古綾瀬川の最終地点2025年10月20日 13:44


何回か前の記事<綾瀬川の起点─備前堤>で、埼玉県東部を流れる綾瀬川の変遷とその結果としての荒川との分離さらに桶川市付近での河川の締切りと始まりことを掲載しました。こうして現在の綾瀬川は思わぬ場所が起点になり、埼玉県東部平野をゆっくり流れ下って東京都にいたり、足立区綾瀬付近で隅田川に合流するという中小河川になりました。


この綾瀬川は、江戸時代初期の瀬替という大変化のあとも、寛永年間(1624から1644年)に幕府による改修が続き、現在の草加市付近を一直線に流れる流路が開削され、これが現在の綾瀬川本流になっています。そして、残された旧河道は草加市金明町付近で締め切られた古綾瀬川になっています(草加市史など)。これにより、現在の観光地としての「草加松原」の景観が残ったのは幸運なことですが、断ち切られた古綾瀬川は人びとが行き交う華やかな「草加松原」の始まる前に視界から消え去り、終わったところにまた現れるというほとんそ忘れられた川になってしまいました。


この忘れられた川の様子がどうなっているのか、そして、もうひとつ大きく変わった綾瀬川の墨田川合流点付近はどうなっているのか、つまり、先の「起点」とこの古綾瀬川の流れ、そして隅田川残るかつての綾瀬川合流点を見ることで、綾瀬川の全体像を見てみたい。そして、それを「まち歩き」のテーマのひとつとしてみようというのが私の目的になりました。多分、埼玉県草加と東京都足立区の「裏町散歩」みたいな感じになりそうですが、歩行距離的にはそれほど難しくなくいけそうな感じです。歩いた順に報告します。


・東武スカイツリー線の「新田」駅から


駅名は「しんでん」と読みます。ここは草加の2つ前の駅で、南越谷からも2つ目です。1つ前の駅が「蒲生」ですから、ガマの生えた沼地の広がる中の水田のイメージです。現在は、かなり新しい新興住宅地ですが、随所に残る用水(跡)に江戸期以来の新田開発の歴史を感じます。その中を日光街道に沿って綾瀬川がまっすぐ南下していますが、ほどなく、巨大な地上のトンネルを思わせる首都圏外郭環状線の高架道路が横切っている箇所につきます。ここで左(東)に直角に曲がっていくのが古綾瀬川です。巨大な水門があり、普段は水は流れていないのか、古綾瀬川の水面には塵芥が浮かび不気味な緑色に淀んでいます。古綾瀬川はそのまま外郭道路と並行に流れ、反対側には広い遊歩道が設置されています。とはいえ、休日の午前も散歩する人の姿はありません。




・外郭道路と別れ、再合流点は「草加松原」


遊歩道を30分ほど進むと川の行く手にまた水門らしき建築物が見えてきます。ここで、外郭道路と流れを直角に変えてからゆっくり右に輪を描くように流れて、数キロ先でまた現在の綾瀬川に注ぎます。この間が現在の古綾瀬川ということになります。川の両側にはいわゆるカミソリ堤防で、遊歩道もなく、歩ける場所はありますが、行きどまりになったり、浄化槽があったり、あまり人が近寄る場所ではなさそうです。それでも、水面との間の狭い隙間にわずかに緑の植生があり、釣りをするひとがいたり、アオサギやカワウなどの大型水鳥の姿も観察できますので、水の流れがあれば一定の自然は残るものだと思います。


ただ、両岸の様子はあまり芳しくありません。草加市と八潮市の境堺辺りで、かつての田園地帯が工場地帯になり、宅地になりという場所だと思いますが、少し離れた東武線駅周辺の賑わいに取り残された裏町感が濃い場所です。それがずっと続きます。


この古い川ががふたたび綾瀬川と再合流するのはちょうど草加松原付近になります。草加松原は史跡になっていて、ドナルドキーン氏のみごとな揮毫になる記念碑も見ることができます。ここは地味な綾瀬川では唯一の誇らしい場所といえます。手入れの行き届いた松並木はきれいですし、左岸にはかなり広い公園があり、休日ですので多くの人の姿があります。


さて、ここから綾瀬川を下って最下流の隅田川沿いまで歩けばいいのだと思い、一度はそう考えたのですが、全体の距離と川沿いの景観にあまり期待がもてないので、ここから一気に加速して、足立区の最終合流地点付近まで、交通機関で移動することにしました。すぐ近くが東武スカイツリー線の「獨協大学前駅」です。ここは少し前まで「草加松原団地」という駅名で、巨大な団地は有名でした。


・東武線で「堀切」駅に移動



行く先は東武線で北千住から乗り換えてた浅草の2つ手前の「堀切」という駅。改札口に駅員の姿はなく、用事があったらボタンを押して呼び出してくれという感じ。多分、東京23区内で一番小さな駅ではないかと思います。駅のすぐ隣に荒川の堤防が高く聳えて何も見えません。堤防を登り、荒川と反対側を見渡すと東京未来大学という建物があり、その隣も学校のようで、その先に目指す古綾瀬川の最終地点があるはずです。堤防を少し進むと青く塗られた鉄の歩道橋があり、その上から写真のように斜めに流れる運河のような川が見えました。これが地図上に再び姿を現わした古綾瀬川です。上を通っているのは首都高速向島線。


高い堤防に遮られた川沿いに進むと、広い道路に出ます。これは隅田川に沿って作られた隅田堤の上の道路です。道路を越え、川沿いに進むといよいよ最終地点に出ます。ごみ処理用の川船が浮かんでいて、いかにも都会の果てという感じが強いです(一番上の写真)。荒川の本流であることをやめ、明治以後は埼玉県から東京東部の下町・裏町の生活用水・雑排水を一手に引き受けてきた川の最後の姿です。

ファーブルの『昆虫記』2025年09月12日 16:11

(これも15年前の記録を見ていて思い出したことですが)2001年の5月にファーブルの『昆虫記』(岩波文庫版 全10巻)を読み終わっています。中断もあり、時間を見つけての(多くは移動の電車内)読書ですから、おそらく三年近くの時間がかかっていると思います。子供のころ『動物記・博物記・昆虫記』という本を読みファーブルを知りました。この中に出てくるファーブルの少年時代のアヒルを連れての小さな沼の思い出や水槽を作って水棲昆虫の生態を観察する記述は私を夢中にさせました。ただし、漢字ばかりの当時の岩波文庫版の本物の『昆虫記』には手が出ず、長いこと読みたいと思いながらそのままでした。


