東博の金剛力士像2025年07月04日 16:55


東京・上野公園にある「東京国立博物館(通称:東博)」は明治初年の開館以来、日本国内外の貴重な文化財を収集し、保存展示している施設です。関西にも同様の博物館がありますが、質と量ではこの東京館が最高と思われます。すぐ隣に立っている別館でたびたび行なわれる特別展には行ったことがありますが、本館(通常館)はかなり長い間ご無沙汰でした。たまたま近くの「科学博物館」を訪れる機会があり、ついでという感じで東博にも足を向けたところ、今年の4月から本館が新装され、展示品や展示方法がかなり変わったということで興味がわいてきました。


本館1階の11室すべてがリニューアルされたようですが、なんといっても印象に残るのが入館して最初の部屋に堂々と置かれた2体の金剛力士像です。いわゆる寺院の山門の左右に並んで参詣者をにらみつけているおなじみの仁王様ですが、貴重なものほど周りに金網などが張られていて内部が良く見えません。じろじろ見つめると怒られそうで? 細かい造作もなかなか観察できません。有名な奈良・東大寺南大門の運慶・快慶作と伝わる金剛力士像は鎌倉時代初頭に造像された巨大像でことに有名ですが、現在この東博で人々を睥睨している力士像は説明によると平安時代後期の作とのことなのでちょっとちがった見方ができます。


高さ(身長)は3メートル弱ですが、透明さを増したガラス越しにみると、大きな手と足を伸ばして威嚇するようなその姿勢は迫力十分です。口を開けて左手に剣のようなものを持っているのが「阿行(あぎょう)」(上の写真)、右手を開いて何かを押し込めているような姿勢をとっているのが「吽形」(うんぎょう)(下の写真)です。「阿」と「吽」とは物事の最初と最後さらには宇宙の始まりから終わりまでを示すとされ、この2対の像の間にすべてが入るという意味らしいです。いわゆる「阿吽の呼吸」ですね。


この力士像はまるでスカートのような腰巻状の衣装をまとい、後ろから見るとちょっと体をくねらせたユーモラスとも見える格好をしています。実際のお寺の仁王像はこのように四方から見ることができませんが、ここでは可能です。


この大きな力士像ですが、当然、木造で、細かい、部材という部品の組み合わせでつくられています。展示場に置かれたパンフレットには驚くほど細かく分解されたパーツが示されていますが、頭部から足まで実に微細に分かれています。古代でも多くの寺で造られた仁王像でしょうから相当の点数が製作されたでしょう。こうした部品ごとの分業体制を敷くことによりかなり効率的な作業ができたものと思われます。まるで現在の自動車の部品加工と組み立ての流れをみるようです。試行錯誤の上にこうしたシステムができるまでには相当な年月がかかったものと思われます。平安時代にこうした体制が完成し、やがて鎌倉時代の木彫美術の隆盛をみることになります。


展示までの数奇な経緯


この仁王像が、上野の森に置かれるようになるまでの数百年以上にわたる時代と政治状況や自然環境の変遷の中でたどった運命もまた数奇なものです。この仁王像は、かつて滋賀県栗東市にあっだ、隆盛期には七堂伽藍を備えた大寺院であったと伝えられる平安以前からの名刹・蓮台寺の門に収められていました。中世・足利時代の戦乱では足利義尚方の陣所(城)のひとつになったとされますが、江戸時代に入り、寛永年間の火災で主要な建物が焼失し、唯一仁王門だけが残っていたようです。そして、さらに時を経た1934年(昭和9年)の室戸台風によって大破し、戦中・戦後の世相の中で再建もならず、雨ざらしということはなかったのでしょうが、多分、ばらばらの部材の状態のまま保管されていたようです。


その後、国の施設により買い取られ、10年ほど前から再建と修理を繰り返して、2022年の東博の展示会で始めて展示され、今ではこのように東博の宝になっています。再建にあたっては、江戸時代に付け加えられた構成の加工を取り除き、塗装も復旧し、平安時代の古風で力強い姿が再現されています。



正門前のユリノキの大木


ところで、この東博に入るたびに正面向かって左にそびえているユリノキを見上げます。まるでシンボルのようですが、近寄ってみると、太く枝別れした幹と地上にのたうつ根が圧倒的な巨樹です。ユリノキは日本に自生する樹木ではないので、樹齢も含めていつからこの地にあったのか何となく気になっていました。この樹の3メートルくらいの高さの幹にプレートがありますが、植物についての説明だけで、他にないかと見渡すと近くに、銘板があり、以下のように書かれています。


明治8、9年(1876~77)頃渡来した30粒の種から育った1本の苗木から明治14年(1882)に現在地に植えられたといわれ、以来博物館の歴史を見守り続けている。東京国立博物館は「ユリノキの博物館」「ユリノキの館」などといわれる。


つまり、1876年(明治8年)頃に発芽したわけで、今年でほぼ150歳というわけです。150年でこれだけの大きさになるんだ!

