AIの時代 ― 2025年12月24日 16:49
数年前から日本も世界も「AIの時代」になっています。同じような「IT」という言葉がビジネスやハードウェア視線での(利用技術の)変革だったのに対して、今度は完全にコンピュータの本質の革命という感じがするところがかなり違います。
コンピュータの高度な情報処理機能についていうと、少し前は「人工頭脳」「人工知能」という厳かな日本語の言い方がありましたが、今はAIが一般的なようです。このなんでも使えそうな曖昧な呼び方になってからというもの、明けても暮れてもAIのことが出ない日はありません。特に2022年頃からChatGPTをはじめとした生成AIというシステムが登場してから、驚くべきスピードで経済、社会、教育、軍事など私たちの生活と仕事に浸透してきているようです。ようです、という曖昧な言い方ですみませんが、私自身の生活には実際にその恩恵も被害もほとんど関係ないからです。確かに何かの調べ物で、ネットの検索時にその片鱗に触れることはあります。それは自然言語で対話しながら、あたかも人間に質問するように操作することができるようになったことへの驚きです。これは以前の「単語の繋がりでの検索を繰り返す」手法にくらべて画期的です。しかも、生成A氏はかなり断定的な言い方というか自信にあふれた口調で結論を出しますので、それが正しいのだと信じてしまいます。事実はそうでないことがあるのは、現実の調査結果が絶対に正しくないのとほぼ同じです。
それは、その結果をもとにさらに別の視点(情報)を追加して、生成A氏を再追及していくことによってより正解に近づけることは可能かもしれませんが、これが本当に私たちの生活を豊かにするのかどうか、考えている間もなく、コンピュータサイエンスは進んでいくでしょう。何しろ、生成A自身が自ら知識を増やしていく機能(ディープラーニング)をもっているからです。どうも、人間の脳の神経回路を模した多層ニューラルネットワークを用いてデータから自動的に特徴を抽出・学習するのだそうで、人間の思考がそう簡単に模倣できるとは思えませんが、本当に実現すれば途方もない「人工頭脳」ができあがり、しかも日々進化し続けます。
ところで、フィクションの世界に目をやると、特にSF小説では、すでにこの「人工頭脳」が大活躍しています。ただし、ほとんどの場合、この、「人工頭脳」はある時、人間の支配をうけなくなり、あろうことか自分を創造した人間を排除しようとさえします。一番有名なのは1968年の叙事詩的SF映画『2001年宇宙の旅』(原題:2001: A Space Odyssey)という映画と小説に出てくる、人工知能「HAL9000」型コンピュータとの闘いではないでしょうか。この作品はSFの巨匠アーサー・クラークの原作(原案)をもとにスタンリー・キューブリックが映画化、さらにその後クラーク自身が小説を書き、いすれも評判を読んだ大作です(上の2つは作品の一画面)。
作品の中では「コンピュータとの闘い」は主要テーマではないと思いますが、全体を通して人間の意識の進化みたいなものが流れていますので、その中では非常に象徴的な役割が感じられます。人工知能「HAL9000」は木星に向かう宇宙船のすべてを管理する役目を追っているのですが、ここで人工知能でよく出てくる「命令されていない思考」あるいは「命令に忠実すぎる思考」を実行しようとして人間の乗員を排除しようとします。そこで船長のデヴィッド・ボーマンはなんとか難を逃れ、逆に「HAL9000」の思考回路を遮断します。
この映画のテーマ─人間(というか宇宙)の意識の誕生の神秘については、この作品だけでは結論が出ていません。その13年後の『2010年宇宙の旅』(現代:2010 Space Odyssey Two)で一応の疑問は解消されます。宇宙をただよう永遠の生命元素がある─しかしそれも最初は肉体を持った生物ということなので謎は持ち越されます。そして、もうひとつの謎─「HAL9000」の反逆についての説明はあまり明確でないように思えます。一応の説明は、「HAL9000」には木星に到達後に乗務員に知らされていない作業を実行する命令を与えられており、それが困難になった段階で思考回路に矛盾を生じ暴走を始めたというものです。先の「命令に忠実すぎる思考」ですね。こんなことは当然予想可能と思うのですが、よくある例として、自動運転の車が避けられない事故で歩行者AかBかを選ぶという究極の選択をしなければならない場面で、それを「人工頭脳」がどうするかという問題があります。「人工頭脳」はたとえ数百分の1でも助かる可能性を判断基準にするかもしれない。しかし、それが自分(運転者)と幼い子供との選択だったらどうなるか。そこまで基準をつくるのか。これは先の「HAL9000」の矛盾と同じような哲学的?な問題です。多分、最後は人間の判断はしないということになるんじゃないかと想像します。人間には一時の過ちを後悔して一生苦しむようなことがありますから。多分、AIは後悔しないと思います。
最近、このAIもそうですが、量子コンピュータや常温核融合、ナノレベル半導体などほとんど理解不可能な科学技術が生産の世界に入ってきました。子供のころのSF小説が実現しそうな勢いなので、なんともそれについていけそうでいけないあるいはついて行きたくないという不思議な気持ちがあります。科学技術の進歩には興奮する一方で、歴史も文化も自然も、できることなら変化しないでほしい。まことに混然とした心の中であります。
(上の写真は『2010年宇宙の旅』のカバー。右の人物がクラーク。この本(翻訳)の出版は1982年─2010年はもちろん2001年もはるか未来だった。一度は執筆をやめたクラークだがワードプロセッサによって意欲をとりもどしたと後書で述べている)
(生成AIは作曲もできます。これはある「YOUTUBE」の中に掲載されている楽曲です。ウクライナの戦局にかかわる番組ですが、その最後に、パロディというか風刺というか、さまざまなジャンル風の曲が流されます。
[「すまいと/Sumait」] )
コメント
トラックバック
このエントリのトラックバックURL: http://mylongwalk.asablo.jp/blog/2025/12/24/9825893/tb
※なお、送られたトラックバックはブログの管理者が確認するまで公開されません。


コメントをどうぞ
※メールアドレスとURLの入力は必須ではありません。 入力されたメールアドレスは記事に反映されず、ブログの管理者のみが参照できます。
※なお、送られたコメントはブログの管理者が確認するまで公開されません。