都内の古代東海道と古道2026年01月10日 17:15


1月初めのまち歩きで「隅田川七福神めぐり」の企画を立て、その下見に浅草の対岸にある向島地区を訪れた時のこと。東部伊勢崎線・堀切駅から江戸下町の路地を思わせる道を歩いている途中、正福寺の隣に「首塚地蔵尊」という興味深い場所があることに気がつきました。説明には<首から上の病に効験があると言われている「首塚地蔵」。天保四年(1833年)隅田川橋場附近の浚渫工事の際に、川床よりたくさんの頭骨が発掘されました。関係者は正福寺と共に、合葬し碑をたてて、首塚といったと伝えられています>という記載があります。



さらに、実はこの地蔵堂のすぐ前を東西に横切る道は「古代東海道」とされ地図に記載されていることもわかりました。はるか古代、律令制の時代にここを通過した古道のコースが残っているのです(上)。ご覧のようになんてことない道で、もちろん、遺跡などはまったくありませんが、ここ隅田川左岸地区は武蔵と下総の国府を結ぶ古代東海道(奥州街道)の道筋で、平安時代から幹線道路が通過し、隅田の渡船場があったのです。伊勢物語の古歌や能曲の梅若山王権現の舞台にもなっています。震災、戦災で大激変した街ですが、道中にあるこの「首塚」は古代東海道筋の近隣でどんな惨劇があったのかは不明ですが、何かロマンの一端を感じさせます。


この古東海道については、品川の高輪地区を歩いた時に、江戸時代の海岸沿いの東海道より古い東海道筋が高輪地区を通っていることを知りましたが、最後はこの地を経て下総の国に繋がっていることを再認識しました。


東山道から東海道へ


群馬県(古代は上野国)から埼玉県北部を通って東京・府中まで通じる東山道武蔵道があったことは知られていますが、この東山道は奈良時代になって、都と東国を直接結ぶ東海道(国府経由ルート)に組み込まれます。さらに、8世紀末の宝亀二年(771)、それまで東山道に属していた武蔵国は東海道に属することになったのです(『続日本紀』に載せる太政官奏)



この古代東海道は江戸時代の5街道のひとつであり日本橋で終わる東海道とは異なり、相模国の夷参駅(座間市付近)から下総国までの経路でその間に四つの駅であったとされています(上の地図=多摩市史:東山道から東海道へ)。その中の豊島駅と井上駅の間にこの隅田地区があります。


古代の道はこの東海道だけでなく、東山道が失われた後も上野国と武蔵、下総、常陸、相模などの国を結ぶ道がいくつも存在しました。この隅田地区には隅田川の渡し場があり、東西を結ぶ交通の要衝でした。



古代東海道の近くにも南北方向、東西方向に古道があり、隅田川堤防に沿うこの道もそのひとつとして記録され、説明版が立てられています。現在の堤防には防災機能を備えr壁のような高層住宅が連なり、隅田川も見えす、道は一直線に伸びています。付近に残る古道の曲がりくねった路地と対照をなしています。

小田原城の「総構」とは2026年01月29日 13:07


年初に神奈川県の箱根と小田原を旅行したのですが、その中の半日、ひとりで小田原西部の丘陵地を歩き、気になっていた「小田原城総構(そうがまえ)」遺構を見学しました。総構とは、いわゆる戦国時代末期の豊臣秀吉の小田原攻めにさいして小田原北条氏がその防御として造成した全長9キロに及ぶという長大な土塁のことで、多くは失われてしまいましたが、西北部にはその痕跡が残り、中には深さ10メートルの巨大な堀切が連続して残っている場所もあります。最近になって小田原市がこの遺構の観光地化を図っているようで、現地に行くときれいな説明パネルも設置されています。まだ観光客は少ないかもしれませんが、この日も私を含めてそこにいた見学者(というより歴史マニア)はその規模の大きさに驚きました。


小田原駅西口からかなり急な坂道を登ると、20分足らずで、のどかなミカン畑の広がるなかこの総構の遺構が次々に現れます。この道は詩人・北原白秋の別邸があったことから「白秋の道」と呼ばれる散歩道ともほぼ重なっています。「稲荷森」(下の写真)と呼ばれる場所では、竹林として総構堀が残っており、「小峯御鐘ノ台大堀切」(上の写真)「山ノ神堀切」などの壮大な堀も現存します。