近畿の旧街道が結ぶ文化2025年06月25日 14:13

(前回の記事の続き)世界遺産の「百舌鳥・古市古墳群」を目的に訪れた堺と古市なんですが、ここが京都・大坂と奈良・明日香あるいは吉野熊野を結ぶ重要地点であることはわかっていました。日本の歴史の始まりとともに京大阪と紀伊半島をむすぶたくさんの交易路がつくられます。日本最初の官道である「竹内街道」がこの付近を通過して奈良・飛鳥まで続いていることは前回の記事で述べましたが、そのほかにこの地で目にするのは「高野街道」という文字です。堺の街では「西高野街道」でしたが、他にも「下高野街道」「中高野街道」があり、古市に行くと「東高野街道」が出てきました。上は、古市駅近くの「竹内街道」と「西高野街道」が交差する辻の道標です。


いずれも堺から奈良方面に東西に伸びている「竹内街道」に交差する形で南北に走っています。さらにその東になると「奈良街道」「上街道」などと呼ばれるようになるみたいですが、大きくいって近畿の南北方向の道は高野山をめざすか、奈良・桜井(明日香)を経て吉野を目指すかになるようです。その先は熊野・那智の深山ですが、これは信仰・修験の路となります。


上の図は『高野街道を歩く』(森下惠介著)に掲載の「高野街道と機内主要街道」という地図ですが、これだけの多くの道を無数の人が歩いていたのでしょう。この中で中央の太い線で記された道を見ると、堺を通る西高野街道と古市を通る東高野街道という2つが「河内長野」で合流しているのがわかります。合流した道は「紀見峠」という河内と紀州の間の峠を越えています。この峠が金剛山、葛城山を結ぶ紀州山稜に繋がっているのもよくわかります。


こうして大きく見てみると「堺」と「古市」に巨大古墳群が築かれ、その間を、横に竹内街道、縦に東西の高野街道が貫いているという構図が本当に興味深く思えてきます。関東地方にも、信仰や政治の中心地に向かう特定の道を「鎌倉街道」や「日光街道」「大山街道」といった言い方で呼んできた歴史があります。日本だけでなく、ヨーロッパの例を出せばローマの「アッピヤ旧街道」やスペインの「サンチャゴ巡礼道」などがあり、これは多分世界中にあります。


どこであれ、こうした古道を目にしたり実際に歩いてみたりするとき、私たちは、ほんの一瞬ですが、あわただしい現在にいることを忘れ、数百年、数千年の歴史の流れに入り込んだような気分になります。路傍に置かれた古い石造物や道標があればその趣はさらに深まります。


今回訪れた堺市は、そうした意味では、古代の古墳や旧街道から中世の国際貿易都市、幕末の緊迫した雰囲気までの重層的な時間を閉じ込めた不思議な場所で、しかも現在も工業・商業・観光の町としての活気と雰囲気を失っていないように見えます。



古墳めぐりの合間に、旧堺港の先端に建つ日本最古の様式木造灯台(明治10年建築で昭和40年代まで使用されていたようです。その後の修復で美しさをとりもどしています)や海岸の運河に架かる「南蛮橋」にたたずむ不思議な西洋人?、街の中心地の紀州街道に残る「鉄砲鍛冶屋敷」や中世に「東洋のベニス」とも称された自由都市の面影を伝えるいくつもの堀割やその跡など、近代化した堺の一歩下に埋もれた文化財を発見することが可能でした。




上に書いたように、近畿の古道マップ(上記『高野街道を歩く』)によると、東西の高野街道は「河内長野」で合流してから「紀見峠」を超え、高野山に向かうことがわかりました。今回、偶然ですがこの東西の古道をほんの少しですが歩きました。多分、来年になりますが、この道を通ってから高野山の「町石道」を登ってみたいと思っています。

世界遺産の古墳群2025年06月22日 15:31


大阪にある「百舌鳥(もず)・古市古墳群」といえば仁徳天皇陵(大仙古墳)や応神天皇陵など教科書でもおなじみの巨大古墳をはじめ大小有名な古墳が密集して点在し、その間を竹内街道や高野街道などのこれも日本有数の古街道が幾本も走っているという地域なので、機会があれば訪れてみたいと思っていました。


よりによって真夏のような暑さが続くとは思いませんでしたが、この6月中旬の3日間、気軽な一人旅でまわることができました。場所は堺市と羽曳野市さらに藤井寺市などを含む大阪府の西南地域で、かつて大阪湾に注いでいた大和川・飛鳥川をさかのぼって古代日本のヤマト王権の揺籃地に達することができ、さらに陸を行けば最古の官道である「竹内街道」の起点でもあります。


まずは、古墳のことから。百舌鳥古墳群の起点は大阪西北の大都市・堺からになります。初めての訪問ですが想像以上に大きな都市で、街の賑わいもその活気も相当なものです。まず、近鉄の「堺」と南海の「堺東」という大きな駅が2つあります。2つの駅の間には「大小路」という数百メートル続く広い道があり、これは「おおしょうじ」というんですが、室町時代からあるそうで、しかもこれが、大阪湾から明日香・奈良につながる日本最古の官道である「竹内街道」の起点にもなっているということで、なんとも関西の歴史の長さを実感させます。



その大小路・竹内街道を直進すると右側に22階建ての豪壮な堺市役所が地域を圧倒するように建っています。そのすぐ先は堺東駅です。この市役所の最上階が展望テラスになっていて眼前に仁徳天皇陵が見えるという触れ込みでしたので、さっそく登ってみるとにぎやかな小学生の集団に遭遇です。おそらく市内外の子供の参観場所なんでしょう(なお、仁徳天皇陵など宮内庁管轄の慕陵は学術的にはこう呼びませんが、地元はみんなそういいますのでそのままにします)。下を見ると確かに仁徳天皇陵がありますが、多くの巨大古墳がそうであるように全体に樹木が茂っていて周濠も見えないので、まるで大きな林が広がっているとしか見えません。ただし周囲がほとんど住宅でその中に緑の古墳だけが浮かんで見えますので、尋常でないその規模を体感することはできます。



この日、暑いことはわかっていましたので、堺駅前でレンタル自転車を借り、これで移動しました。実際の仁徳天皇陵はこの堺市役所前の竹内街道を500メートルほど進んだ右側に現れます。大きなビルが林立している現在では想像できませんが、改修以前の大和川も近くを流れていたそうなので、船上からも陸上からもこの巨大陵墓は圧倒的な迫力で見えたに違いありません。


