり雨が降っていたこともあり道は濡れています。畑宿までの2時間弱の緩い登り坂で、途中の新道の並行する旧道の石畳道はけっこう歩きにくいです。それでも当時の旅人には、それ以前の泥道や竹道よりはるかによかったようで、明治に入ってもこの石畳は造られつづけたとのこと。確かにより古い道と思しきあたりでは石の角がすり減っている気がします。


増水した須雲川や避けて途中の急坂区間をバスで乗り切り、甘酒茶屋まで進み、休憩後、ここからも石畳歩道など旧街道の雰囲気を感じながら芦ノ湖畔の元箱根港に到着です。のどかな雰囲気から一転、観光地の雰囲気です。


この元箱根からも、いわゆる「鎌倉古道」と呼ばれる湯坂道方面に続く旧道が延びています。今回の旧道歩きは当初からこの近くに残る「箱根仏群」に立ち寄るのが大きな目的でした。小涌谷を経て箱根湯本へ帰る路線バスに乗車してすぐの「六道地蔵」バス停で降ります。一面何もない草原が広がり芦ノ湖方面には小さな池が見えます。これが精進池で、ふとみると道のわきに「箱根石仏群」という色褪せたパネルがひっそりと建てられています。以前あったという「石仏館」は終了ということで、今や立ち寄る人もないのかもしれません。無情なようですが、こののさびれた風景は石の地蔵にはふさわしいのかもしれないと私には感じられました。石仏群は旧道をはさんで広がっていて、六道地蔵はすぐ先にある素朴な地下道を通って街道を越えた反対側にあるようです。




狭い広場の先、崖沿いの草に半分隠れるように見えるのが地蔵堂でしょうか。建物に近寄るとお堂の中の暗闇に星の光る白い点が見えます。お堂は浅い洞窟を覆うように建てられていて、中心に六道地蔵が白い岩の台座に座っています。暗い中で、よく見ると岩一面に浮き彫りされていることに気がつきます。これが摩崖仏─岩に刻まれた仏像です。星の光と見えたのは菩薩の額の白毫(びゃくごう)でした。暗さに慣れてきても全体はそう明瞭には見えませんが、白い石に掘られた蓮の花びらに座り、右手に錫杖をもっているのは間違いなく地蔵菩薩です。座像は珍しいかもしれません。大仏とはいえませんが、ひとの倍位の背丈はありそうで、静かな顔がまっすぐこちらを見ています。


私がこのような洞窟の中の仏像を始めてみたのは九州を訪れた40年ほど前のことです。JR大分駅からバスで30分ほどの距離にあった低い崖の中腹に掘られた洞窟でした。当時はまだ臼杵大仏が国宝指定される前だと思いますが、まして有名遺跡でもないこの場所には訪れる人もなく閑散として、探さなければ場所もわからないほどでした。しかし、外光を浴びてかすかに輝く石仏(廬舎那仏だったと思います)の存在感には息を飲む思いでした。宗教的というより美的芸術として素直に感動したのだと思います。


その後、旧街道歩きや見学会で多くの野仏、石仏に出会う機会が増えましたが、今回この箱根で出会った「六道地蔵」は、大分の摩崖仏以来のすばらしい経験でした。箱根の六道地蔵は再建されたというお堂に保護されていますが、近くにお寺や施設はありません。また、この箱根石仏群には他にも応長地蔵(火焚地蔵)など、いくつもの貴重な石仏が残り「六道地蔵」と同じ国の重要文化財に指定されているものもありますが、六道地蔵以外はほとんど野ざらしで芦ノ湖畔の旧街道脇にたたずんでいます。


この場所は江戸時代以前から東海道が通っていましたが、時に火山性の有毒ガスと思われる現象で旅人が亡くなったそうです。そこで、地獄と呼ばれここが六道(地獄・餓鬼・畜生・修羅・人間・天上)に分かれる辻だと考えられていたとかで、無名の修行僧がここにあった箱根火山の噴出岩に心を込めて仏像を刻んだのだと思います。精進池という名ものもその名残でしょうか。