「あひるの沼」は『昆虫記』第7巻第7章のなかで水生昆虫の話の途中に書かれたエピソードです。観察記録とは直接の関係のない、こういう小さな、しかしおもしろい挿話が出てくるので「昆虫記」は永遠の文学になっています。残念ながら、壮年になってからの再読では子供のころの感動は蘇りませんでしたが、あのころ手がでなかったファーブルの精緻で丁寧な文章を時間をかけて楽しめるようになりました。

(以下は15年前の感想)

<十九世紀末から二十紀初頭まで三十年間にわたって書き続けられたこの膨大な著作について(特に日本では)大概の人が知っているようですが、全巻を読むひとはどのくらいになるのでしょうか。おそらく教科書か何かで断片を読み、単なる虫の観察記録程度に考えているひとが多いと思います。しかし、『昆虫記』は「博物学の巨人ファーブル」(これは奥本大三郎氏の言葉)の知識と経験の集大成であり、随所に人生と人間に対する深い洞察と美しい思い出が散りばめられた、その名に値する数少ない永遠の書物であると私は思います。/ファーブルの時代にはビデオも電卓もコピーもなく(そもそも電気がなかった)、さらに生涯貧窮にあったファーブルには虫眼鏡で根気よく観察をつづけ、粗末な机の上でペンにインクをつけて紙の上に記録していく以外の方法はありませんでした。しかし、その結果、そこに類(たぐい)まれな「文学」が生まれたのです。映像でなく、言葉(文字)で記録したからこそ、単なる観察記を超えた広がりと深みが生まれたともいえます。現代にはもちろん、こんな学者もいないし、こんな方法論も存在しないでしょう。幸福なのか不幸なのか、誰にもわかりません。>

   岩波文庫版「昆虫記」について


ファーブルの『昆虫記』はいくつかの翻訳があるようですが、有名なのは私が時間をかけて通読した岩波書店版の『完訳 ファーブル昆虫記』全10巻で、1989年に出ています。すぐに文庫版となり、現在まで発行され続けています。本当のロングセラーです。私の読んだのはもちろんこの文庫版です。最近では、ファーブルを敬愛するフランス文学者の奥本大三郎氏の『完訳版ファーブル昆虫記』(集英社・全10巻・20冊)が知られています。私はこの本を最初の巻から購入していたのですが、すぐに読むためではなく、豪華で、たくさんの綺麗な写真の入ったこの本を鑑賞するためでした。しかし、途中で何年間も発行が止まったりして、奥本氏の健康まで心配しましたが、10年以上の年月をかけて完結しました。そこであらためて本文をゆっくり読もうと思ったのですが、年齢のためか、あるいは同じ内容を読む気力・意欲がなくなったのか、現在はむなしく書棚の華になっています(しかし、今回もう一度開いてみたところ、本文の文字サイズが大きく、老後に?読むには最適と思い直しました)。これが上の写真です。


その下はおなじみの岩波文庫版。翻訳は山田吉彦・林達夫の共同訳となっています。本文はわかりやすく、適度に硬く、まさに名訳と思います。林達夫氏は高名な哲学者・評論家ですが、もうひとりの山田吉彦というのは、なんとペンネームを「きだみのる」という破天荒な人物の本名です。どうして、このふたりが戦前から戦後まで10年以上もかかってこの『昆虫記』の日本語訳を行うことになったのか、その辺の事情はわかりませんが、最初に翻訳を開始したのはきだみのる(山田)で、『昆虫記』の内容と美しい文章に魅了されたためのようです。きだみのる(山田吉彦)の個人訳部分もかなりあるようです。


ただ、現在、パソコンのAIなどに聞いてみると
<文庫版の「訳者あとがき」や「解説」では林氏の筆が中心になっている巻が多く、読者の印象にも強く残るのは林氏の思想的な語り口かもしれません。>
というAIとは思えない返答がかえってきました。しかし、第1巻の最後に記されている「訳者から」の「ファーブル略伝」と「ファーブルの旧地を訪ねて」はどうもきだ(山田)が書いたような雰囲気です。困難な翻訳作業の合間に楽しんでいるようなユーモアに満ちた楽しいエッセイです。AIの回答にも?が残ります。


* 『きだみのる―自由になるためのメソッド』(太田越智明)という本で、これが、きだ(山田)が書いたものであることを確認できました。

勇気づけられた『冒険記録』2025年09月05日 11:25

上の写真は、南極の氷原で傾くエンデュアランス号という機帆船。1915 年7月、探検旅行の途中で氷に閉じ込められて破壊され沈没する際のもの。(『エンデュアランス号漂流(原題 : ENDURANCE)』の21ページの写真と同じもの。下の写真は後述) <p> ここ数年、「今年の夏は暑い」といわれ続けてきましたが、今年も特に6月から高温状態が定常化して、おかげで世界遺産古墳群の旅も結構大変でした。7月、8月になっても猛暑基調は収まらず、とうとう9月になってしまいました。台風の接近で雨になり本日はやや楽ですが、ことしの夏はまだ油断できません。あるいは、これから毎年こんな気候が続くのでしょうか。8月になると、暑さの中で家にいてまとまった読書をしていたものですが、今年は、年齢のせいなのか、その意欲もわきません。良く読み返していた『八月の光』や『レイテ戦記』のような重厚長大な大物はもちろん、ちょっとしたエッセイもあまり読む気がせず、もっぱら「YouTube」の配信する世間情報に耳を傾けているといった感じでした。

そんな中、ふと思いだしたのが、10年以上前に夢中になったノンフィクションのこと。そのときの思いをかなり以前に書いた「メールマガジン漂流記」という本の中に入れた思いがあったので、探してみるとありました。「2001年8月13日」のことで、15年前です。以下がその内容。

   *

「新潮文庫の一〇〇冊」というキャンペーンに乗ってうかうかと買ってしまった本が『エンデュアランス号漂流(原題 : ENDURANCE)』。ノンフィクションは大好きですから選択に間違いはなかった、というよりこれは驚くほどの傑作でした。