現代の陵墓は、近くに行っても、鉄柵に囲まれてその陰から濁った内堀と繁茂した木々以外はよくわかりません。まずは隣接する公園(大仙公園)に入ってみましたが、これまた広く、10分くらい走り回ってから、長塚古墳という公園内の小さな古墳の前で休憩。小さいといっても周壕をめぐらせた前方後円墳です。公園内にはこの他にもいくつかの古墳があるようで、西南の端には仁徳天皇陵の3分の1くらいのサイズで、ほぼ同じ向きにつくられている履中天皇陵があります。


 巨大古墳は周囲を回るだけ


途中にあった茶店で、海風を感じながら少し休み、仁徳天皇陵の参拝所へ向かいます。古墳群中の天皇陵はこのように参拝所が設けられていて、ここから中へは入れません。参拝所でも古墳本体はほんの一部がみえるだけです(東京・八王子にある多摩御陵も同じ感じですが、大正・昭和天皇の墳丘は小型なので全体が見渡せます)。古墳の中は見えませんが、周囲には遊歩道が設けられていて一周をまわることができます。公園も古墳回りも、春か秋の季節のいいときに歩いてみたらとてもいいと思います。


さて、次は少し離れたニサンザイ古墳に向かいます。ニサンザイとは奇妙な呼び方ですが、地名ではなく、語源はよくわからないようです(反正天皇陵との伝承あり)。仁徳陵正面前の竹内街道から枝のように伸びている西高野街道を進んで右折した場所に、仁徳陵と90度回転した形態で現れます。この陵墓はその墳丘の形が世界遺産古墳群の中で一番美しいといわれるのですが、周囲の堀が広い溜池に拡大されているようで、一見すると海に囲まれた緑の島のように見えます(一番上の写真)。ここも樹木に覆われて墳丘は見えませんが、これだけでも他の古墳と比べて目の保養になります。


2日目の古市古墳群の中心地・古市には電車だと約40分ほどかかります。南下する途中の乗換駅「河内長野」も河内平野の古都で多くの遺跡が点在します。そこから金剛・葛城の山々を見ながら北上してようやく到着ですが、陸路の竹内街道はここまで直進しているので距離自体は意外に近いです。古市の駅前を通る道が竹内街道ですが、実はここまではあまり古道の雰囲気はありません。しかしこの駅から先に少し進むと次の辻に[左 大和路 右 大坂路」という道しるべが現れ、細く曲がりくねった街道の感じが出現します(写真は次の記事で)。


 地元の人は無関心?



古市古墳群の目玉は仁徳陵と並ぶ巨大古墳「応神天皇陵」です。ただ駅の近くではないので、ここでも自転車を借りて、車の通る現代の街道を走るしかありません。この日も暑い中、なんとか「応神天皇量」の方向に歩みだしますが、どうも仁徳陵のような表示版などが見当たりません。「河内ふるさと歩道」のコースになっているのですが、訪れるひとは少ないようです。ようやく発見した道しるべをたよりに参拝場所を見つけましたが、ここには周囲を回るきちんとした遊歩道も整備されていないようです。隣接して公園にもなっている隣の仲姫命(応神天皇皇后)陵のすぐ付近で場所を訪ねても犬を連れた若いご婦人は「行ったことがありません」というつれない返事。確かに住宅街の目立たない場所だったのですが、おりから大阪から来たというシニアの団体と遭遇し、お互い「暑い中ご苦労さん」と慰めあいました。


藤井寺駅方面にある「雄略天皇陵古墳」にも行きたかったのですが、古市に戻る必要があり断念。3時前、さすがに暑く、この日の午後は堺のホテルにもどって休憩、夕方に街を散策することにしました。

65年ぶりの清水公園2025年06月10日 19:04


おなじみの『まち歩き』で千葉県の野田市へ行きました。野田といえば「キッコーマン」で有名な醤油の町で、私も以前、工場見学ツアーに参加したことがあります。今回は、醤油工場とは関係ない「博物館」や「市民会館(茂木家旧宅)」「流山街道」などをめぐったのですが、博物館は醤油づくりの歴史や醸造用製品の展示が大半ですし、茂木家は亀甲満の創業家です。流山街道を歩けば大正から昭和初期の「醤油景気」を象徴するように壮大な3階席の豪華なホールを有する興風会館や醤油銀行の語呂合わせ?という旧商誘雄銀行などの歴史的建造物が残り、その間に、とても美しいガラス正面のキッコーマン野田本社が目にとまります。野田はどこに行っても「醤油の街」です。


ところで、野田といえば私の思い出はなんといっても(大宮・日進)小学校の遠足で訪れた「清水公園」なんです。10歳くらいの時だと思うので、もう65年も前(!)です。思い出というと、途中の電車(東武野田線)の窓から見た田園風景や渡った何本かの河川の様子がかすかに記憶に残るばかりで、肝心の清水公園の様子は本当にまったく覚えていません。子供なんてそんなものでしょう。


ということでほとんど始めて訪問した清水公園なんですが、あらためて都市公園としてみてみると、江戸川(かつての利根川)の旧流路であり、それ以前は東京湾が入り込んでいたという海岸線の段丘地形の高低差を活かした池と周囲の草花、それを取り囲む樹林という自然を利用した広大な庭園風の公園であることがわかります。これは本多静六博士が自然公園として大幅な拡張して造成したものですが、現在はその池部分には丸木材を使った非常に高度なフィールドアスレチック施設がつくられ、その上の台地には「花ファンタジア」という庭園が造られています。どちらも有料施設になっていますが、レストランやガイド施設もある雰囲気のいい公園になっています。