この地蔵群を超えると道は東に曲がり、湯坂道とよばれる尾根道をたどって箱根湯本に向かう山道になります。今回の須雲川沿いの道ができる以前のいわゆる「鎌倉古道」です。

美しく怖いシャクナゲの花2026年05月28日 18:17


5月の中旬、伊豆半島の天城山に登ってきました。天城山は伊豆半島最高峰の万三郎岳(1406m)を含む天城連山の総称で、原生林や池が広がり、豊かな自然が残されているので私も観光などでたびたび訪れていますが、登山は初めてです。東伊豆の伊東駅からバスと車で約1時間の「天城高原」地区はゴルフコースが有名ですが、天城山を縦走するハイキングコースも整備されています。有名な場所なので手入れがされていると思ったのですが、万三郎岳、万二郎岳をめぐる周回コースのかなりの部分の登山道がかなり荒れていて、丸太などで設営されていますが、ほとんど歩けないような場所もあります。特に縦走後半の下り部分では、標高差も少なく地図上では平坦に見えるのですが、思わぬ時間がかかってしまいました。


もっとも、これには登山者(私のこと)の高齢化に伴う肉体の限界もあり、致し方ないのかもしれません。文句をいいましたが、今回の登山道はすべて温暖林の豊かな樹々に覆われた樹林で、まさに「涼しい環境と豊かな自然が魅力」といううたい文句通りの山歩きになりました。ただ途中に無数にある林の中の小流や谷川といった水の流れがほとんど枯れていて、岩石の河原を横切るということが多く、今年の冬の水不足を実感しました。また、そのせいで、登山後の2日間、脚の筋肉が痛かったです。






このシャクナゲは、平地の庭園にも普通に見られますが、標高2000メートル以上のほとんど森林限界というような、しかも岩だらけの場所に生えていて、春には綺麗な花を咲かせます。その理由ですが、その厚い葉には「毛茸」と呼ばれるふわふわとした毛が生えており、これが厳しい山岳環境での強い日差しや乾燥、風から身を守るようです。さらに、なんとその葉や花、蜜などには「グラヤノトキシン」という強い神経毒が含まれいて、誤食すると人間にとっても危険なほどだそうなので、当然シカなどの野生動物の食害からも守られているという、まさに「きれいな花には毒がある」を実践しているわけです。この「きれいであり、シカなどの食害もない」というのが現代日本でもっとも身近な植栽に利用される理由だと思えます。

寒山拾得2026年05月02日 14:22


中学校だったと思いますが、国語の教書に「寒山拾得」という短い話が載っており、その中には2人の子供のような姿のお坊さんが笑いながら佇んでいるような奇妙な挿絵が掲載されていたのを覚えています。この『寒山拾得』というのが森鴎外の小説というのはどこかで聞き及んだ覚えがありますが、改めて全集版の中にこの、短い物語を発見し、『寒山拾得縁起』という、関連というか、同時に、この小品作成の契機となったことを書いたエッセイも読むことができました。


寒山拾得というのは、古代中国の寺に残る唐の時代頃の伝説来な僧侶・詩人とのことです。豊干・寒山・拾得の作として多くの漢詩が残っており、実在の人物とする見方もありますが、詳しいことは不明だとのこと。詩とともにいうか、それ以上に有名なのが「寒山拾得図(禅機図断簡)」という、上の図の国立博物館所蔵の「寒山拾得図(禅機図断簡)」で、同館のホームページ掲載のものです。教科書に掲載されていたのもおそらくこの絵でしょう。ここには、特に難しいものはなく、自由で楽し気な生活のイメージだけが残ります。この絵があってこその寒山拾得伝説といえるのではないでしょうか。