第一次世界大戦のころ、南極大陸横断に挑戦した探検隊が沈没した船を捨て、揺れ動く流氷と荒れる海を乗り越えて十七か月後に全員無事で生還を果たす──とこれはまさに典型的な遭難事故ですが、体験は記録されることによってはじめて歴史になり、後世に残ります。 

その漂流記録を作家のランシングが調査しまとめたのが一九五九年。「これから述べる話はすべて真実である」という冒頭の一行でリアリティを保障された想像を絶するストーリーが、詳細、緻密に絶妙の構成で一気呵成に展開します。これほどの内容の本の日本語訳が出たのがなんとその五十年後の一九九八年です。文庫版の解説のなかで、アラスカで亡くなった動物写真家星野道夫氏が座右の書としていたというエピソードも紹介されています。実際の冒険家を感動させるというのはちょっと信じがたいですが、この本の迫力はそれほどすごいものがあることを示している実話だと思います。 

南極探検での極限を描いた記録としてすぐ思い浮かぶのはチェリーガラードの『世界最悪の旅』です(私は筑摩書房から一九七二年に出た「世界ノンフィクション全集」版の抄訳を持っています)。しかし、その内容は比較になりません。『世界最悪の旅』は実際の参加者の体験記なので、作家の手になる『エンデュアランス』と比べてはいけないかもしれませんが、それ以上に、同じように死と隣り合わせの極限の苦闘を描いてはいても生存のための条件が違いすぎるように思えます。 

この歳になると、勇気づけられる体験に出会うことはめったにありませんが、この本を読んでいる時間は、まさしくそれに値するものでした。この記録がノンフィクションの古典となるのは間違いないでしょう。 

   *

『漂流記』つながりでややこしいですが、この本に関連しては隊長のアーネスト・シャクルトンの出した回想記『エンデュアランス─奇跡の生還』も購入し、これは実際の体験者の手になるものですから違う意味でなまなましく疑似体験的な面白さがあります。ランシングというプロの作家の手になる「記録小説」のほうが、ストーリー展開や記述の巧みさや危機に直面していくドラマチックな構成力という点では断然上ではあるのですが、これはしかたのないことでしょう。

 海底で海底でみつかった船体の鮮やかさ

南極大陸に面するウェッデル海の大氷原の中でのエンデュアランス号の破壊・沈没で当初の目的の探検は終わり、しかし、そこから次の本当の意味での劇的な冒険旅行が始まるというのがなんともドラマです。ここにもうひとつの後日談ですが、上の感想を書いてからまた10数年後(沈没からは108年後)の2022年になって、南極海の底からこのエンデュアランス号が発見されるというニュースが流れました(2番目の写真)。写真をみると水深3000mの海底で、この船はじつにきれいな状態のまま横になっています。記録にたがわず、頑健な船だったことがわかります。

博物館に「能舞台」2025年08月22日 19:08


上の2枚の写真は2009年(平成21年)3月に埼玉県立歴史と民俗の博物館の講堂で開かれた能舞台です。上が「翁」の舞い、下が「石橋」の囃子方。演者はシテ方観世流の梅若泰志氏ら3名。囃子方では笛方一噌流、小太鼓幸清流、太鼓方大倉流、太鼓方金春流の各派の演奏者に登場いただきました。演者・奏者は一流ですし、一見、立派な舞台に見えます。が、よく見ると?な部分も目につきます。これは博物館友の会という素人集団が知恵を出し合ってつくりあげたこの日だけの仮舞台なのです。


前回の記事で書いた「花王・コミニュティミュージアム・プログラム」という文化助成事業の初年度の事業がこの舞台開催を中心とする「能楽ワークショップ」ということで、2010年(平成21)の3月に「能楽」を開催し、そのあと年内には冊子『能・狂言 これがポイント』』を発行しています。わたしはこの中の「能舞台開催」については関係していなかったので詳細は不明なのですが、事前に博物館や県当局との調整があったことは確かで、当時の博物館副館長I氏に努力していただいたと思います。


まずは舞台の設営で、平坦な講堂の床上に、高さ30センチの立方体の箱を20個つくって並べて舞台とすることを決め、役員総出で用意した板材を加工して作り上げました。その舞台の床に白い布をひき、背景の老松の描画も幕も役員(女性)が見事に制作したものです。大事な見つけ柱を建てると、舞台は完成。ただの講堂が能楽堂に変身した瞬間でした。


出演の能楽師や囃子方のメンバーとどう連絡をつけたのかなどの詳細は知りませんが、当時、さいたま芸術劇場での里神楽公演にも協力していましたので古典芸能関係につながりがあう人がいたのかもしれません。


 小冊子も作成


ご覧のような冊子も作成しました。表題は『能楽入門』だと思ってたのですが、残されたファイルを見ると前回書いたように『能・狂言 これがポイント』となっているようです。実物がまだ残っていると思いますので確認してみます。



これも結構大変で、数名の委員がそれぞれ担当範囲を決めて執筆し、休日や平日の夜、大宮駅前の「シーノ大宮」の会議室に集まって意見を出し合いました。裏表紙に雛飾りの五人囃子が入ったひな人形セットを使いたいということで岩槻の老舗人形店である東玉にお願いしてデータを送っていただきました。表紙の印刷もグラデーションを活かしたなかなか凝ったデザインです。

ビデオ『時の旅人』とは2025年08月19日 15:01


このブログは2015年頃から書き始めています。10年間よく続いたなと思いながら、これまでの記事を見直してみました。小さなミスや誤記を訂正した程度ですが、その中でひとつ、ブログ開始の少し前にやったことに触れていないのに気が付きました。ご存じの2013年(平成25年)3月に東北大震災と福島原発事故が発生し、日本中が騒然としていましたが、その前年(2012年)に、このブログでたびたび登場する「埼玉県立歴史と民俗の博物館友の会」という団体が『時の旅人―岩槻編』という17分弱の映像(ビデオ)を制作しています。私はその2年前くらいにこの団体の会員になったばかりでしたが、それなりに製作に関係しました。その前年にはこの会が同じ体制で「能楽」の舞台をつくり、能楽師を招いての舞台公演(能楽ワークショップ)を開催し、ほぼ同じ時期に『能・狂言 これがポイント』という16ページの冊子も作成しています。