わたしは(他の多くのまち歩き参加者もそうでしたが)どちらの有料施設も入場せず、まずは、公園入り口の「清水公園貝塚」を訪ね、ここが海岸だった頃の地形を想像したり、園内では、公園化以前よりある「今乗院」という野田市で一番古いという寺院や仁王門を見学してと、ちょっと場違いな行動をとりました。貝塚は野田市指定遺跡なのですが、指定の標識も説明版も古びてほとんど文字が見えません。現在、これを目当てに来る人はほとんどいないのでしょうが、野田市駅前の「弁財天の池」があまり清掃されていな印象を受けたのと同様に「古いものを大事にしない」まちなのかなとやや悲しくなりました。


ついでに、この公園に「富士塚」があり、浅間様とよばれていることを聞いていたので確かめました。これは市が発行した清水公園マップにも掲載されていましたから、貝塚のようなひどい扱いはないと思っていたのですが、ガイド施設で聞いてみると若い女性スタッフはよく知らない様子。後ろにした年配男性が「浅間様のことですね」といって場所を教えてくれましたが、目の前の公園地図にもそれらしきものは見当たらず、教えられた方向の薄暗い樹林の中を歩きまわり、ようやく小高い山を発見しました(写真)。



数メートルとはいえ、確かに山です。ただし、きちんとした階段状の登山道はつくられていましたが、頂上には予想した浅間神社はなく、2メートルほどの石碑が建てられているだけでした。あとで調べると「参明藤開山碑」という文字が彫られているようで、下の台座(写真)には山を現す文様(この地の富士講のマークと思います)が刻まれていました。「富士」ではなく「藤」とされていますが、調べてみると「藤開山」とは富士講の言葉で「富士山を開く」あるいは「富士山信仰を広める」ことを意味する言葉とのこと。富士講の開祖である角行が唱えた「明藤開山」という言葉があるそうで富士講の行者たちが「参明藤開山」などと唱える際に使われたようで、珍しいことではないようです。
(参考:千葉県立関宿博物館研究報告第11号 [こちら]


伊勢参道の観光文化財2025年05月26日 17:13

当然ながら伊勢神宮にもいくつかの謎があります。一番の問題は、皇室の祖先としての「天照大神」がなぜこの地に祀られているかということです。『古事記』や『日本書紀』その他古文献解釈による研究はたくさんあるようですが、この近畿と東海の中間に位置する伊勢の地には弥生時代以来の多くの遺跡があり、壬申の乱のときには伊勢の勢力が大海人皇子を助けたという記録もありますから、古来から皇室との関係は深かったわけです。


10数年前、奈良県の古代文化の里である明日香の地の遺跡巡りをしたときに「三輪そうめん」の老舗のご主人から「ここ(三輪)から真っすぐ東を眺めると伊勢になります」といわれたことがあり、なんとなく別々に考えていた伊勢と大和の地理が一致するような発想の転換がありました。その後、三輪から長谷寺までのいわゆる「大和・山野辺の道」を歩いた時、長谷寺への新道から外れた細い道が古くからの「伊勢街道」だとわかり、その通りの落ち着いた趣に感動したこともありました。今回、松坂では伊勢街道から分岐する初瀬街道という古道も目にしました。関東の人間にはよくわかりませんが、大和と伊勢は地理的にも文化的に意外に近い関係にあるのですね。


つまり、難しいことはなく、古代大和のひとびとが太陽の上る東に向かっていくと到達するのが伊勢の海で、そこには美しい海岸があり、その先の広大な太平洋から朝日が昇ることに感動して、太陽のための祠を建てたとしても不思議はないでしょう。


 「おはらい町」と「おかげ横丁」の魅力


さて、今回の旅行では、伊勢神宮ではなく、参拝を終えてからそぞろ歩く鳥居前のいわゆる「おはらい町」の様子に感激をしました。宇治橋から続く約800mの参道で、主催者のホームページによれば「昔ながらの風情を残す土産物屋や飲食店が軒を連ね、江戸時代の人々が憧れた<おかげ参り>の雰囲気を楽しむことができます」という感じです。



これは本当で、写真を見てもらえばお分かりのように、伝統的なつくりの商家や旅館風の家が軒を接していて、現在そのほとんどが飲食店や伊勢土産の販売を行う店ですが、看板も屋根もいかにも江戸時代の伊勢参りの人々が目にしたであろうような景観そのままですから楽しくなります。 こうした参詣町は日本中にあり、参道の店構えも多くは伝統的な形式で、その風情を十分残しているところも多いです。この伊勢「おはらい町」もそのひとつではありますが、町全体の一体感が違うような気がします。もともと伊勢神宮内宮の鳥居前町であったおはらい町には、明治初期まで「御師(おんし)」と呼ばれる下級神官の館が立ち並んでいたとのこと。御師とは、各地を巡って伊勢参拝を勧誘し、参拝者にはその案内を行うほか、宿を提供してもてなしました。これは富士山や立山、出羽三山など多くの有名な信仰の地にはどこでもいたもので、こうした人々が日本中を回って参詣客を呼び込み、地元にあっては宿泊や参詣の案内をつとめていました。なかでも、この地の御師は庶民への御祓いや神楽も行っていて、「御祓い」をする館が立ち並んでいたことから、「おはらい町」と呼ばれるようになったといわれています。


ただし、この街の景観がいまのようにきれいに整えられたのには現代の努力があります。
<門前町おはらい町の特徴は、木造建築で揃えられた町並み。おはらい町の建物は、1990年(平成2年)から始まった「伊勢市まちなみ保全事業」によって切妻・妻入り、もしくは入母屋・妻入りで統一されました。神宮社殿の建築洋式が切妻・平入りであることから、おはらい町の建物も神宮社殿に合わせて作られています。「ぬれガラス」と呼ばれる防腐塗料で黒く塗られた外壁と、独特の形をした「伊勢瓦」を使用された屋根が、古き良き伝統的な雰囲気を醸し出しています。>
(「内宮おはらい町地区のまちづくり」)より