もちろん、鴎外の小説もこの絵の生み出す、2人の子供のような僧侶の陽気で反権威的な生き方にあこがれるような雰囲気をもっています。唐の時代に頭痛に悩む官吏・閭丘胤が豊干禅師に導かれ、文殊菩薩と普賢菩薩の化身とされる寒山と拾得という二人の奇妙な風狂僧に会う物語です。寒山と拾得の隠遁生活と無の境地、そして「道」への問いかけを描いた作品です。 「唐の貞観のころだというから、西洋は七世紀の初め日本は年号というもののやっと出来かかったときである」で始まり、閭丘胤という台州の主簿というかなりの高官でありながら実在したのかしなかったのかわからないが、実在しないと話にならないのでいたことにする、というひとを食った設定で始まることでわかるように、鷗外の中では力を抜いた楽しんで書いたと思われる作品ですが、その理由はほぼ同時に書かれた『寒山拾得縁起』というエッセイで明らかになります。


「縁起」によれば、この寒山拾得については自身の子供に説明を求められて即興的に書いた話だというのです。この『縁起』の最後に、寒山が文殊菩薩の化身というこの意味が2人の子供にわからず、説明のために当時「メッシア」(救世主)と話題になっていた人物のこと例えに語るも、それも子供には通じないので「実はパパァも文殊なのだが、まだ誰も拝みに来ないのだよ」というのが最後のオチみたいになっています。この部分も教科書にあったように記憶しているのですが、確認できません。もちろん、いくら簡単に書いたといっても鴎外の小説ですから、難解な部分や語句が登場します。教科書版はどちらも抄録だったかもしれません。


この寒山拾得図を鷗外は自宅に飾っていたというますから、この楽しい世界を好んでいたのでしょう。よくいわれるように、鷗外は自身が陸軍のほぼ最高の高級官僚であり、常日頃、役人世界の通俗さを感じていながら、小説など精神の世界ではまったく異なる自由な内面を探求するという、複雑な精神生活を送っていました。しかもその2面性を鷗外は破綻なくこなし、豊かな家庭生活も送りました。この『寒山拾得』に登場して、自由人たる禅僧に対して堅苦しい名乗りを行って、笑われてしまい呆然とする官吏・閭丘胤の姿は、確かに形式ばった官僚への風刺や皮肉というレトリックを感じさせますが、されにそれを超えて、ただただつまらぬ狭い世間を笑い飛ばしてしまう豪快さを感じさせます。


寒山詩は唐代の隠者文学として、当時の禅僧からよく読まれたそうですが、それは隠者たちのあいだで、現世の価値観の愚劣さを強く批判する考えがあったからで、その点が、鴎外のこの作品の主題を解く鍵になるとされています。

Eメールが届かない!2026年04月25日 17:05


このブログの見学会の記事でおなじみの団体のお世話をしていますが、会から会員への情報連絡は数年前からホームページに掲載しさらに定期的にEメールによる通信を組み合わせるというそれなりに現代的な方法に切り替えています。利用しているLPというレンタルサーバーにはホームぺージの他に「メールマガジン機能」があり、500人規模の登録のメルマガジンを複数作ることができるので「Web会報」という形で2か月に一度、定期配送しています。


ところが、2週間ほど前の4月10日に送信したこの会からの情報が一部の会員に届かないということが起こりました。ややこしいことに無事に届く会員もあり、実は私自身のメールアドレスにも届くものとそうでないものがありました。私の場合、2つのメールアドレスがあり、一方に届いていたので、すぐには気がつかなかったのです。(上の図は私の使用しているメールソフトの受信画面)


 ●2つのネット会社と4回の情報のやりとり


今回の連絡には5月の総会などの案内も含んでいますので少しあわてました(後述のように同じ内容でホームページもありますので致命的ではありませんが)。とりあえず役員を中心の10数人に(通常のメール送信で)着・不着の確認を行いました。その結果わかったことは驚くことに不着つまり届かなかった会員のほうが多かったのです。こういうことはこれまでなかったので、これは送信側の問題だろうと考え、サーバーのメンテナンスに連絡をとることにしました。この会のネットの運用は、先に書いたようにホームページ運用も含めLPというレンタルサーバーを使用しています。このサーバーの中の「メールマガジン機能」はわりに簡単な設定で利用でき、これまで特定のアドレスに届かないということはありましたが、ほとんどは不注意によるもので大規模は問題はありませんでした。