この期間は、上記「友の」会の発会まもなくで、さらに時期もよかったようで、今は終わっていますが「花王コミュニティ・ミュージアム・プログラム」という文化団体への助成事業があり2009年と2010年の2年連続でこの助成を受けるという幸運があっての事業だったように思います。日本の経済状態もそれほど悪くなく、中心となったこの会の会員・役員もほとんど60歳代の若さ(!)でしたし、なんだか一気にいろいろなことができた気がします。私もまだ仕事をやり、他の団体の用事もあるという中でしたが、それほど大変だったという覚えはありません。順を追っていくと、以下のようになります。
2010年(平成21)花王コミュニティ・ミュージアム・プログラム2009:能楽開催(2010/03)、冊子発行(2010/08)
2011年(平成22)花王コミュニティ・ミュージアム・プログラム2010:ビデオ『時の旅人』制作(2012年5月)
順不同になりますが、私にとって一番記憶に残る「ビデオ制作」のことを最初に述べてみます。



 真夏の撮影で岩槻の街を歩く


時期的にはその前の小冊子作成や能舞台事業から役員として参加した私ですが、ビデオ制作についても同じ役員でやっていますから自然に話し合いの中に入っていきました。前年からの助成事業のテーマの中心が「人形の街・岩槻」ということでしたので、まず最初はテーマに沿ったシナリオを作るということになりました。埼玉県の岩槻は現在はさいたま市の区になりますが、江戸時代を通して岩槻城を中心とした城下町として栄え、また「ひな人形の産地」としても有名です。とはいえ、全員、どうしていいのか分からないという感じでした。私は若いころ映画制作の学校に行っていましたので(途中で退学)、動画にはまずストーリーが必要ということで<岩槻は街の中央を日光御成街道が通る歴史の街>ととらえ、その今昔を対比して描いたらどうだろうと提案し、まとまりました。調べていくうちに、徳川将軍が通る日光御成街道を描いた絵図が残り、国立公文書館に所蔵されているその画像をパソコンで見ることができることもわかりました。絵図には、岩槻を中心とした街道の自然風景や両側の街並み、街道を歩く武士や商人などの旅人の姿が描かれており、これは観ているだけで面白い。しかも寺や神社の位置も道の形もほとんど変わっていない。川も橋も変わっているがほぼ同じ位置にある―これはいけそうだと思いました。


主な撮影ポイントを決め、実際の撮影は2011年の夏でした。暑い中でしたが、御成道や元荒川の河岸を役員一同で行ったり来たりしたことを懐かしく思いだします(写真)。残念だったのは購入した撮影カメラが中古で解像度が低く、現在のようなきれいな画像が撮れなかったことです。この事情は分かりませんが、品質にはあまり関心なかったんですかね。


 編集はパソコンで


苦労して撮影が終わり、編集を経てビデオを作成するわけですが、映像の世界もアナログからデジタルの世界に変化していて、少し知っていたフィルム時代とは隔世の感です。ただし、パソコンと専用ソフトを使い、素人でも操作できます。ほんの少し指導を受けた映画監督が推奨する「EDIUS-NEO」という個人用ビデオ編集ソフトを購入し、ついでにパソコンも(他の面でも必要だったので)友の会で購入しました。実際の運用は、当時副会長だったNさんと私が自宅に記録用のSDカードを持ち帰って悪戦苦闘して仕上げました。フィルムをハサミで切って繋ぐという古典的な手法から見ると、複数の画像ファイルを1本のプロジェクトにまとめ、タイムテーブルにしたがって移動や追加、削除を繰り返す映像作成は、むしろ、私が当時仕事で使っていた画像ソフトやDTPソフトに近い感覚で操作でき、画面に文字ブロックを装入するのもワープロソフトのようでした。出版物編集の技術が役に立つというのは他でもありましたが、どんなものもやって無駄になるものはありません。


 ナレーションは現役アナウンサー


ビデオの出来を決めるものに音楽とナレーションがあります。音楽については、作曲してもらうわけにもいきませんので、著作権の切れた古典音楽を使用しました。静かな雰囲気のベートーベンのピアノソナタで、これで映像全体のムードができました。問題はナレーションで、これは素人では難しい。困っていると、ひとりの会員の方が「私の娘に頼んでみましょう」といってくれました。なんと当時のTBSの現役アナウンサーの広重玲子さんでした。これは幸運(もちろん無料)、映像と台本が完成した段階で、スタジオはないので、某会館の静かな事務所で無事録音できました。



ビデオの最後の場面に、カメラをのぞき込む小学生の団体が出てきますが、これは撮影中にカメラが回っているのをそのままにしておいたところ、遊びに来た子供たちが好奇心でのぞき込んでいたのをあとで見て、これは面白いと使用したものです。「時の旅人」は現在の風景の背後に過去の歴史や伝統があるということを伝えることがテーマですが、ここに未来を生きる子供たちの明るい表情がはいることで、偶然ですが、過去と現在と未来がつながったよう気がしたわけです。 当時は映像はCD-ROM媒体で配布することが一般的でしたので、数十枚を作成し、関係先に配布したりもしました。今回久しぶりに再生しようとしたのですが、CDドライブがあるのは2世代前のPCでした。また、現在はファイルで流通ということになりますので、主流のMP4形式に変換したいと思いましたが、当時のPC標準の「MediaPlayer」で変換するとなぜか音が出ない。結局、新しいWindows11の「Clipchamp」というソフトで変換ができました。メディアの世界も複雑です。忘れていたのですが、この映像のPR版という短いビデオもつくっていました。以下を見てください。


『時の旅人PR版』

氷河期の動物と人間2025年08月10日 19:18


上の写真はネアンデルタール人、下はクロマニヨン人です。まるで今にも動き出しそうなリアルな様子をしていますが、約4万年前の氷河期とよばれる時代に、現在のヨーロッパ地域で生存していた人類の仲間の代表です。クロマニヨン人はその後、現在の我々人類=ホモサピエンスに繋がっていきます。ネアンデルタール人は今は生存していないので化石人類とよばれることもあります。このあたりの生物学的な分類は難しいですが、ともかく、かつての氷河期に2つの代表的な人類が、そのほかの大型の生物とともに生存していたこと、そして2万年前以降の氷河期後の暖かい世界には、大型の生物とともにネアンデルタール人は滅び、新しい人類の歴史の時代が始まっていきます。


