敵討ちで寺社巡りの謎2026年03月21日 14:06


われわれは今でも旅行や見学会というと、目的地でなくてもその行程の中にある有名な神社やお寺にお参りします。近くに出かけるときでも、ごみごみとした人出の多い場所や施設を敬遠するようになると、特に理由はなくともその地域の寺社にいくことがあります。現代人にとっては古い歴史や文化財・自然に触れるような思いがするからだと思います。昔のひとはどうだったかというと、江戸時代の名所絵図などを見ても、各所の風景や自然とともに神社仏閣をたずねてあるくということが多かったようです。ただしそこには明らかな時代による目的の違いがあるようです。


現代人は寺社に自然や清らかさ、静寂といった精神的な慰めの要素を求める割合が高いでしょう。しかし江戸以前の人たちにとっての寺社仏閣参りにはもっと切実で直接的な要望・願いがあったのではないでしょうか。例えば寺社の境内で定期的に開かれる縁日などの市場には普段購入できない工具や資材、珍しい食べ物を扱う屋台が並び、現代のデパートや専門店のような役割があったことが想像できます。これは1950年代くらいまで続いていたかもしれません。


さらに、これは現在ではほぼ「お遊び」の領域になってしまったような「占い・お神籤」や「お守り」の価値が想像以上に高かったことです。病気を直す医学が不十分で、広範なコミュニケーション手段も皆無の時代、不安を解消し、何かを求めるには寺社の神託にすがる以外にありませんでした。


もうひとつ、現在ではあまり意識されませんが、寺社地というは人々を引き寄せる特別の空間であったことです。人びとが自分の村や町を離れることは難しく、広範な地域を結ぶ交通機関もありませんでした。人々が集う日常的に出会う場所もありませんでした。そしてそこは同時に多くの情報が集まる場所でもあり、群れ集う人たちに訪ね、噂話に耳をすませば、現代人がテレビやネットで得るような情報が得られたに違いありません。


ひとが情報を求める必要性―そのもっとも切実なのが誘拐された子供や失踪した親兄弟の捜索そして犯罪者被害者による「犯人捜し」でしょう。森鷗外に『護持院原の敵討』という短い歴史小説があります。敵討は「かたきうち」と読み、仇討ち(あだうち)ともいいますが、江戸期には「主君や直接の尊属を殺害した者に対して個人的に復讐を行う日本の制度」とされ、武士には条件により公権力から正式に認めれていた行為です。しかし、この敵討の難しさはなにより目的の敵である人間をどう探し出すかという点にあります。警察力による捜索がない時代、どうのようにして目的の人間を探し出すのか。この小説には敵を探す旅で日本中を放浪するさまが描かれていますが、彼らがよりどころとしたのが各地のこうした神社仏閣でした。


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小説では、姫路城主酒井雅楽頭の江戸上邸の大金奉行、山本三右衛門が侵入した盗賊により殺害され、その息子と姫路にいた三右衛門の弟、賊の人相を知る町人の3人が仇討ちの許可を得て出発します。特にあてはなく、上州方面という噂により、まず高崎に向かいます。本文からその後の捜索を追ってみます。


結局、高崎(上州)では足跡が知れないので、前橋へ出ます。藤岡に出て、五六日いた。そこから武蔵国の境を越して、児玉村に三日いた。三峯山に登っては、三峯権現に祈願を籠めた。八王子を経て、甲斐国に入って、郡内、甲府を二日に廻って、身延山へ参詣した。信濃国では、上諏訪から和田峠を越えて、上田の善光寺に参った。越後国では、高田を三日、今町を二日、柏崎、長岡を一日、三条、新潟を四日で廻った。そこから加賀街道に転じて、越中国に入って、富山に三日いた。木曽路を太田に出た。尾張国では、犬山に一日、名古屋に四日いて、東海道を一宮に出て、佐屋を経て伊勢国に入り、桑名、四日市、津を廻り、松坂に三日いた。松坂を立って、武運を祈るために(伊勢神宮に)参宮した。それから関を経て、東海道を摂津国大阪に出て、ここに二十三日を費した。その間に松坂から便があって、紀州の定右衛門が伜の行末を心配して、気病で亡くなったと云う事を聞いた。それから西宮、兵庫を経て、播磨国に入り、明石から本国姫路に出て、魚町の旅宿に三日いた。それから備前国に入り、岡山を経て、下山から六月十六日の夜舟に乗って、いよいよ(噂をきいた)四国へ渡った。讃岐国丸亀に着いた。文吉に松尾を尋ねさせて置いて、二人は象頭山へ祈願に登った。すると参籠人が丸亀で一癖ありげな、他所者の若い僧を見たと云う話をした。が、それは別人であった。