ユーザーページの中にサポートの項目がありますので、まずはネットで質問を送信しました。最近はほとんが最初はAIによる自動対応です。メールアドレスの間違いや迷惑フォルダ機能による間違いがないこと、先月まで正常に受信していた多くのユーザーが一斉に不着になったことなどを説明すると、カスタマーサービスに連絡をするようにとの案内が出ました。いよいよここからが人間との話し合いです。


このあと、LPのカスタマーサービスに、このメールマガジンが届かない件について正式に調査をお願いしました。2日後に「配送ログを確認したところ、宛先側のサーバーにて受信が拒否されている状況でした。」との回答がありました。拒否の理由はメールあるいはドメインの形式が不明あるいは無い?ということでしょうか。前回までは届いていたので不思議なんですが、まずは、受信側のサーバーに問い合わせということで私のメールも対象なので、すぐに(送受信に利用している)asahi-netのサポートに問い合わせしてました。


asahi-netのサポートは以前も使用したことがあります。今回は2回やりとりを行い、結果として、当方から送ったEメールのソースコードを解析してもらい、以下の結果になりました。ほとんど意味はないと思いますが、記録として載せておきます。


   *


2か月前に直接届いたメールのヘッダより、システム上の差出人アドレスがだと確認できました。/@前は都度変更になる可能性が高いため、ドメイン「@mm.junosaitama.net」で****の配送記録をお調べしたところ、着信エラーが確認できました。/・エラー内容:Rejected by no getting sender domain records/送信元のレコードが見つからないというエラーで、SPF、DKIM、DMARCなどの設定が不足しているために、セキュリティ上のポリシーで受信拒否されたと考えられます。大変お手数ではございますが、配送元にドメインの設定についてご確認いただけますと幸いです。


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ここで<jp@mm.junosaitama.net>というドメイン(発行元のネット上の住所)名が出てきました。これで謎がとけました。これは昨年(2025/03)の更新時に新規継続をしないで中止したドメインです。そのかわりに現在は<https://junosaitama.main.jp/>というサブドメインを使用しているのですが、この旧ドメイン名がメールマガジンの初期設定の中に残っていて、送信されるそれぞれのメールのヘッダ情報に書かれていました。そこで、こんどは受信したそれぞれのメールサーバー側がこの情報によりサーバーを調べて、(3月までは存在したが4月には)存在しない─そこで怪しいメールという判定をして「受信拒否」したのではないでしょうか。


一度中止したドメインがどのくらい残存するのかを調べてみると<GoogleのAI>の回答では


ホームページのドメインが有効期限切れなどで「有効でなくなった」場合、即座に削除されるわけではありませんが、最終的には削除(廃止)されます。ドメインは、有効期限が切れた後、一定の猶予期間を経て、最終的に誰でも取得できる「空きドメイン」の状態になります。 /ドメインが有効でなくなった場合でも、即座にデータが完全に消滅するのではなく、一定の「猶予期間」を経てから削除される仕組みになっています。


また、その猶予期間については1年間ではないかというの回答が次の通り


結論として、「ドメインが失効してから約1年間は復旧可能な猶予期間が続き、その後に完全に無効化される」という流れは、多くのドメインで一般的な挙動です。/あなたが経験した「ほぼ1年後に無効になってエラーになった」という状況は、典型的なケースに当てはまっています。


ただ、ここで最後の疑問が残ります。それでは、ドメインが失効しているのになぜ有効なメールと無効なメールがあるのかということです。これについては、それぞれのメールサーバーの仕様(機能)によるとしか思えません。これが現時点の結論です。