北条氏が敗れ、徳川の時代になると、現在も残る小田原駅近くの近世城郭だけが小田原城とされていますが、防御構造としてのこの大構は、江戸城における外堀のように城の一部分をなす重要なものだと思います。戦国時代最後の巨城とされる小田原城ですが、その建設の中で「総構」と呼ばれる壮大な土塁軍が建設されたということになります。


「天正14年(1586)、豊臣秀吉との対立が避けられない状況となったことで、決戦に向けて小田原城の普請が進められました。天正15年までには三の丸の丘陵部を囲郭する<三の丸新堀>が構築され、八幡山・天神山を囲う大規模な堀が完成します。


そして、天正16年(1588)、北条氏は豊臣秀吉の「天下惣無事令」を破り真田領であった名胡桃城(群馬県)を攻略、いよいよ豊臣秀吉との決戦の日が迫ります。小田原ではその頃より小田原城とその城下町を囲む壮大な堀と土塁の普請が始められます。これがこの総構です」(小田原市公式サイト)。



3ヶ月の籠城戦を可能にしたのは、言うまでもなくこの総構の存在があったからでしょう。また、この小田原合戦を契機とし、各地の城郭では総構が構築される事例が増えました。小田原合戦後、江戸時代以降もこの総構は小田原の町を守り区画する堀として用いられました。


鎌倉の古道「切通し」2026年01月30日 18:10


神奈川県の古都・鎌倉はかなり訪れています。。また、「鎌倉アルプス」と呼ばれる丘陵地のハイキングコースも2~3回は歩いています。その中で気になった「やぐら」についてはこのブログに記事を書いたことがありますが、鎌倉の地形の大きな特徴である「切通し道」については語る機会がありませんでした。今回、この切通し道のひとつである「名越の切通し」に行くことができました。連続する3つの溝状の古い道は、時代を経て変化しているとはいえ、中世の素朴な街道の雰囲気をそのままに残し、史跡の名にふさわしい保存状態だと思いました。


この切り通し道は、鎌倉の中心部から「平成の巡礼道」と呼ばれる衣張山の山道を越えて、三浦半島・逗子の海に通じる峠にあたります。現在、この下を横須賀線のトンネルが通っていますが、山越えの道に通じる傾斜は今でもかなりの急角度ですから、交通の要衝であると同時に軍事上でもかなり有効な「関所」の役割を果たしたことがわかります。ただ、以前の見学会で通った「朝夷奈切通し」では切り立った崖の中にいくつもの「やぐら」があったように思いますが、ここではあまり見ませんでした。



一般に言われるように、源頼朝が鎌倉に幕府を開いた大きな理由は、南は海に、北東西は山に囲まれ、敵の侵入を防ぎやすい地形だったからと言われています。江戸のように開けた場所では、敵の侵入を防ぐのは大河川や人工的な堀割です。平地の乏しい鎌倉では、物資運搬のために山などと切り開いて造った道=切通がそのまま城壁の役割を果たしたと思われます。この鎌倉の古道のなかでも、「名越切通し」と同様な「亀ヶ谷坂切通し」「化粧坂切通し」「巨福呂坂切通し」「大仏切通切通し」「極楽寺切通し」「朝夷奈切通」は鎌倉七口と呼ばれ、鎌倉と外部を結ぶ主要な要路でした。明治以降は車道として道路拡張が行われましたが、この名越の切通しのように一部の切通しは当時の古道の姿を残しています。歴史の街、鎌倉らしい景色を散策することができる場所として保存されているのは後世の人間にとってありがたいことです。


現在の鎌倉が、「風致保存地区」などの政策で、近代化が進む都市の中にこの切通しなど中世の自然や歴史景観を保存しようとしているのは評価できますが、住宅のすぐ隣に古びた寺院や樹林の中の古道が残されているため、道は狭く、道路の傾斜は急で、住むには大変かもしれません。また、聞くところでは外来種害獣の被害も大きいそうで、この日も住宅地を走るタイワンリスを数回目にし、山上の名刹・早川寺の本堂裏の崖ではアライグマの鳴き声を聞きました。