伊予国の銅山は諸国の悪者の集まる所だと聞いて、一行は銅山を二日捜した。それから西条に二日、小春、今治に二日いて、松山から道後の温泉に出た。中大洲を二日捜して、八幡浜に出ると 舟は豊後国佐賀関に着いた。鶴崎を経て、肥後国に入り、阿蘇山の阿蘇神宮、熊本の清正公へ祈願に参って、熊本と高橋とを三日ずつ捜して、舟で肥前国島原に渡った。そこに二日いて、長崎へ出た。長崎で三日目に、敵らしい僧を島原で見たと云う話を聞いて、引き返して又島原を五日尋ねた。それから熊本を更に三日、宇土を二日、八代を一日、南工宿を二日尋ねて、再び舟で肥前国温泉嶽の下の港へ渡った。長崎行の舟に乗った。長崎を立って、大村に五日いて佐賀へ出た。筑後国では久留米を五日尋ねた。筑前国では大宰府天満宮に参詣して祈願を籠め、博多、福岡に二日いて、豊前国小倉から舟に乗って九州を離れた。


周防国宮市に二日いて、室積を経て、岩国の錦帯橋へ出た。そこを三日捜して、舟で安芸国宮島へ渡った。広島に八日いて、備後国に入り、尾の道、鞆に十七日、福山に二日いた。広岸山の神主谷口某と云うものが、怪しい非人の事を知らせてくれたので、九郎右衛門が文吉を見せに遣った。しかし敵ではなかった。姫路を立って、明石から舟に乗って、大阪へ追いかけて往った。それからは三人が摂津国屋を出て、木賃宿に起臥することになった。もうどこをさして往って見ようと云う所もないので、神仏の加護を念じながら、日ごとに市中を徘徊していた。ここで息子の宇平が精神に異常をきたして行方不明になる。宇平を尋ねて歩く際に玉造豊空稲荷の霊験の話を聞き、頼んでみると「敵は春頃から東国の繁華な土地にいる。宇平の事は御託宣が無い」と云った。こう云っている所へ、一行は江戸からの便りを受け取る。「浅草でそれと思しき男の消息がみつかった」というものである。その知らせを受けて急いで江戸にもどり、浅草寺から両国の花火の日に敵を見つけ、助太刀と江戸にいた娘のりよが加わって神田の護持院原(現在の錦町辺り)で仇をうちます。


最初の太刀で切りつけたのが女性(被害者の娘)だったことでこの仇討ちは江戸で有名になり、助太刀をした叔父山本九郎右衛門によって綴られた「山本復讐記」が残っています。森鷗外のこの小説もこの記録をもとにしているとみられます。


お分かりのように、江戸の事件ですが、関東から甲州、信濃、尾張、大阪、山口、四国、九州と全国各地を移動して各地の目付で様子をきいたりしますが、その間に、書いてあるだけでも、三峯権現、身延山、善光寺、一宮、伊勢神宮、象頭山、阿蘇神宮、熊本清正公、大宰府天満宮、安芸国宮島、玉造豊空稲荷その地の有名な寺社に参拝しています。先に言ったように、行楽ではなく人の集まる場所で様子をうかがいまた神託を受けてその後の捜索の参考にしているのです。最後の玉造豊空稲荷のお告げは結果的に的中していたことになりますが、逃亡というのも意外に常識的なものなのかもしれません。


上の絵は歌川豊国の『両国花火図』(江戸東京博物館ホームぺージより)。当時の賑わいがわかります。こうした中で必死で人探しをする者もいたのでしょう。事件の起きたのが天保4年(1833年)12月の年末、仇討ちが天保6年7月の夏なので1年半程の意外に短い期間にこれだけの距離を歩いていることになり、交通や通信の発達具合もわかります。

柳原通りの柳森神社2026年02月28日 12:32


JR秋葉原の駅から昭和通りを日本橋方向に向かって歩くとすぐに神田川の流れが見え、そこに架かるのが和泉橋です。以前の職場に近いこともあって、この付近はなじみの場所で、対岸の神田川の道を柳森通りということも知っていました。通りに置かれた地名掲示板に書かれていたからです。江戸の地形や歴史に興味を持つようになってからは、この通りが「江戸名所」だったこともわかって多少は注意していましたが、今回「まち歩き」で江戸城見附を順に回ることになり、最初に「浅草橋門」の跡を通って神田川沿いのこの通りを歩き始めているうちに「柳森神社」というこれも名所の古い神社があることを知りました。和泉橋から隅田川方面にほんの数分戻るだけなんですが、意外に知らない人も多いみたいで都会の中の見えざる文化財の多いことがここでも分かります。


この柳森通りは神田川の土手に柳の木を植えたことからはじまっていると思っていましたので、神社は当然その後に置かれたことになります。しかし社伝によれば 「室町時代に、太田道灌が江戸城東北方面の鬼門除けとして京都の伏見稲荷大社を勧請して創建した」ということになっています。すぐ先で隅田川に合流する神田川は江戸幕府の初期に駿河台の丘を開削してここに流れるようになったわけですので、どうも柳の森が先にあり、後になってから神田川堀割の際に現在地に移り、柳の木も堀の土手に移植されたということのようです。さらに時代がたち、徳川綱吉の生母・桂昌院が江戸城内に建立したといわれている福寿神祠が境内に置かれ、烏森神社と共に江戸三森の一社と呼ばれたとなっています。場所柄からしても日本橋に近く、船で浅草方面に簡単にいけますから、当時かなりの賑わいだったことが偲ばれます。神社のホームページに掲載された江戸名所図絵(下の絵)を見ると確かに柳の植えられた土手から川岸におりた場所に稲荷が鎮座しています。