 ●メーリングリストにより送信は再開


この間の経緯ついては、約10日後に全会員に説明の連絡を出しました。その中で「これまで使用していた「メールマガジン形式」の配送を中止、あらたにメーリングリスト形式のEメールを送信することになりました。形態は違いますが、会員の皆様はこれまでと変わらず着信した情報をお読みください」としました。メーリングリストもLPの機能ですが、登録したメールデータがほぼ同じように使え、かえって運用も柔軟になると思いますので切り替えた次第です。

敵討ちで寺社巡りの謎2026年03月21日 14:06


われわれは今でも旅行や見学会というと、目的地でなくてもその行程の中にある有名な神社やお寺にお参りします。近くに出かけるときでも、ごみごみとした人出の多い場所や施設を敬遠するようになると、特に理由はなくともその地域の寺社にいくことがあります。現代人にとっては古い歴史や文化財・自然に触れるような思いがするからだと思います。昔のひとはどうだったかというと、江戸時代の名所絵図などを見ても、各所の風景や自然とともに神社仏閣をたずねてあるくということが多かったようです。ただしそこには明らかな時代による目的の違いがあるようです。


現代人は寺社に自然や清らかさ、静寂といった精神的な慰めの要素を求める割合が高いでしょう。しかし江戸以前の人たちにとっての寺社仏閣参りにはもっと切実で直接的な要望・願いがあったのではないでしょうか。例えば寺社の境内で定期的に開かれる縁日などの市場には普段購入できない工具や資材、珍しい食べ物を扱う屋台が並び、現代のデパートや専門店のような役割があったことが想像できます。これは1950年代くらいまで続いていたかもしれません。


さらに、これは現在ではほぼ「お遊び」の領域になってしまったような「占い・お神籤」や「お守り」の価値が想像以上に高かったことです。病気を直す医学が不十分で、広範なコミュニケーション手段も皆無の時代、不安を解消し、何かを求めるには寺社の神託にすがる以外にありませんでした。


もうひとつ、現在ではあまり意識されませんが、寺社地というのは人々を引き寄せる特別の空間であったことです。人びとが自分の村や町を離れることは難しく、広範な地域を結ぶ交通機関もありませんでした。寺社以外に人々が日常的に出会う場所はほぼありませんでした。そしてそこは同時に多くの情報が集まる場所でもあり、群れ集う人たちに訪ね、噂話に耳をすませば、現代人がテレビやネットで得るような情報が得られたに違いありません。


ひとが情報を求める必要性―そのもっとも切実なのが誘拐された子供や失踪した親兄弟の捜索そして犯罪者被害者による「犯人捜し」でしょう。森鷗外に『護持院原の敵討』という短い歴史小説があります。敵討は「かたきうち」と読み、仇討ち(あだうち)ともいいますが、江戸期には「主君や直接の尊属を殺害した者に対して個人的に復讐を行う日本の制度」とされ、武士には条件により公権力から正式に認めれていた行為です。しかし、この敵討の難しさはなにより目的の敵である人間をどう探し出すかという点にあります。警察力による捜索がない時代、どうのようにして目的の人間を探し出すのか。この小説には敵を探す旅で日本中を放浪するさまが描かれていますが、彼らがよりどころとしたのが各地のこうした神社仏閣でした。


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小説では、姫路城主酒井雅楽頭の江戸上邸の大金奉行、山本三右衛門が侵入した盗賊により殺害され、その息子と姫路にいた三右衛門の弟、賊の人相を知る町人の3人が仇討ちの許可を得て出発します。特にあてはなく、上州方面という噂により、まず高崎に向かいます。本文からその後の捜索を追ってみます。