また、このおはらい町の中ほどに「おかげ横丁」という一角があります。ここは1993年に開丁した街並みのことを指しますが、この「横丁」はまた別個の誕生物語をもっています。


<明治以降、御師制度が廃止されたことや自動車での参拝客が増えたことなどから、おはらい町は徐々に活気を失っていきました。昭和50年~60年代の来訪者は年間約20万人と、現在(2019年は590万人)と比較すると30分の1程でした。 この状況を危惧した(株)赤福が、おはらい町に伊勢路の伝統的な街並みを再現しようと開業したのが「おかげ横丁」です。第61回神宮式年遷宮の年、1993年(平成5年)7月16日に開業しました。伊勢の暮らしや文化を体感できる場所として横丁を整備すると同時に、おはらい町の電線の地中化や石畳への舗装などにも取り組みました。開業時は27店舗でスタートしたおかげ横丁ですが、その後も少しずつ店舗を増やし、現在の店舗数は55店舗となりました。>(サイト:「おかげ横丁」より)


伊勢に行くといたるところに「赤福」の看板が目につきます。街の衰退に危機感をもったその赤福の経営者が中心になって、それまでの伝統的な力を増幅して、近年の観光ブームの中で盛り上がっている日本の神秘的な伝統のひとつである伊勢神宮とそこを訪れる「お伊勢参り」の人たちのための新しい観光文化財をつくりあげたわけです。


二見浦の中央構造線2025年05月19日 15:00


伊勢と鳥羽、松坂をまわる旅行に行ってきました。個人の旅なのでスケジュールに余裕があり、かなり気ままに歩くことができましたが、印象に残ったのは伊勢神宮前の「おはらい町」と呼ばれる参道沿いの賑わいと二見浦(ふたみがうら)の山と海の景観、松阪の落ち着いた街並みといったところ。伊勢に行くのは3回目くらいになるかと思いますが、連休後の平日だったためか、全体的に観光客も少なめで、水を張った田植え前の田圃に囲まれ、どこを歩いてもウグイスの鳴音が聞こえるような、静かな雰囲気が印象に残りました。


今回の旅行では、以前の訪問(かなり前になります)では気にもしていなかったことに関心が向いていました。ひとつは三重県のこの場所を中央構造線が通っているということで、特に伊勢神宮の下宮と二見浦海岸を結ぶ地点をを地図で見ると、山裾と海岸平野が一直線にならんでいて、まさに中央構造線の断層ラインです。中央構造線とは一億年近く前の日本列島誕生期の地殻変動で形成された大断層で、九州から四国、紀伊半島をとおり、長野県付近であのフォッサマグナとつながり、最後は群馬・埼玉県県境付近を通って茨城県の鹿島灘まで繋がっています。とりわけ明瞭なのは地図上でもはっきりわかる紀伊半島から四国を縦断している箇所です。以下の図は長野県大鹿村中央構造線博物館サイト掲載の中央構造線マップ(一部)です。
中央構造線博物館サイトより)



昨年の夏に、ファッサマグナの大地形ということで、長野県の伊奈から新潟県糸魚川付近の大断層に由来する山々や街道(塩の道の一部)をめぐることができました。今回は、その続きではありませんが、同じくナウマン博士の発見した中央構造線のライン上に立てるのは楽しいことです。JR伊勢駅から参宮線に乗ると二見浦駅までまさに「構造線ライン」で一直線です。その先の海岸沿いの大小の岩が有名な「夫婦岩」で、神社にもなっていて各地から観光客がやってきます。この2つの岩の間から夏至の日の太陽が登るなどの、地殻変動とは関係ない自然現象の不思議さもあってパワースポットとか霊的力の場所とかいわれますが、それはそれとして、どうもこの夫婦岩は別々の岩石のようなのです。上の中央構造線博物館サイトにはこんな記述があります。


「夫婦岩の大きい方の岩や、海岸の陸側の岩は、すべて三波川変成帯の緑色片岩です。大きい方の岩と、こちら岸の岩の片理面(板を重ねたような面)の向きを見ると、同じ向きに一致しています。もとは、ひとつながりの岩だったものが、波に侵食され、海面上に頭が残ったものが夫婦岩であることがわかります。小さい方の岩は、岩種も片理面の向きもちがうので、据え直したものと思います」


確かに近づいてみると、大きい岩(夫岩?)の岩石の傾斜面は陸地側の岩と同じ傾斜角度をしていて同じ地層にあったことがわかります。三波川変成帯という地層の緑色片岩ということです。一方で小さい岩はいかにも不自然に立っている感じがします。この夫婦岩は江戸時代からの名所だったようですから、かなり古い時代に何か細工がされたのかもしれません。(夫婦岩は一直線に海に落ち込んでいる=下の写真)




なお、中央構造線の上に日本古代からの神社が並んであるのには理由があるという説があります。例えば、愛知県の「とよがわびより」の「こぼれ話」の中に


<「中央構造線」上には、高野山や伊勢神宮、豊川稲荷といった有名な神社・仏閣が点在しています。これには、
・「中央構造線」上が地形的に交通の要衝になりやすいから
・「中央構造線」での地震災害を鎮めるため
・「中央構造線」で起きた地震災害の被災者の鎮魂のため など
 様々な説があるようです。
 そこにもうひとつ、「中央構造線」が強力なパワースポットだからという説もあります。>


何かこうした人間の文化的な活動と地殻上の巨大運動との間に目に見えない関連があるのか──フォッサマグナによる日本の東西地域の分断の謎については意味がありそうなんですが、中央構造線による日本列島の縦の分断(外帯/内帯)はどうでしょうか。