日本では、氷河期というときにネアンデルタール人のことはあまり話題になりません。しかし、氷河期の大型生物のうちで北海道地域にまで生息したとされる象の仲間「マンモス」はその独特の姿から人気があり、その後、石器時代人と共存していたと思われるナウマンゾウも歴史の教科書でおなじみの動物です。これも氷河期のことなのか。そもそも氷河期とは何なのか。地球温暖化がさけばれていますが、それと関係あるのかないのか。猛暑が続くこの夏休みに、そうした疑問を小学生にも分かるように展示しようと開かれたのが東京・上野の国立科学博物館での「氷河期展」です。展示会には「人類が見た4万年前の世界」というサブタイトルがついています。つまり、この時代には人類が生存していて、その中を生き抜いていたことを示しています。上の2つは、この時代の代表的な人類を化石から再現した生体復元模型(Biological restoration model)ということになります。



地球の歴史の中でなぜ氷河期とよばれる寒冷気候が定期的に訪れるのか。数億年の地球の歴史の中では逆にかなり温暖化した時期もあり、植物が繁茂し、恐竜などの大型動物が栄えた時期もあります。これには、地球の自転や公転さらに地軸の傾きや火山活動にかかわる複雑な要素があるようですが、現在の10年、100年単位の気候変動などとは違うスケールがあるらしいです。現在の地球温暖化も40~50年くらい前には「氷河期が終わったあとの自然な温暖化現象だ」という説明をする学者もかなりいたと思います。その後、人間の出すCO2の量がとてつもなく多くなってきて、そんなのんきな説をいう人はいなくなってしまいました。


しかし、科学の話は難しい。氷河期などという面白そうなテーマであっても、そのメカニズムや人類の進化や系統に関する説明となると数字やグラフが登場するので、子供どころか付き添いの大人でさえ素通りするだけが多いです。そこで、なんといっても(子供はもちろん大人でも)注目する大型の動物の化石や再現ジオラマそして生体復元模型の登場です。今回の展示は①氷河期ヨーロッパの動物②ネアンデルタール人とクロマニヨン人③氷河期の日本列島―の3つの部屋にわかれていますが、どれも展示の中心は写真のような、眼をひくこうした動物たちです。②の部屋でのネアンデルタール人とクロマニヨン人の頭骨化石も、確かに日本初登場という触れ込みで展示されていますが、何となくというかかなり地味であるのは仕方がありません。


ところで、約10万年というサイクルで繰り返しやってくるというこの地球の氷河期の中で、最後の氷河期のさらに最寒冷時期は約2万年前ということになっています。まさにそれが終わり温暖化し始めた時期が人類の本格的活躍の始まりに重なるというのは、なんとも皮肉なことで、つまり温暖化が人間に文明をもたらしたらしいのです。その文明が今度は地球の自然サイクルを狂わせてしまうほどの変化を地球に与えているのは間違いないようです。


また、この時期に多くの大型動物や(もしかしたらネアンデルタール人の)滅亡には現生人類による狩猟や戦いが関係していることも事実のようです。

関東にも巨大古墳あり2025年07月30日 17:22


先の記事に書いたように、この6月に関西(堺市など)に行き「百舌鳥古墳群」と「古市古墳群」という2つの世界遺産の古墳群を見学しました。どちらも日本を代表する古墳群だけあって、どの古墳も歴史があり、しかも大きく立派です。なかでも、最大の仁徳天皇陵古墳(大仙古墳)は全長が約486mもあり、想像の通り本当に小山のように大きいです。次に巨大なのが応神天皇陵古墳(誉田御廟山古墳)でこれも425mあります。


どちらも、近づいてもその全貌がすぐには確認できないというサイズです。世界遺産内にはわりとこぶりな古墳もありますが、総じて、関東のそれも私の見聞する範囲にある古墳と比較して大きいようです。ちょっと存在感がありすぎるほどですが、これが街の中のそこここに普通にあるのが信じられない感じがします。


かなり前に、この他の関西の古墳(特に飛鳥地域)も回ったことがあるのですが、その時にも気づいていたことは古墳の廻りの堀(周壕)に水がはってあり、それがかなり広いことです。これは灌漑用の溜め池に使うために広げたようで、古墳群の記事で写真を載せたニホンザイ古墳の堀のように農業用水と接続しているのが普通のようです。


これは関西のこの地域(紀伊半島北部)に大きな河川が少なく、基本的に日照りの時期が多かったためだと思われます。関東の古墳でも少し大きな古墳には周壕がありますが、どうも水は張っていなかったといわれています。関西の古墳のイメージから周壕には水があるという感覚があったようで、埼玉県行田のさきたま古墳群の稲荷山古墳なども以前は水掘で囲まれていましたが、現在は(古墳)作成時の状況に合わせるということで水を抜いています。

話を古墳のサイズに戻すと、この「さきたま古墳群」はいちおう全国的にも有名ですが、金錯銘鉄剣など歴史的価値は別として、古墳の大きさという単純な比較では、関西の世界遺産古墳群にまったくかないません。専門家は別として一般的な歴史マニアが古墳に対して持つ価値観はその大きさと古さです。比べるのも変ですが、埼玉古墳群中最大の二子山古墳でもその全長は132mですから、上記の2大古墳との差は明らかです。一方その成立年代についていうと、関西の古墳には、3世紀中期と推定される明日香の箸墓古墳などがありますので、5~6世紀を中心とする埼玉古墳群とは格が違います。


ただし、サイズだけなら埼玉古墳群からさほど遠くない北関東(群馬県太田市)に東日本最大の「太田天神山古墳」があります。墳丘長は約210mと、さすがに上の2つの古墳とは違いますが、これは3大古墳と呼ばれる(仁徳、応神古墳ともうひとつ履中天皇陵古墳=これも百舌鳥古墳群にあります)があまりに巨大すぎるためで、そのほかは200m台でも充分巨大なのです。