結局、高崎(上州)では足跡が知れないので、前橋へ出ます。藤岡に出て、五六日いた。そこから武蔵国の境を越して、児玉村に三日いた。三峯山に登っては、三峯権現に祈願を籠めた。八王子を経て、甲斐国に入って、郡内、甲府を二日に廻って、身延山へ参詣した。信濃国では、上諏訪から和田峠を越えて、上田の善光寺に参った。越後国では、高田を三日、今町を二日、柏崎、長岡を一日、三条、新潟を四日で廻った。そこから加賀街道に転じて、越中国に入って、富山に三日いた。木曽路を太田に出た。尾張国では、犬山に一日、名古屋に四日いて、東海道を一宮に出て、佐屋を経て伊勢国に入り、桑名、四日市、津を廻り、松坂に三日いた。松坂を立って、武運を祈るために(伊勢神宮に)参宮した。それから関を経て、東海道を摂津国大阪に出て、ここに二十三日を費した。その間に松坂から便があって、紀州の定右衛門が伜の行末を心配して、気病で亡くなったと云う事を聞いた。それから西宮、兵庫を経て、播磨国に入り、明石から本国姫路に出て、魚町の旅宿に三日いた。それから備前国に入り、岡山を経て、下山から六月十六日の夜舟に乗って、いよいよ(噂をきいた)四国へ渡った。讃岐国丸亀に着いた。文吉に松尾を尋ねさせて置いて、二人は象頭山へ祈願に登った。すると参籠人が丸亀で一癖ありげな、他所者の若い僧を見たと云う話をした。が、それは別人であった。


伊予国の銅山は諸国の悪者の集まる所だと聞いて、一行は銅山を二日捜した。それから西条に二日、小春、今治に二日いて、松山から道後の温泉に出た。中大洲を二日捜して、八幡浜に出ると 舟は豊後国佐賀関に着いた。鶴崎を経て、肥後国に入り、阿蘇山の阿蘇神宮、熊本の清正公へ祈願に参って、熊本と高橋とを三日ずつ捜して、舟で肥前国島原に渡った。そこに二日いて、長崎へ出た。長崎で三日目に、敵らしい僧を島原で見たと云う話を聞いて、引き返して又島原を五日尋ねた。それから熊本を更に三日、宇土を二日、八代を一日、南工宿を二日尋ねて、再び舟で肥前国温泉嶽の下の港へ渡った。長崎行の舟に乗った。長崎を立って、大村に五日いて佐賀へ出た。筑後国では久留米を五日尋ねた。筑前国では大宰府天満宮に参詣して祈願を籠め、博多、福岡に二日いて、豊前国小倉から舟に乗って九州を離れた。


周防国宮市に二日いて、室積を経て、岩国の錦帯橋へ出た。そこを三日捜して、舟で安芸国宮島へ渡った。広島に八日いて、備後国に入り、尾の道、鞆に十七日、福山に二日いた。広岸山の神主谷口某と云うものが、怪しい非人の事を知らせてくれたので、九郎右衛門が文吉を見せに遣った。しかし敵ではなかった。姫路を立って、明石から舟に乗って、大阪へ追いかけて往った。それからは三人が摂津国屋を出て、木賃宿に起臥することになった。もうどこをさして往って見ようと云う所もないので、神仏の加護を念じながら、日ごとに市中を徘徊していた。ここで息子の宇平が精神に異常をきたして行方不明になる。宇平を尋ねて歩く際に玉造豊空稲荷の霊験の話を聞き、頼んでみると「敵は春頃から東国の繁華な土地にいる。宇平の事は御託宣が無い」と云った。こう云っている所へ、一行は江戸からの便りを受け取る。「浅草でそれと思しき男の消息がみつかった」というものである。その知らせを受けて急いで江戸にもどり、浅草寺から両国の花火の日に敵を見つけ、助太刀と江戸にいた娘のりよが加わって神田の護持院原(現在の錦町辺り)で仇をうちます。


最初の太刀で切りつけたのが女性(被害者の娘)だったことでこの仇討ちは江戸で有名になり、助太刀をした叔父山本九郎右衛門によって綴られた「山本復讐記」が残っています。森鷗外のこの小説もこの記録をもとにしているとみられます。