「浜辺の歌」謎の歌詞2025年05月12日 20:20


4~5年前から歌のサークルで毎週歌っています。楽譜も読めない私が入っていられるくらいの緩い集まりですが、ピアノやギターのできる人がいるので、それに助けられ、みんなに交じって声を出しているだけというのが実態ですが、演奏するのは『みんなのコーラス』(野ばら社)という本を中心にかなり雑多な日本歌曲や(参加者の)青春時代のポップスなどがメインです。


『みんなのコーラス』には唱歌・童謡・フォークソング・日本の名歌・世界の歌─など様々なジャンルに分類されていますが、日本歌曲の中では、明治大正期につくられ、戦後も学校教育の中で歌われ続けた曲がかなりあり、知っているものが多いとはいえ、当然ながら始めて聞いたという歌もかなりあり、音楽の世界の奥深さの一端を知りました。


その中で、『浜辺の歌』というのは、どこで覚えたのかは思い出せませんが、懐かしく印象深い歌詞とメロディで、歌いやすいこともあって私の好きな曲です。大正時代につくられたものですし、作者の林古渓氏は漢学者らしいのでいかにも古風な言葉つかいで、深い味わいのこもった歌詞になっています。


1、あした浜辺を さまよえば 、 昔のことぞ 忍ばるる。
風の音よ 、 雲のさまよ、 よする波も かいの色も。

2、ゆうべ浜辺を もとおれば、 昔の人ぞ 忍ばるる。
寄する波よ、 かえす波よ。 月の色も、 星のかげも。


「あした」「ゆうべ」「 忍ばるる」「もとおれば」など、いかにも明治風の文語体で雰囲気を感じさせます。普通、歌詞はこの2番まででテレビの「日本の歌」なんかで歌手が歌う場合もこれを歌います。『名曲集』にもこの2番までしか歌詞はありません。しかし、この歌には3番の歌詞があり、さらには4番もあったということを何かの雑学で聞いた覚えがあったので調べてみると、確かにそうでした。


現在「浜辺の歌」の題名で知られているこの歌は、大正2年(1913年)に発行された『音楽』という雑誌に掲載されたのが最初だそうです。その時は「はまべ」という題名で、なんと「作曲用試作」と付記されており、作者の林古渓氏は誰かに作曲されることを前提で書いたようで、当然メロディはまったく存在しませんでした。そして、その詩には3番が書かれていました。次の通りです(日本の唱歌「浜辺の歌」)。
日本の唱歌「浜辺の歌」


3、はやちたちまち 波を吹き、赤裳のすそぞぬれひじし 。
やみし我は すでにいえて、浜辺の真砂 まなごいまは。


しかしこの3番の歌詞が難解なことから、最近は削除されることが多いということです(小学唱歌採用時にそうなった)。確かに「はやち」は疾風のことで「赤裳」というのは『万葉集』では若い女性の衣装というのいいとして「赤裳のすそぞぬれひじし」とは現代人には通じません。それでも「突風が急に波をたて、赤い裳の裾が濡れて冷たく感じる」という意味だととれます。ところが、これを現代では「赤裳あかものすそぞ ぬれもせじ」としている場合もあります。難しいからといってこれではかえって意味が通りません。ここは素直に「ぬれひじし」か「ぬれもひじ」とするべきでしょう。(古渓の原詩では「ぬれもひぢし」との説もあるようですが歌詞としてはすこし歌いにくい)


この3番が難解というのはここでだけでなく、というか、ここ以上に、このフレーズと次の「やみし我は すでにいえて」という言葉の関連がわからないということです。この点について、上の「日本の唱歌「浜辺の歌」では次のような説を述べています。<(これには)理由がありました。というのも、古渓は当初4番まで作詞していたのに、「音楽」に掲載された時に、3番の前半と4番の後半がくっつけられて、4番がなくなっていたそうです。そこで古渓は3番を記載することに難色を示したそうです>。


「音楽」というのは、東京の京北中学校国漢科教師の林古渓が載せた作詞、作曲のための雑誌「音楽」です。この歌が正式に発表されたのは大正7年(1918年)でその時の題名は『浜辺の歌』です。(上の図)表紙の絵には若い女性が長い裾を引きづっていますから、女性の視線であることは確かでしょう。とても浜辺を散歩できるとは思えませんが、だから濡れるのか。


さて、この3番の解釈についてはいろいろありますが、当の林古渓の子息を訪ねた時の記録が鮎川哲也氏の『唱歌のふるさと』という本に書かれれています。鮎川哲也は推理作家ですが音楽についても造詣が深ったようで、これは音楽之友社の雑誌に連載された企画だったようです。子息氏によれば古渓は幼いころ茅ケ崎の海岸で過ごし、三崎の旅館で台風にあった経験もあるようで、当時、湘南の海岸には結核の療養所がありましたから、そこがモデルだろうと鮎川氏は推理しているニュアンスです。


肝心の3番、4番の歌詞については、改作した人物も分かっていたようですが、出版時に連絡も来ないという時代だったようです。本人が「わすれた」といっている以上、どんな内容だったか確かめる方法はありません。


ネットの検索で「レファレンス協同データベース」という中に、同志社大学HOME 研究活動教員によるコラム「浜辺の歌」の謎(2021/09/06) いうものも発見できました。
「浜辺の歌」の謎


内容は以下のようなものです。
<「はやち」は疾風のことです。「赤裳」というのは『万葉集』では若い女性の衣装です。疾風で強い波が生じ、赤裳の裾が濡れたのでしょう(「ぬれもひぢし」)。これは女性自身の視点でもいいのですが、その女性を見ている男性の眼差しでも通ります。それに続く「やみし」は、「病んだ」で、「いえて」は「癒えて」です。どんな病なのか、失恋なのか結核のような病なのかわかりませんが、それが原因で恋愛も破局を迎えたとすれば、「むかしのこと」「昔の人」はかつての恋人との記憶と解釈できそうです。それを一人で散歩しながら思い出しているわけです。
最後が難解です。「真砂」は「まなご」とも読むので、「まなご」が二度繰り返されていることになります。「愛子」はいとし子ですが、女性の幼子と見るより、女性そのものがかつての「愛子」だとすると、その女性が今はどうしているのか、と想像していることになります。この「浜辺の歌」は、古渓のかつての失恋の思い出を綴った歌だったのではないでしょうか。これが私の解釈というか想像です。>