この太田天神山古墳にも周濠が確認されており、全域は364m×288mにもなります。ということでこの太田市の古墳はそれなりに古代史愛好家の中では有名で、わたしも過去に一度訪問したことがあります。その時は小山のようなその本体の一部を眺めたという記憶があるばかりですが、今年の秋に、ここ太田の金山城と渡良瀬川を挟んだ足利市の足利居館などをめぐる見学旅行を企画していまして、その下見ということで先日、現地に行きました。


夏の暑さ、今にも雷雨になりそうな天候の中、太田市郊外の田園地帯にあるこの国史跡の古墳に近づくのですが、近くだと思われる場所に着いても駐車場が見つかりません。太田市のホームページにはその場所が記載され、墳丘への道も示されているのですが、近くの女性に訪ねてようやくわかりました。要するに、付近のどこにもこの古墳への案内や説明パネルがないのです(見つかりにくいのか?)。訪ねた付近の人もあまり関心がないようでした。これは、堺の世界遺産古墳群訪問の記事にも書きましたが、どうもこういう地味な文化財というのは地元に人気がありません。おそらく、訪ねてくるのはちょっとマニアックな人々だけで、地元の経済にも観光にも寄与しないためでしょう。



ようやく、古墳への道を見つけ、墳丘の中央部の下に見える鳥居らしきものが多分入口と見当をつけました。そこに向かい歩きますが、周濠部分と思われる場所は中央に農業用水が流れ、あとは休耕田か耕作放棄地のようで一面雑草に覆われています。鳥居の前に着くとようやく古墳の説明パネルがありました。文字は読めますが、いかにも古びた感じ、地元の文化財を誇るような雰囲気ではありません。鳥居の中央には参道のような細い道が通っていて、その坂を上がると、粗末な社殿ともいえない小屋が立っています。以前の天神様なのでしょうか。ここが前方部のようで、鳥居と垂直の方向に向きを変えると、少し先に後円部と思しき高まりが観察できます。

一般的に、関東の古墳は宮内庁管理ではないので、このように古墳の墳丘に立ち入ることができる場合が多いです。例えば、埼玉古墳群の丸墓山古墳や稲荷山古墳などは昇降用の階段がつくられているほどです。ただし、関東でも、その他の多くの史跡指定された古墳については文化財保護の観点から、(天皇陵古墳との推定がされる仁徳古墳陵などとは違いますが)自由な侵入を許していないことが多いと思います。


それでは、この天神山古墳はどうかというと、じつはまったく保護されていません。それも「管理をしているが、頂上での参拝を認めます」というのではなくて、まったくの放任つまり無管理の状態で、ほぼ町の郊外にある雑木林と同じ扱いです。ただし、案内版には「史跡」と書かれており、大事な文化財であることが感じられるようにはなっていますが、柵やロープがあるわけでもないので、どの箇所からの侵入も可能です。古墳といっても(地上から見れば)現在はただの雑木林に変わっていますから、少し前までは薪炭用林として使用されていたのかもしれません。この地域ではわざわざ自然を求めて訪れる人もなく、最初に述べたように観光の名所としても価値は少ない。要するにほったらかしにされている感じです。


それでも私たちのように古墳になにがしかのロマンを求めて訪ねる人もいるわけです。日本の古代史の謎―ヤマト王権の勢力下の東日本で、すぐ近くの埼玉古墳群の権力者と覇を競ったかもしれない毛の国(上州)の支配者の存在の証です。


上の写真のように(太田市のホームぺージより)、上空から見ると、巨大で立派な前方後円墳であることがわかります。この古墳は男体山ともよばれ、近くには女体山古墳もあります(右上に見えている)。荒れ地の周壕に水をため、墳丘部の樹木を少し整備すれば、太田市自慢の景観になると思います。目の前にぞびえる太田金山城との観光セットをお勧めします。

東博の金剛力士像2025年07月04日 16:55


東京・上野公園にある「東京国立博物館(通称:東博)」は明治初年の開館以来、日本国内外の貴重な文化財を収集し、保存展示している施設です。関西にも同様の博物館がありますが、質と量ではこの東京館が最高と思われます。すぐ隣に立っている別館でたびたび行なわれる特別展には行ったことがありますが、本館(通常館)はかなり長い間ご無沙汰でした。たまたま近くの「科学博物館」を訪れる機会があり、ついでという感じで東博にも足を向けたところ、今年の4月から本館が新装され、展示品や展示方法がかなり変わったということで興味がわいてきました。


本館1階の11室すべてがリニューアルされたようですが、なんといっても印象に残るのが入館して最初の部屋に堂々と置かれた2体の金剛力士像です。いわゆる寺院の山門の左右に並んで参詣者をにらみつけているおなじみの仁王様ですが、貴重なものほど周りに金網などが張られていて内部が良く見えません。じろじろ見つめると怒られそうで? 細かい造作もなかなか観察できません。有名な奈良・東大寺南大門の運慶・快慶作と伝わる金剛力士像は鎌倉時代初頭に造像された巨大像でことに有名ですが、現在この東博で人々を睥睨している力士像は説明によると平安時代後期の作とのことなのでちょっとちがった見方ができます。


高さ(身長)は3メートル弱ですが、薄暗い博物館の明りの中で、赤い怪物のように体全体を躍動させ、手と足を伸ばして出現するその姿勢は迫力十分です。口を開けて左手に剣のようなものを持っているのが「阿行(あぎょう)」(上の写真)、右手を開いて何かを押し込めているような姿勢をとっているのが「吽形」(うんぎょう)(下の写真)です。「阿」と「吽」とは物事の最初と最後さらには宇宙の始まりから終わりまでを示すとされ、この2対の像の間にすべてが入るという意味らしいです。いわゆる「阿吽の呼吸」ですね。


この力士像はまるでスカートのような腰巻状の衣装をまとい、後ろから見るとちょっと体をくねらせたユーモラスとも見える格好をしています。実際のお寺の仁王像はこのように四方から見ることができませんが、ここでは可能です。


この大きな力士像ですが、当然、木造で、細かい、部材という部品の組み合わせでつくられています。展示場に置かれたパンフレットには驚くほど細かく分解されたパーツが示されていますが、頭部から足まで実に微細に分かれています。古代でも多くの寺で造られた仁王像でしょうから相当の点数が製作されたでしょう。こうした部品ごとの分業体制を敷くことによりかなり効率的な作業ができたものと思われます。まるで現在の自動車の部品加工と組み立ての流れをみるようです。試行錯誤の上にこうしたシステムができるまでには相当な年月がかかったものと思われます。平安時代にこうした体制が完成し、やがて鎌倉時代の木彫美術の隆盛をみることになります。