今でも、実際におとずれると、参拝する人の列は多くありませんが、絶えませんし、決して忘れられた場所ではないようです。しかし、ほとんどの人が無関心なのは、メインの和泉橋通りからはずれ、しかも神田川の両岸には商業ビルやマンションが隙間なくたちならび、元の土手(通り)から一段低くほとんど見えないこの神社の存在感はあまり感じられません。「神田ふれあい橋」という小さな目印の先にある本当に小さな鉄の橋で川を横断すると、土手越しではありますが、神社の屋根が見えます(上の写真)が、この橋はほとんど目立ちません。




柳森通り(いわゆる土手)から神社境内を見ると確かに一段下がっているのがよくわかります。境内の一番奥にあるのが稲荷神社です。

鎌倉の古道「切通し」2026年01月30日 18:10


神奈川県の古都・鎌倉はかなり訪れています。。また、「鎌倉アルプス」と呼ばれる丘陵地のハイキングコースも2~3回は歩いています。その中で気になった「やぐら」についてはこのブログに記事を書いたことがありますが、鎌倉の地形の大きな特徴である「切通し道」については語る機会がありませんでした。今回、この切通し道のひとつである「名越の切通し」に行くことができました。連続する3つの溝状の古い道は、時代を経て変化しているとはいえ、中世の素朴な街道の雰囲気をそのままに残し、史跡の名にふさわしい保存状態だと思いました。


この切り通し道は、鎌倉の中心部から「平成の巡礼道」と呼ばれる衣張山の山道を越えて、三浦半島・逗子の海に通じる峠にあたります。現在、この下を横須賀線のトンネルが通っていますが、山越えの道に通じる傾斜は今でもかなりの急角度ですから、交通の要衝であると同時に軍事上でもかなり有効な「関所」の役割を果たしたことがわかります。ただ、以前の見学会で通った「朝夷奈切通し」では切り立った崖の中にいくつもの「やぐら」があったように思いますが、ここではあまり見ませんでした。



一般に言われるように、源頼朝が鎌倉に幕府を開いた大きな理由は、南は海に、北東西は山に囲まれ、敵の侵入を防ぎやすい地形だったからと言われています。江戸のように開けた場所では、敵の侵入を防ぐのは大河川や人工的な堀割です。平地の乏しい鎌倉では、物資運搬のために山などと切り開いて造った道=切通がそのまま城壁の役割を果たしたと思われます。この鎌倉の古道のなかでも、「名越切通し」と同様な「亀ヶ谷坂切通し」「化粧坂切通し」「巨福呂坂切通し」「大仏切通切通し」「極楽寺切通し」「朝夷奈切通」は鎌倉七口と呼ばれ、鎌倉と外部を結ぶ主要な要路でした。明治以降は車道として道路拡張が行われましたが、この名越の切通しのように一部の切通しは当時の古道の姿を残しています。歴史の街、鎌倉らしい景色を散策することができる場所として保存されているのは後世の人間にとってありがたいことです。


現在の鎌倉が、「風致保存地区」などの政策で、近代化が進む都市の中にこの切通しなど中世の自然や歴史景観を保存しようとしているのは評価できますが、住宅のすぐ隣に古びた寺院や樹林の中の古道が残されているため、道は狭く、道路の傾斜は急で、住むには大変かもしれません。また、聞くところでは外来種害獣の被害も大きいそうで、この日も住宅地を走るタイワンリスを数回目にし、山上の名刹・早川寺の本堂裏の崖ではアライグマの鳴き声を聞きました。

小田原城の「総構」とは2026年01月29日 13:07


年初に神奈川県の箱根と小田原を旅行したのですが、その中の半日、ひとりで小田原西部の丘陵地を歩き、気になっていた「小田原城総構(そうがまえ)」遺構を見学しました。総構とは、いわゆる戦国時代末期の豊臣秀吉の小田原攻めにさいして小田原北条氏がその防御として造成した全長9キロに及ぶという長大な土塁のことで、多くは失われてしまいましたが、西北部にはその痕跡が残り、中には深さ10メートルの巨大な堀切が連続して残っている場所もあります。最近になって小田原市がこの遺構の観光地化を図っているようで、現地に行くときれいな説明パネルも設置されています。まだ観光客は少ないかもしれませんが、この日も私を含めてそこにいた見学者(というより歴史マニア)はその規模の大きさに驚きました。


小田原駅西口からかなり急な坂道を登ると、20分足らずで、のどかなミカン畑の広がるなかこの総構の遺構が次々に現れます。この道は詩人・北原白秋の別邸があったことから「白秋の道」と呼ばれる散歩道ともほぼ重なっています。「稲荷森」(下の写真)と呼ばれる場所では、竹林として総構堀が残っており、「小峯御鐘ノ台大堀切」(上の写真)「山ノ神堀切」などの壮大な堀も現存します。