林古渓氏はもともと漢詩の起承転結を前提に書かれたとのことなので、3番は「転」つまり前2番との内容が打って変わっているのは当然で、静かな浜辺に、急に嵐を思わせる風波がたち、穏やかな気分に昔の怒涛の思い出がよみがえり、その頃愛した人(子どもであれ恋人であれ)のことを思い出す―という流れが3番と4番になっていたと思われます。


3番の歌詞まで歌っている歌手もおおく、倍賞千恵子の若いころの歌声はとてもいいです。


浜辺の歌

荒川ロックゲートとは2025年04月30日 07:21


東京湾から約3キロほど遡った荒川右岸に30メートルの高さでそびえる巨大な構造物があります(上は内側からみた写真。向こう側が荒川)。通称を「荒川ロックゲート」といい、ここに合流する小名木川との水位の差を調整するのが主な目的です。埼玉県を縦断して流れる荒川は何回かの大きな流路変遷を経ていますが、現在は東京都の江東区を流れ下って海に入ります。広い川幅、向こう岸には首都高速の高架橋、さらにその先には中川も流れていますが騒音は聞こえません。サイクリングの人たちを前景に悠然と流れる川。かなり開放感のある気持ちのいい景色です。その中でも実際に見上げるとゲートの大きさは実感できます。
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「隅田川に架かる文化財(2022年05月26日)」という記事で隅田川にかかるいくつもの橋を紹介しましたが、その中でもっとも美しいといわれる清州橋。この清州橋のすぐ上流にあるのが小名木川です。この川は江戸時代の初めにつくられたいわゆる人工河川=運河です。その役目は江戸川や利根川を通して江戸に物資を送るためで、特に、当初は、非常に大事であった「塩」を確保するため、現在の千葉県・行徳にあった塩田からの流通を行うのが目的だったようで、この運河を利用したルートは「江戸の塩の道」と呼ばれることがあります。



当時の江戸湊(現在の日比谷付近)は、広大な砂州や浅瀬が広がり、船もしばしば座礁するような場所で、安全とは言えませんでした。そこで小名木四郎兵衛に命じて、行徳までの運河を開削させたのが小名木川の始まりであるとされています。この運河の開削によって、安全に塩を運べるようになり、かつ経路が大幅に短縮されたため、その後、塩以外の品物の運搬やさらに成田参詣客などもこの航路を使うようになり、行き交う物量が増大していきました。


やがて小名木川は江戸物流の重要河川と認識され、利根川東遷事業と併せて拡幅され、小名木川と旧中川、新川の合流地点には「中川船番所」が置かれ、幕府の役人がそこに駐在し、行き交う船の積み荷に江戸の治安上危険な物などが紛れ込んでいないか確認するために簡易な検査をしたようです。新川、江戸川、利根川を経由するこの航路が整備されると、この地=小松川界隈が発祥の野菜が小松菜として有名になるなど、近郊の農村で採れた野菜、東北地方の年貢米などが行き交う大航路となっていきます。



この小名木川と中川が合流する場所は、経済面ばかりでなく、江戸の観光名所のひとつでもあったようで、多くの名所図絵・浮世絵にこの風景が描かれています。有名な歌川広重の『大江戸名所百景』の一景に「中川口」があります。『百景』の中には他に「小奈木川五本まつ」などもあり、この場所がかなり人気だったことがわかります。


水位差を調整する2つのロックゲート


こうして発展してきたこの地の水上交通は、電車や自動車など他の交通手段に置き換わり衰退していく中でも重要な役割を果たしていましたが、明治末年から大正、昭和まで、この付近の地理生活環境を一変させる大工事が始まります。明治43年の大洪水を契機に、東京の下町を水害から守る抜本策として開始された荒川の大改修です。事業は昭和5年(1930年)に完成しすからほぼ20年間の期間を要したことになります。これによってこの地域は一気に市街地化が進むことになり、現在の下町の光景がつくられていきます。


広大な上流部を持つ荒川(当初は荒川放水路と呼ばれていました)と中川や小名木川にはかなりの水位差があり、船の交通には不便でしたので合流地点には「小名木川閘門」「小松川閘門」「船堀閘門」が設置されていて、その調整を行っていました。


その後、江東地区の工業化による地盤沈下などにより、昭和50年代には閘門は閉鎖されていましたが、2005年に「荒川ロックゲート」と「扇橋閘門」の2つが完成し、再び、旧中川を経由して荒川への通行が可能になりました。閘門(ロックゲート)とは、水面の高さが違う2つの川のあいだを船が通行出来るようにするための施設で、荒川ロックゲートは荒川と旧中川とを結ぶ閘門です。このロックゲートの完成によって、荒川と旧中川、小名木川、そして隅田川が結ばれました(平成17年10月)。また、扇橋閘門は、江東三角地帯を東西に流れる小名木川のほぼ中央に位置して、水位が異なる河川を通航可能にした『ミニパナマ運河』と言える施設で、2つの水門(前扉及び後扉)に挟まれた閘室と呼ばれる水路の水位を人工的に変動させることにより、船の通航を可能にしています。


小名木川の両岸は歩きやすい遊歩道になっていますので、中川(現在は旧中川)との合流点から隅田川合流点まで、この扇橋閘門を見ながら歩くことができます。時間があれば砂町銀座商店街など下町情緒の残る場所を巡ることもできます。