展示までの数奇な経緯


この仁王像が、上野の森に置かれるようになるまでの数百年以上にわたる時代と政治状況や自然環境の変遷の中でたどった運命もまた数奇なものです。この仁王像は、かつて滋賀県栗東市にあっだ、隆盛期には七堂伽藍を備えた大寺院であったと伝えられる平安以前からの名刹・蓮台寺の門に収められていました。中世・足利時代の戦乱では足利義尚方の陣所(城)のひとつになったとされますが、江戸時代に入り、寛永年間の火災で主要な建物が焼失し、唯一仁王門だけが残っていたようです。そして、さらに時を経た1934年(昭和9年)の室戸台風によって大破し、戦中・戦後の世相の中で再建もならず、雨ざらしということはなかったのでしょうが、多分、ばらばらの部材の状態のまま保管されていたようです。


その後、国の施設により買い取られ、10年ほど前から再建と修理を繰り返して、2022年の東博の展示会で始めて展示され、今ではこのように東博の宝になっています。再建にあたっては、江戸時代に付け加えられた構成の加工を取り除き、塗装も復旧し、平安時代の古風で力強い姿が再現されています。



正門前のユリノキの大木


ところで、この東博に入るたびに正面向かって左にそびえているユリノキを見上げます。まるでシンボルのようですが、近寄ってみると、太く枝別れした幹と地上にのたうつ根が圧倒的な巨樹です。ユリノキは日本に自生する樹木ではないので、樹齢も含めていつからこの地にあったのか何となく気になっていました。この樹の3メートルくらいの高さの幹にプレートがありますが、植物についての説明だけで、他にないかと見渡すと近くに、銘板があり、以下のように書かれています。


明治8、9年(1876~77)頃渡来した30粒の種から育った1本の苗木から明治14年(1882)に現在地に植えられたといわれ、以来博物館の歴史を見守り続けている。東京国立博物館は「ユリノキの博物館」「ユリノキの館」などといわれる。


つまり、1876年(明治8年)頃に発芽したわけで、今年でほぼ150歳というわけです。150年でこれだけの大きさになるんだ!

近畿の旧街道が結ぶ文化2025年06月25日 14:13

(前回の記事の続き)世界遺産の「百舌鳥・古市古墳群」を目的に訪れた堺と古市なんですが、ここが京都・大坂と奈良・明日香あるいは吉野熊野を結ぶ重要地点であることはわかっていました。日本の歴史の始まりとともに京大阪と紀伊半島をむすぶたくさんの交易路がつくられます。日本最初の官道である「竹内街道」がこの付近を通過して奈良・飛鳥まで続いていることは前回の記事で述べましたが、そのほかにこの地で目にするのは「高野街道」という文字です。堺の街では「西高野街道」でしたが、他にも「下高野街道」「中高野街道」があり、古市に行くと「東高野街道」が出てきました。上は、古市駅近くの「竹内街道」と「西高野街道」が交差する辻の道標です。


いずれも堺から奈良方面に東西に伸びている「竹内街道」に交差する形で南北に走っています。さらにその東になると「奈良街道」「上街道」などと呼ばれるようになるみたいですが、大きくいって近畿の南北方向の道は高野山をめざすか、奈良・桜井(明日香)を経て吉野を目指すかになるようです。その先は熊野・那智の深山ですが、これは信仰・修験の路となります。


上の図は『高野街道を歩く』(森下惠介著)に掲載の「高野街道と機内主要街道」という地図ですが、これだけの多くの道を無数の人が歩いていたのでしょう。この中で中央の太い線で記された道を見ると、堺を通る西高野街道と古市を通る東高野街道という2つが「河内長野」で合流しているのがわかります。合流した道は「紀見峠」という河内と紀州の間の峠を越えています。この峠が金剛山、葛城山を結ぶ紀州山稜に繋がっているのもよくわかります。


こうして大きく見てみると「堺」と「古市」に巨大古墳群が築かれ、その間を、横に竹内街道、縦に東西の高野街道が貫いているという構図が本当に興味深く思えてきます。関東地方にも、信仰や政治の中心地に向かう特定の道を「鎌倉街道」や「日光街道」「大山街道」といった言い方で呼んできた歴史があります。日本だけでなく、ヨーロッパの例を出せばローマの「アッピヤ旧街道」やスペインの「サンチャゴ巡礼道」などがあり、これは多分世界中にあります。


どこであれ、こうした古道を目にしたり実際に歩いてみたりするとき、私たちは、ほんの一瞬ですが、あわただしい現在にいることを忘れ、数百年、数千年の歴史の流れに入り込んだような気分になります。路傍に置かれた古い石造物や道標があればその趣はさらに深まります。


今回訪れた堺市は、そうした意味では、古代の古墳や旧街道から中世の国際貿易都市、幕末の緊迫した雰囲気までの重層的な時間を閉じ込めた不思議な場所で、しかも現在も工業・商業・観光の町としての活気と雰囲気を失っていないように見えます。



古墳めぐりの合間に、旧堺港の先端に建つ日本最古の様式木造灯台(明治10年建築で昭和40年代まで使用されていたようです。その後の修復で美しさをとりもどしています)や海岸の運河に架かる「南蛮橋」にたたずむ不思議な西洋人?、街の中心地の紀州街道に残る「鉄砲鍛冶屋敷」や中世に「東洋のベニス」とも称された自由都市の面影を伝えるいくつもの堀割やその跡など、近代化した堺の一歩下に埋もれた文化財を発見することが可能でした。




上に書いたように、近畿の古道マップ(上記『高野街道を歩く』)によると、東西の高野街道は「河内長野」で合流してから「紀見峠」を超え、高野山に向かうことがわかりました。今回、偶然ですがこの東西の古道をほんの少しですが歩きました。多分、来年になりますが、この道を通ってから高野山の「町石道」を登ってみたいと思っています。