北条氏が敗れ、徳川の時代になると、現在も残る小田原駅近くの近世城郭だけが小田原城とされていますが、防御構造としてのこの大構は、江戸城における外堀のように城の一部分をなす重要なものだと思います。戦国時代最後の巨城とされる小田原城ですが、その建設の中で「総構」と呼ばれる壮大な土塁軍が建設されたということになります。


「天正14年(1586)、豊臣秀吉との対立が避けられない状況となったことで、決戦に向けて小田原城の普請が進められました。天正15年までには三の丸の丘陵部を囲郭する<三の丸新堀>が構築され、八幡山・天神山を囲う大規模な堀が完成します。


そして、天正16年(1588)、北条氏は豊臣秀吉の「天下惣無事令」を破り真田領であった名胡桃城(群馬県)を攻略、いよいよ豊臣秀吉との決戦の日が迫ります。小田原ではその頃より小田原城とその城下町を囲む壮大な堀と土塁の普請が始められます。これがこの総構です」(小田原市公式サイト)。



3ヶ月の籠城戦を可能にしたのは、言うまでもなくこの総構の存在があったからでしょう。また、この小田原合戦を契機とし、各地の城郭では総構が構築される事例が増えました。小田原合戦後、江戸時代以降もこの総構は小田原の町を守り区画する堀として用いられました。


都内の古代東海道と古道2026年01月10日 17:15


1月初めのまち歩きで「隅田川七福神めぐり」の企画を立て、その下見に浅草の対岸にある向島地区を訪れた時のこと。東部伊勢崎線・堀切駅から江戸下町の路地を思わせる道を歩いている途中、正福寺の隣に「首塚地蔵尊」という興味深い場所があることに気がつきました。説明には<首から上の病に効験があると言われている「首塚地蔵」。天保四年(1833年)隅田川橋場附近の浚渫工事の際に、川床よりたくさんの頭骨が発掘されました。関係者は正福寺と共に、合葬し碑をたてて、首塚といったと伝えられています>という記載があります。



さらに、実はこの地蔵堂のすぐ前を東西に横切る道は「古代東海道」とされ地図に記載されていることもわかりました。はるか古代、律令制の時代にここを通過した古道のコースが残っているのです(上)。ご覧のようになんてことない道で、もちろん、遺跡などはまったくありませんが、ここ隅田川左岸地区は武蔵と下総の国府を結ぶ古代東海道(奥州街道)の道筋で、平安時代から幹線道路が通過し、隅田の渡船場があったのです。伊勢物語の古歌や能曲の梅若山王権現の舞台にもなっています。震災、戦災で大激変した街ですが、道中にあるこの「首塚」は古代東海道筋の近隣でどんな惨劇があったのかは不明ですが、何かロマンの一端を感じさせます。


この古東海道については、品川の高輪地区を歩いた時に、江戸時代の海岸沿いの東海道より古い東海道筋が高輪地区を通っていることを知りましたが、最後はこの地を経て下総の国に繋がっていることを再認識しました。


東山道から東海道へ


群馬県(古代は上野国)から埼玉県北部を通って東京・府中まで通じる東山道武蔵道があったことは知られていますが、この東山道は奈良時代になって、都と東国を直接結ぶ東海道(国府経由ルート)に組み込まれます。さらに、8世紀末の宝亀二年(771)、それまで東山道に属していた武蔵国は東海道に属することになったのです(『続日本紀』に載せる太政官奏)



この古代東海道は江戸時代の5街道のひとつであり日本橋で終わる東海道とは異なり、相模国の夷参駅(座間市付近)から下総国までの経路でその間に四つの駅であったとされています(上の地図=多摩市史:東山道から東海道へ)。その中の豊島駅と井上駅の間にこの隅田地区があります。


古代の道はこの東海道だけでなく、東山道が失われた後も上野国と武蔵、下総、常陸、相模などの国を結ぶ道がいくつも存在しました。この隅田地区には隅田川の渡し場があり、東西を結ぶ交通の要衝でした。



古代東海道の近くにも南北方向、東西方向に古道があり、隅田川堤防に沿うこの道もそのひとつとして記録され、説明版が立てられています。現在の堤防には防災機能を備えr壁のような高層住宅が連なり、隅田川も見えす、道は一直線に伸びています。付近に残る古道の曲がりくねった路地と対照をなしています。

AIの時代2025年12月24日 16:49


数年前から日本も世界も「AIの時代」になっています。同じような「IT」という言葉がビジネスやハードウェア視線での(利用技術の)変革だったのに対して、今度は完全にコンピュータの本質の革命という感じがするところがかなり違います。

コンピュータの高度な情報処理機能についていうと、少し前は「人工頭脳」「人工知能」という厳かな日本語の言い方がありましたが、今はAIが一般的なようです。このなんでも使えそうな曖昧な呼び方になってからというもの、明けても暮れてもAIのことが出ない日はありません。特に2022年頃からChatGPTをはじめとした生成AIというシステムが登場してから、驚くべきスピードで経済、社会、教育、軍事など私たちの生活と仕事に浸透してきているようです。ようです、という曖昧な言い方ですみませんが、私自身の生活には実際にその恩恵も被害もほとんど関係ないからです。確かに何かの調べ物で、ネットの検索時にその片鱗に触れることはあります。それは自然言語で対話しながら、あたかも人間に質問するように操作することができるようになったことへの驚きです。これは以前の「単語の繋がりでの検索を繰り返す」手法にくらべて画期的です。しかも、生成A氏はかなり断定的な言い方というか自信にあふれた口調で結論を出しますので、それが正しいのだと信じてしまいます。事実はそうでないことがあるのは、現実の調査結果が絶対に正しくないのとほぼ同じです。


