寒山拾得2026年05月02日 14:22


中学校だったと思いますが、国語の教書に「寒山拾得」という短い話が載っており、その中には2人の子供のような姿のお坊さんが笑いながら佇んでいるような奇妙な挿絵が掲載されていたのを覚えています。この『寒山拾得』というのが森鴎外の小説というのはどこかで聞き及んだ覚えがありますが、改めて全集版の中にこの、短い物語を発見し、『寒山拾得縁起』という、関連というか、同時に、この小品作成の契機となったことを書いたエッセイも読むことができました。


寒山拾得というのは、古代中国の寺に残る唐の時代頃の伝説来な僧侶・詩人とのことです。豊干・寒山・拾得の作として多くの漢詩が残っており、実在の人物とする見方もありますが、詳しいことは不明だとのこと。詩とともにいうか、それ以上に有名なのが「寒山拾得図(禅機図断簡)」という、上の図の国立博物館所蔵の「寒山拾得図(禅機図断簡)」で、同館のホームページ掲載のものです。教科書に掲載されていたのもおそらくこの絵でしょう。ここには、特に難しいものはなく、自由で楽し気な生活のイメージだけが残ります。この絵があってこその寒山拾得伝説といえるのではないでしょうか。


もちろん、鴎外の小説もこの絵の生み出す、2人の子供のような僧侶の陽気で反権威的な生き方にあこがれるような雰囲気をもっています。唐の時代に頭痛に悩む官吏・閭丘胤が豊干禅師に導かれ、文殊菩薩と普賢菩薩の化身とされる寒山と拾得という二人の奇妙な風狂僧に会う物語です。寒山と拾得の隠遁生活と無の境地、そして「道」への問いかけを描いた作品です。 「唐の貞観のころだというから、西洋は七世紀の初め日本は年号というもののやっと出来かかったときである」で始まり、閭丘胤という台州の主簿というかなりの高官でありながら実在したのかしなかったのかわからないが、実在しないと話にならないのでいたことにする、というひとを食った設定で始まることでわかるように、鷗外の中では力を抜いた楽しんで書いたと思われる作品ですが、その理由はほぼ同時に書かれた『寒山拾得縁起』というエッセイで明らかになります。


「縁起」によれば、この寒山拾得については自身の子供に説明を求められて即興的に書いた話だというのです。この『縁起』の最後に、寒山が文殊菩薩の化身というこの意味が2人の子供にわからず、説明のために当時「メッシア」(救世主)と話題になっていた人物のこと例えに語るも、それも子供には通じないので「実はパパァも文殊なのだが、まだ誰も拝みに来ないのだよ」というのが最後のオチみたいになっています。この部分も教科書にあったように記憶しているのですが、確認できません。もちろん、いくら簡単に書いたといっても鴎外の小説ですから、難解な部分や語句が登場します。教科書版はどちらも抄録だったかもしれません。


この寒山拾得図を鷗外は自宅に飾っていたというますから、この楽しい世界を好んでいたのでしょう。よくいわれるように、鷗外は自身が陸軍のほぼ最高の高級官僚であり、常日頃、役人世界の通俗さを感じていながら、小説など精神の世界ではまったく異なる自由な内面を探求するという、複雑な精神生活を送っていました。しかもその2面性を鷗外は破綻なくこなし、豊かな家庭生活も送りました。この『寒山拾得』に登場して、自由人たる禅僧に対して堅苦しい名乗りを行って、笑われてしまい呆然とする官吏・閭丘胤の姿は、確かに形式ばった官僚への風刺や皮肉というレトリックを感じさせますが、されにそれを超えて、ただただつまらぬ狭い世間を笑い飛ばしてしまう豪快さを感じさせます。


寒山詩は唐代の隠者文学として、当時の禅僧からよく読まれたそうですが、それは隠者たちのあいだで、現世の価値観の愚劣さを強く批判する考えがあったからで、その点が、鴎外のこの作品の主題を解く鍵になるとされています。