お分かりのように、江戸の事件ですが、関東から甲州、信濃、尾張、大阪、山口、四国、九州と全国各地を移動して各地の目付で様子をきいたりしますが、その間に、書いてあるだけでも、三峯権現、身延山、善光寺、一宮、伊勢神宮、象頭山、阿蘇神宮、熊本清正公、大宰府天満宮、安芸国宮島、玉造豊空稲荷その地の有名な寺社に参拝しています。先に言ったように、行楽ではなく人の集まる場所で様子をうかがいまた神託を受けてその後の捜索の参考にしているのです。最後の玉造豊空稲荷のお告げは結果的に的中していたことになりますが、逃亡というのも意外に常識的なものなのかもしれません。


小説の元になっている実際の事件の起きたのが天保4年(1833年)12月の年末、仇討ちが天保6年7月の夏なので1年半程の意外に短い期間にこれだけの距離を歩いていることになり、江戸末期の交通や通信の発達具合もわかります。


上の絵は歌川豊国の『両国花火図』(江戸東京博物館ホームぺージより)。当時の賑わいがわかります。こうした中で必死で人探しをする者もいたのでしょう。

柳原通りの柳森神社2026年02月28日 12:32


JR秋葉原の駅から昭和通りを日本橋方向に向かって歩くとすぐに神田川の流れが見え、そこに架かるのが和泉橋です。以前の職場に近いこともあって、この付近はなじみの場所で、対岸の神田川の道を柳森通りということも知っていました。通りに置かれた地名掲示板に書かれていたからです。江戸の地形や歴史に興味を持つようになってからは、この通りが「江戸名所」だったこともわかって多少は注意していましたが、今回「まち歩き」で江戸城見附を順に回ることになり、最初に「浅草橋門」の跡を通って神田川沿いのこの通りを歩き始めているうちに「柳森神社」というこれも名所の古い神社があることを知りました。和泉橋から隅田川方面にほんの数分戻るだけなんですが、意外に知らない人も多いみたいで都会の中の見えざる文化財の多いことがここでも分かります。


この柳森通りは神田川の土手に柳の木を植えたことからはじまっていると思っていましたので、神社は当然その後に置かれたことになります。しかし社伝によれば 「室町時代に、太田道灌が江戸城東北方面の鬼門除けとして京都の伏見稲荷大社を勧請して創建した」ということになっています。すぐ先で隅田川に合流する神田川は江戸幕府の初期に駿河台の丘を開削してここに流れるようになったわけですので、どうも柳の森が先にあり、後になってから神田川堀割の際に現在地に移り、柳の木も堀の土手に移植されたということのようです。さらに時代がたち、徳川綱吉の生母・桂昌院が江戸城内に建立したといわれている福寿神祠が境内に置かれ、烏森神社と共に江戸三森の一社と呼ばれたとなっています。場所柄からしても日本橋に近く、船で浅草方面に簡単にいけますから、当時かなりの賑わいだったことが偲ばれます。神社のホームページに掲載された江戸名所図絵(下の絵)を見ると確かに柳の植えられた土手から川岸におりた場所に稲荷が鎮座しています。


今でも、実際におとずれると、参拝する人の列は多くありませんが、絶えませんし、決して忘れられた場所ではないようです。しかし、ほとんどの人が無関心なのは、メインの和泉橋通りからはずれ、しかも神田川の両岸には商業ビルやマンションが隙間なくたちならび、元の土手(通り)から一段低くほとんど見えないこの神社の存在感はあまり感じられません。「神田ふれあい橋」という小さな目印の先にある本当に小さな鉄の橋で川を横断すると、土手越しではありますが、神社の屋根が見えます(上の写真)が、この橋はほとんど目立ちません。




柳森通り(いわゆる土手)から神社境内を見ると確かに一段下がっているのがよくわかります。境内の一番奥にあるのが稲荷神社です。