それは、その結果をもとにさらに別の視点(情報)を追加して、生成A氏を再追及していくことによってより正解に近づけることは可能かもしれませんが、これが本当に私たちの生活を豊かにするのかどうか、考えている間もなく、コンピュータサイエンスは進んでいくでしょう。何しろ、生成A自身が自ら知識を増やしていく機能(ディープラーニング)をもっているからです。どうも、人間の脳の神経回路を模した多層ニューラルネットワークを用いてデータから自動的に特徴を抽出・学習するのだそうで、人間の思考がそう簡単に模倣できるとは思えませんが、本当に実現すれば途方もない「人工頭脳」ができあがり、しかも日々進化し続けます。



ところで、フィクションの世界に目をやると、特にSF小説では、すでにこの「人工頭脳」が大活躍しています。ただし、ほとんどの場合、この、「人工頭脳」はある時、人間の支配をうけなくなり、あろうことか自分を創造した人間を排除しようとさえします。一番有名なのは1968年の叙事詩的SF映画『2001年宇宙の旅』(原題:2001: A Space Odyssey)という映画と小説に出てくる、人工知能「HAL9000」型コンピュータとの闘いではないでしょうか。この作品はSFの巨匠アーサー・クラークの原作(原案)をもとにスタンリー・キューブリックが映画化、さらにその後クラーク自身が小説を書き、いすれも評判を読んだ大作です(上の2つは作品の一画面)。
作品の中では「コンピュータとの闘い」は主要テーマではないと思いますが、全体を通して人間の意識の進化みたいなものが流れていますので、その中では非常に象徴的な役割が感じられます。人工知能「HAL9000」は木星に向かう宇宙船のすべてを管理する役目を追っているのですが、ここで人工知能でよく出てくる「命令されていない思考」あるいは「命令に忠実すぎる思考」を実行しようとして人間の乗員を排除しようとします。そこで船長のデヴィッド・ボーマンはなんとか難を逃れ、逆に「HAL9000」の思考回路を遮断します。


この映画のテーマ─人間(というか宇宙)の意識の誕生の神秘については、この作品だけでは結論が出ていません。その13年後の『2010年宇宙の旅』(現代:2010 Space Odyssey Two)で一応の疑問は解消されます。宇宙をただよう永遠の生命元素がある─しかしそれも最初は肉体を持った生物ということなので謎は持ち越されます。そして、もうひとつの謎─「HAL9000」の反逆についての説明はあまり明確でないように思えます。一応の説明は、「HAL9000」には木星に到達後に乗務員に知らされていない作業を実行する命令を与えられており、それが困難になった段階で思考回路に矛盾を生じ暴走を始めたというものです。先の「命令に忠実すぎる思考」ですね。こんなことは当然予想可能と思うのですが、よくある例として、自動運転の車が避けられない事故で歩行者AかBかを選ぶという究極の選択をしなければならない場面で、それを「人工頭脳」がどうするかという問題があります。「人工頭脳」はたとえ数百分の1でも助かる可能性を判断基準にするかもしれない。しかし、それが自分(運転者)と幼い子供との選択だったらどうなるか。そこまで基準をつくるのか。これは先の「HAL9000」の矛盾と同じような哲学的?な問題です。多分、最後は人間の判断はしないということになるんじゃないかと想像します。人間には一時の過ちを後悔して一生苦しむようなことがありますから。多分、AIは後悔しないと思います。


最近、このAIもそうですが、量子コンピュータや常温核融合、ナノレベル半導体などほとんど理解不可能な科学技術が生産の世界に入ってきました。子供のころのSF小説が実現しそうな勢いなので、なんともそれについていけそうでいけないあるいはついて行きたくないという不思議な気持ちがあります。科学技術の進歩には興奮する一方で、歴史も文化も自然も、できることなら変化しないでほしい。まことに混然とした心の中であります。


(上の写真は『2010年宇宙の旅』のカバー。右の人物がクラーク。この本(翻訳)の出版は1982年─2010年はもちろん2001年もはるか未来だった。一度は執筆をやめたクラークだがワードプロセッサによって意欲をとりもどしたと後書で述べている)


(生成AIは作曲もできます。これはある「YOUTUBE」の中に掲載されている楽曲です。ウクライナの戦局にかかわる番組ですが、その最後に、パロディというか風刺というか、さまざまなジャンル風の曲が流されます。 [「すまいと/Sumait」] )