東浦和に残る古道2025年04月22日 17:50


さいたま市緑区と聞いても場所のイメージがわきません。埼玉県南部の3つの市が合併して「さいたま市」が誕生してから25年たちましたが、旧大宮に育った身としてはいまだに与野とか浦和という言葉がどこかについていない地名に接すると?となります。地元の人は一応「町」の名前が住所表記の一部に残りますから見当が付くのでしょうけれども、少し離れるとわからず、しかも新しい行政単位である「区」がこれまたなじめません。北とか西とか桜とか、どういう考えで他の政令区市と同じ言葉を採用したのかさっぱりわかりません。話を戻して「さいたま市緑区」ですが、方角でもなく歴史的地名に関連したものでもなく、いわゆる旧浦和地区の東部に属しますから「東区」でもよかったんでしょうが、何か意味をもたせたかったようで、そういえばここは自然豊かで緑が多いということで名付けられたんじゃないかと推察します。私の子供時代の意識では「浦和の僻地」であり、野田のサギ山が有名でした。中学生の頃、浦和で最後の電灯!がひかれた家があるという話があり、本当ならまさにこの地域だったのでしょう。


そこでこの地域の主要なJR駅名である「東浦和」と聞くと、やっと位置関係がはっきりしてきます。この路線が開通する前、おそらく見沼田んぼを見下ろす高台の上は、畑や雑木林に囲まれて大きな農家が点在するという風景だったと思われますが、現在はかなりの高級感の漂う住宅街で、ここから10キロほど西に進んだ浦和駅沿いの雑然とした街並みとはかなり景観が違います。小さな公園や下町風の商店街は見当たりません。


新しく造られた街の感じですが、石仏研究者によるとこの中でも中尾、尾間木地区などは天台宗別格本山の吉祥寺や本山修験派の中心寺院であった玉林院などがあり、修験者の行き交う地域だったようです。本山修験宗とは、修験道の一派で、総本山が聖護院門跡(京都)に置かれています。天台宗寺門派から独立し、昭和21年に「修験宗」として設立、後に「本山修験宗」に名称変更されています。ただ、この地の玉林院は明治の神仏分離令で廃寺となったままです。


この地を歩く機会があり、同行の碩学者からこんな話をきき、少しの感慨をもちましたが、確かに新しい街の随所に古い寺院や墓が残り、その中に幾多の石仏や石碑が草木の中にうずもれて忘れられたように残されています。特に、玉林院墓地跡にあった地蔵菩薩石仏は延宝3年(1675年)と古いだけでなく彫刻の美しさも実にすばらしいものでした。



この場所も含みますが、大谷口地区の玉林寺末寺の信成院からその墓地跡の石仏群に続き、さらに第2産業道路に沿って低い段丘の上を通っている細い道は、道標の役割をはたしたと思われる庚申塔が斜面林の中に傾いてたたずみ、古道の雰囲気を残しています。


上の写真がそれですが、下はこの道が産業道路に合流する場所です。この区間は西の中山道と東の日光街道を結ぶ箇所にあります。日光は修験の聖地ですから、そこを目指す修験者がここを通ったと思われます。



そしてそこから産業道路尾を越えた広ケ谷戸の路傍には、これも古く(寛文4年=1664年)市の指定文化財になっている庚申塔が残されています。童子、鶏、邪気、猿を配した非常に装飾性の髙いもので、庚申塔が指定文化財になるのはなかなかありません。浦和市のままの表示ですが、こういうところは早くさいたま市に変更してほしいものです。


心霊スポット? 小崎沼2025年03月31日 17:01


何回か前の記事「埼玉の津と万葉灯籠」で、埼玉県行田市にある小埼沼のことについて書きました。さきたま古墳群近くにあり、今や消えようとしている「小埼沼神社」の中にある小さな池のことです。この3月末に行ったま「ち歩き」の最後に、有志の数人とともにこの小埼沼神社と小崎沼に行くことができました。


前玉神社からはけっこう歩きます。歩いている場所の遠くに行田タワーがそびえるこの地は、埼玉県名発祥の地「埼玉(さきたま)」です。


関東平野の真ん中─見渡す限り平坦な畑作地帯ですが、現在はけっこう住宅が広がり、車の往来は盛んです。目指す小崎沼神社はそんな風景の中に残された小さな林の中の雑木と竹が生い茂る荒れ果てた祠でした。




石造りの鳥居には枯れ木と枝がかかって半分見えません。ほとんど人が立ち入らないようで、社殿は傾き、無残というしかありません。そういえば付近の道路の標識も「埼玉県指定旧跡 小崎沼」とだけ記されていましたから、神社としては廃止されたものと思われます。「心霊スポット」とされた様子もなんとなくわかります。


それでも、同じ敷地内にある「小崎沼」のほうは手入れがされているようで雑草もそうひどくなく、池も、水はありませんでしたが、底の白い石が見えるほど綺麗な感じです。


そして、万葉歌碑のほうには新しく見える花も添えられていて、この旧跡を守る人がいることが感じられて安心しました。石碑はまるで墓石のように立っていますが、正面に「武蔵小埼沼」の文字、側面にこの碑を建てた目的をあらわした文章、裏面に小埼沼と埼玉の津の万葉歌2首が万葉がなで彫られているはずです。


碑文では武蔵小埼沼はここだと断定しており、そのことを後世に残すことが、この碑を建てた理由だったようです。(行田市・文化財の概要による)。


近くには行田市で一番古いという「盛徳寺」があり、庚申塔など付近の石造物がたくさん収められていました。しかし、目の前を通る2車線の道路が狭く、危険なので、ほとんど歩道を歩くことができません。通る人の姿も少なく、いまや<埼玉の地>も安心できるのどかな場所ではないようです。