世界遺産の古墳群2025年06月22日 15:31


大阪にある「百舌鳥(もず)・古市古墳群」といえば仁徳天皇陵(大仙古墳)や応神天皇陵など教科書でもおなじみの巨大古墳をはじめ大小有名な古墳が密集して点在し、その間を竹内街道や高野街道などのこれも日本有数の古街道が幾本も走っているという地域なので、機会があれば訪れてみたいと思っていました。


よりによって真夏のような暑さが続くとは思いませんでしたが、この6月中旬の3日間、気軽な一人旅でまわることができました。場所は堺市と羽曳野市さらに藤井寺市などを含む大阪府の西南地域で、かつて大阪湾に注いでいた大和川・飛鳥川をさかのぼって古代日本のヤマト王権の揺籃地に達することができ、さらに陸を行けば最古の官道である「竹内街道」の起点でもあります。


まずは、古墳のことから。百舌鳥古墳群の起点は大阪西北の大都市・堺からになります。初めての訪問ですが想像以上に大きな都市で、街の賑わいもその活気も相当なものです。まず、近鉄の「堺」と南海の「堺東」という大きな駅が2つあります。2つの駅の間には「大小路」という数百メートル続く広い道があり、これは「おおしょうじ」というんですが、室町時代からあるそうで、しかもこれが、大阪湾から明日香・奈良につながる日本最古の官道である「竹内街道」の起点にもなっているということで、なんとも関西の歴史の長さを実感させます。



その大小路・竹内街道を直進すると右側に22階建ての豪壮な堺市役所が地域を圧倒するように建っています。そのすぐ先は堺東駅です。この市役所の最上階が展望テラスになっていて眼前に仁徳天皇陵が見えるという触れ込みでしたので、さっそく登ってみるとにぎやかな小学生の集団に遭遇です。おそらく市内外の子供の参観場所なんでしょう(なお、仁徳天皇陵など宮内庁管轄の慕陵は学術的にはこう呼びませんが、地元はみんなそういいますのでそのままにします)。下を見ると確かに仁徳天皇陵がありますが、多くの巨大古墳がそうであるように全体に樹木が茂っていて周濠も見えないので、まるで大きな林が広がっているとしか見えません。ただし周囲がほとんど住宅でその中に緑の古墳だけが浮かんで見えますので、尋常でないその規模を体感することはできます。



この日、暑いことはわかっていましたので、堺駅前でレンタル自転車を借り、これで移動しました。実際の仁徳天皇陵はこの堺市役所前の竹内街道を500メートルほど進んだ右側に現れます。大きなビルが林立している現在では想像できませんが、改修以前の大和川も近くを流れていたそうなので、船上からも陸上からもこの巨大陵墓は圧倒的な迫力で見えたに違いありません。


現代の陵墓は、近くに行っても、鉄柵に囲まれてその陰から濁った内堀と繁茂した木々以外はよくわかりません。まずは隣接する公園(大仙公園)に入ってみましたが、これまた広く、10分くらい走り回ってから、長塚古墳という公園内の小さな古墳の前で休憩。小さいといっても周壕をめぐらせた前方後円墳です。公園内にはこの他にもいくつかの古墳があるようで、西南の端には仁徳天皇陵の3分の1くらいのサイズで、ほぼ同じ向きにつくられている履中天皇陵があります。


 巨大古墳は周囲を回るだけ


途中にあった茶店で、海風を感じながら少し休み、仁徳天皇陵の参拝所へ向かいます。古墳群中の天皇陵はこのように参拝所が設けられていて、ここから中へは入れません。参拝所でも古墳本体はほんの一部がみえるだけです(東京・八王子にある多摩御陵も同じ感じですが、大正・昭和天皇の墳丘は小型なので全体が見渡せます)。古墳の中は見えませんが、周囲には遊歩道が設けられていて一周をまわることができます。公園も古墳回りも、春か秋の季節のいいときに歩いてみたらとてもいいと思います。


さて、次は少し離れたニサンザイ古墳に向かいます。ニサンザイとは奇妙な呼び方ですが、地名ではなく、語源はよくわからないようです(反正天皇陵との伝承あり)。仁徳陵正面前の竹内街道から枝のように伸びている西高野街道を進んで右折した場所に、仁徳陵と90度回転した形態で現れます。この陵墓はその墳丘の形が世界遺産古墳群の中で一番美しいといわれるのですが、周囲の堀が広い溜池に拡大されているようで、一見すると海に囲まれた緑の島のように見えます(一番上の写真)。ここも樹木に覆われて墳丘は見えませんが、これだけでも他の古墳と比べて目の保養になります。


2日目の古市古墳群の中心地・古市には電車だと約40分ほどかかります。南下する途中の乗換駅「河内長野」も河内平野の古都で多くの遺跡が点在します。そこから金剛・葛城の山々を見ながら北上してようやく到着ですが、陸路の竹内街道はここまで直進しているので距離自体は意外に近いです。古市の駅前を通る道が竹内街道ですが、実はここまではあまり古道の雰囲気はありません。しかしこの駅から先に少し進むと次の辻に[左 大和路 右 大坂路」という道しるべが現れ、細く曲がりくねった街道の感じが出現します(写真は次の記事で)。


 地元の人は無関心?



古市古墳群の目玉は仁徳陵と並ぶ巨大古墳「応神天皇陵」です。ただ駅の近くではないので、ここでも自転車を借りて、車の通る現代の街道を走るしかありません。この日も暑い中、なんとか「応神天皇量」の方向に歩みだしますが、どうも仁徳陵のような表示版などが見当たりません。「河内ふるさと歩道」のコースになっているのですが、訪れるひとは少ないようです。ようやく発見した道しるべをたよりに参拝場所を見つけましたが、ここには周囲を回るきちんとした遊歩道も整備されていないようです。隣接して公園にもなっている隣の仲姫命(応神天皇皇后)陵のすぐ付近で場所を訪ねても犬を連れた若いご婦人は「行ったことがありません」というつれない返事。確かに住宅街の目立たない場所だったのですが、おりから大阪から来たというシニアの団体と遭遇し、お互い「暑い中ご苦労さん」と慰めあいました。


藤井寺駅方面にある「雄略天皇陵古墳」にも行きたかったのですが、古市に戻る必要があり断念。3時前、さすがに暑く、この日の午後は堺のホテルにもどって休憩、夕方に街を散策することにしました。