江戸城の天守模型と清水門2025年12月15日 18:46


久しぶりに皇居の東御苑を散策しました。20年ぶりくらいになるかもしれません。来年2026年に数回に分けて江戸城の外郭(外堀)にある見附(門と枡形)を順に回るまち歩き企画があり、その予行みたいな感じで皇居内苑の景色や建築物を観察してくる一環でのことです。江戸城が「日本一のお城」であったころ、東御苑の場所には「本丸」と「二の丸」があり、本丸には天守台や有名な大奥を含む壮大な規模の建築群=本丸御殿がありましたが、今は一面の広大な芝生の広場とその北隅にこれも驚くような巨石をつらねた礎石のみが残る天守台跡があるだけです。この公園風でもあり遺跡跡風でもある空間は確かに江戸城の並外れたサイズ感を訪問者に示すには十分ですが、廃棄された城跡とはいえ、戦場になったわけでもなく、あまり歴史のにおいを感じさせる場所でないのが不思議な感じです。


一方、白鳥濠を挟んだ二の丸にも「二の丸御殿」があり、家光の世嗣・竹千代(四代将軍家綱)の住まいや、前将軍の側室が晩年過ごした屋敷が置かれていたらしいです。しかしこの場所も明暦の大火(1657)で破壊されてから、二の丸御殿ともども焼失と再建が繰り返され、江戸開城の直前、全焼しました。その後、紆余曲折を経て、第2次大戦後の昭和58年になってから園内の造成が行われ、現在は多くの落葉樹や下草類が植えられ、武蔵野の風景を残す雑木林になっています。これは昭和天皇の意志によるとされています(国民公園協会のホームページから)。この日も冬日の中でコナラやクヌギなどの紅葉が圧倒的でした。


東御苑には以前見られなかったものとして、本丸跡休憩所の隣に「江戸城天守閣の模型展示」があります。小さな小屋の中に置かれ、近くで見るとその精巧な出来栄えがわかります。美術品という観点でも充分な完成度を持っています。聞くところでは3Dプリンタを使い、総額で1億円の費用を要したといわれています。現代の最新機器とソフトウェアさらに職人の工芸技能を組み合わせたもので、永くここの名物になるでしょう。ただ、こうした新しい「文化財」は、確かに素晴らしいのですが、最初の印象が強烈で、2度目以降になると感動が失せるような気がします。




北桔橋門(きたはねばしもん)から東御苑を抜け、北の丸公園に向かうと、科学技術館の先で深い崖に遭遇します。崖の下は内堀=清水掘で、連続する牛が淵につながっています。さらに外堀=牛込門まで続くこの高い崖は自然地形で武蔵野台地の最終線であり、江戸城の防衛ラインでもあります。ここに造られた門は非常に守りに強そうです。清水門は当初からの形式を保ったまま江戸城に残る門と櫓で、さらに、城内への坂道・雁木坂も唯一当時のままです。現存する江戸期の門で重要文化財になっているのはこの清水門の他には田安門と外桜田門だけです。中でも人通りのすくない清水門は見学の穴場スポットです。

鐘楼2題2025年11月24日 18:21


 ・中世の風格─鑁阿寺


博物館友の会の「バス見学会」で、秋の一日、北関東を訪れ。太田市の山城─金山城と足利氏の足利氏居館(鑁阿寺=ばんなじ)、太田天神山古墳などを見学してきました。私が中心になっての見学会自体がここ数年ありませんでしたので、事前準備がけっこう大変でした。ただし、参加者30名の多くがいつもの「まち歩き」や「街道歩き」の参加者でしたので、あまり気も使わず、和気あいあいという感じでした。


今回、印象に残ったものにひとつが、足利氏館─鑁阿寺の鐘楼でした。本堂は国宝指定の建築物で見学者がほぼ全員訪れますが、すこし離れた場所にひっそりと立っているのが上の写真の鐘楼です。いわゆる鐘つき堂ですね。


「足利氏館」は、この地の豪族・2代足利義兼が12世紀末頃築造した「館」で国指定史跡です。中世豪族の居館のたたずまいを今日に残し、その規模はやや東西に長い不整方形状のおおむね2町四方。周囲に下幅8~10m、上幅2~2.5m、高さ2~3mの土塁と幅4~5mの濠がめぐり、土塁は設けず、見事な橋と門をが置かれています。日本100名城にも選定されています。


本堂は国宝ですが、この鐘楼もそれにおとらぬ重要文化財です。寺の伝承によれば、この鐘楼が建てられたのは、本堂と同じ建久7年(1196)だそうです。その後、再建されていますが、その時期はわかっていません。金網で塞がれているので中は全く見えないのですが、その中央に鐘が吊り下げられ、四方吹放しとなっています。ただし、鐘は江戸時代の天明鋳物の再鋳です。「木鼻(きばな)や斗栱(ときょう)をはじめ、建物の形状やそのつくり方など、全体に鎌倉時代の禅宗様建築の特色がよく現われている大変珍しく貴重な建物」(解説より)です。写真は、その部分がわかるように明暗を調整しています。


お寺の鐘楼なんてあまりじっくり見学することがありませんが、鑁阿寺のこの鐘楼は見ただけで古風で力強さを感じさせ、いかにも鎌倉時代や中世というものを実感させる建築物です。


・ 山上からの鐘の音─弘法山



その20日ほどあと、今度は地元山の会で神奈川県・秦野市の「弘法山」を訪れ、ここでもその頂上で「鐘楼」に出会いました。ただし、こちらの鐘楼は特に文化財指定などもなくかなり傷んだ様子でしたが、釣られている鐘は堅牢そうでした。いまでもその音を響かせているのではないかとも思われましたが「秦野市のホームページ記事」によると「時刻を知らせる『時の鐘』として、江戸時代から1956年(昭和31)まで秦野周辺地域の人々に親しまれてきた」そうで、今ではそれが鳴ることはないようです。また、1757年(宝暦7)に最初に鋳造されたものの、その後、火災に遭い、現在の鐘は1801年(享和元)に再鋳されたものだそうです。


戦時中、金属品として供出されそうになったところ地元の人々の強い反対で残されたということですから(同記事)この鐘もそれなりの歴史をたどっています。今では、山麓の大用寺に鐘楼門付きの立派な鐘があるようです。山頂から響けば本当に「山のお寺の鐘がなる」でした。


弘法山のあと、反対側に山を下りて参加者みんなで「ミカン狩り」を楽しみました。なんと、この場所は10月終わりにも家族で来た場所でしたが(もちろんその時は登山は無し)ミカン農園は別でした。

塩の道─昨年の続きを歩く 22025年11月13日 14:53


 2日目 木崎湖から白馬まで


朝、7時過ぎの大糸線に乗車して昨日の簗場駅まで移動します。この日は快晴の予報だったのですが、夜明け前から濃い霧が立ち込め、民家の屋根も濡れています。信濃大町駅の待合室で、家族を送りに来たらしい高齢男性に訪ねてみると「いつもこんなもの。寒いから霜がふる。今朝は零下2度だった」ということです。この日の東京ではまだ一桁の気温になっていないはずで、標高700メートルでも長野の山地は違うものです。下旬になると雪が降り出すのでしょう。


簗場の駅に降りても深い霧の中で、GPSを使わないと位置が分からないほどです。中綱湖という小さな湖の近くを歩いているうちにだんだん気温が上昇して霧も薄くなり、湖面から水蒸気のような霧があがり、遠くの湖岸の紅葉した木々も目に入るようになりました。ひと一安心です。あたりに人家も見え始めて、どう間違えたのか、歩いていたこの道は湖岸一周の市道のようです。おかげで働いている集落のひとと出会い、道を聞いたりできましたが、この日あった地元の人のほとんど全員から「クマに気をつけてください」といわれました。クマ被害の報道は私も聞いていましたが、この付近でもかなりひんぱんに「野外放送」されるようです。

 青木湖沿いの古道 たたずむ石仏


霧の中を迷いながら、中綱湖を過ぎ青木湖畔に到着しました。ここでも紅葉している木々の向こうの湖に立ち込める霧(ガス)を眺めながらの湖畔一周です。道は整備されていて快適ですが、途中のキャンプ場にも人影が見えず、湖岸まで迫るけわしい原生林の中はなんとなく不気味です。遠くから人の声が聞こえて、近づくと、山際につくられた公衆トイレのどこかでラジオが鳴っているのでした。気にもしなかったクマの存在が急に身近に感じられます。鈴も持っていますが、ここは大きな声で歌をうたって気分をあげました。道は一部、湖岸に出るルートがあり、釣りにでも来たのでしょうか、地元の人に「塩の道はあっち」と教えてもらいました。


湖の南岸に着いたあたりで、道が湖岸からやや山中に入ります。一帯はかなり太いスギ林になります。ここからが佐野峠とよばれ、古道の雰囲気を色濃く残している場所のようで、歩いていくと、路傍の木の陰に地蔵像がたたずみ、道を少しはずれた藪の中に菩薩菩薩像がまるで埋もれるように置かれています。どうやら観音札所のひとつになっているようで、ここを通った人々の心の有様を現している気がします。街道は古来そのままの道かと思いますが、道幅はかなり広く、牛や馬の隊列が通ったことが偲ばれます。


今ではこうして訪れるのはモノ好きな旅人だけでしょう。付近にはまったく人の気配がなく、山側の斜面林はアルプス前衛の千数百メートルの深い山に直接つながっています。私はのんきなのか、クマの恐怖もすぐに忘れて、実感として、実に気持ちのいい場所だと感じました。こういう経験ができるのもあと何年くらいだろうかと余計なことを考えてしまいます。


しかし、現代の白馬地区は観光の街でもあります。さらに旧道を進んでいくと巨大な構造物に遭遇しました。大糸線のトンネルです。この付近には旧道を残す余地がなかったのか(地図も)線路をまたいで進むようになっています。そこを過ぎると「白馬方面のスキー場」用のリフトも目に留まります。


途中で休憩後、さらに進んだ大糸線の踏切のあたりでちょうど保線工事をやっているらしい、2人連れの高齢の作業員と出会いました。電車は1時間に1本も通らない日本屈指のローカル路線なので作業員もヒマみたいで、すこし会話。ここでもクマの話がでました。


線路をわたって道がやや広い平地のほうに蛇行。そこで振り返ると、ここではじめて白い雪をかぶったアルプスの山々を眺めることができました。感動です。五竜岳から白馬岳までの峰々のようで、ここからはずっと、この山々が遠くに見えていました。近くの民家の方に聞くと雪はほんの数日前に降ったそうで、そういえば最初の日に見た鹿島槍ヶ岳はまだ白雪していなかったので、初雪の微妙な時期だったのかもしれません。旅人の私にはアルプスの白い峯はあこがれを誘いますが、土地の人々には雪の季節の到来でうれしくないのかもしれません。しかし、そこに登山やスキーなどの需要があり、清冽な水の流れがあるわけで、生活の質は簡単にいえません。

 はるかアルプスの積雪が見えました。


道はまた飯森駅付近で大糸線をまたいで山麓にもどり、山村を通り抜けます。飯森神社や十王堂に置かれたたくさんの石仏や庚申塔、道標が目につきます。これらはすべて街道のそこここに置かれてあったものでしょう。こうした多くの石造物がこの街道の特徴だと説明版に記してあります。近世から明治以後のわりと新しい年代表記が多いので、多分、昭和以降つい最近まで「塩の道」が使われてきたことを示しているようです。雪深い冬、一本の道の在りかを示すものはこうした道路の左右に置かれた石仏だったのではないかという想像が浮かびます。松本市の塩の道の出発点に「牛つなぎ石」なるものがありますが、道標だって利用したでしょう。



この付近から大糸線の西側山麓の平地が広く、その先のやや低い山陵、その向こうに雪をいだいた北アルプスの峰々が広がります。広大な大地の展望をゆっくり歩く中、「絶景五竜岳」というガイドブックの文字が目にとまりました。正面に雪をかぶった五竜岳とその北方の峰が一列に見える場所のようです。少し前に渡った橋の上からはさらに北方の白馬連峰も視界に入りました。この辺り白馬の語源となった「代掻き馬(しろかきうま)」の雪形が良く見えた場所のようで、確かに、かなりの豊かな耕地が広がっている地域です。


まもなく白馬の駅に到着。すでに午後2時を過ぎ、2日間の歩行で私の足もだいぶ疲れているようですので、ここで引き返すことにしました。残念ですが、大糸線の便数は極端に少なく、帰りのことを考えると、白馬で休んで戻ったほうがいいと考えたためです。しかし、白馬の駅の近くの店はほとんどが閉まっています。スキー客が来訪する冬まで観光客は少ないでしょう。かろうじて開いていた喫茶店で食事をして時間をつぶし信濃大町まで帰りました。実は、塩の道は、難関である「大峰峠越え」を含めて、ここからが本格的な山道になるのです、次回がもしあれば、今度は春、この駅から出発してみたいと思います。

塩の道─昨年の続きを歩く 12025年11月12日 16:50


   1日目 信濃大町から木崎湖まで


昨年9月の記事『爺が岳からフォッサマグナへ』と同12月の『フォッサマグナと塩の道』で書いた長野県松本と新潟県糸魚川を結ぶ古道である<千国街道─通称塩の道>の続きということで先日3日間の日程で旅行してきました(実質の歩きは1日半です)。この地方は、もう秋の終わりといいた感じで、町はずれの街道から見える北アルプスの山頂部には新雪が鮮やかで、蒼空の下、前景の山塊の紅葉とあいまって実に美しい景色の中を歩くことができました。これは残り少ない人生の珠玉のひと時でした。


3日間の予定で、最初の日はまず大糸線の「信濃大町駅」に到着。この時点ですでに正午前後になっていましたが、ここから午後いっぱいをかけて、できれば「白馬駅」くらいまで歩きたいという目標です。信濃大町駅のある大町市は<立山黒部アルペンルート>の中継地です。大きなホテルもあり、駅前通りは実に多くの商店が軒を連ねています。しかし、地方都市の典型で、その街中を歩いている人の姿がほとんど見あたりません。また、持参した地図(『塩の道トレイルガイド』)での予測と実際の道路の違いは大きく、最初の「追分道標」からしてなかなか見つかりません。そのほかの目標の神社や道標探しと見学にも時間をとられてなかなか歩みが進みません。それでも徐々に地図の読み方や本来の塩の道を探すのにも慣れてきて、この日の目標のひとつである木崎湖に到着した頃にはだいぶ歩くペースがわかってきました。



   追分道標は庚申塔

  ここまでの道はほぼ市街地から里山の景観ですが、これから青木湖へ向かうあたりから、街道は、整備された道をはずれて少し山側に入ったり出たりを繰り返していきます。これが本来の旧道だと思います。また、大町の市街を出ると、進行左方面ののアルプス前衛の多分標高1500メートルくらいと思われる山塊が迫り、その山肌が紅葉した樹々に覆われていのでようやく山地に入ったことを感じさせます。3000メートル級の北アルプスの山々はその向こうなので、見えてくるのはまだ少し先のようです。


気が付くのは街道の横の小さな水路とそこに流れる水のきれいでその量の多いこと。山々から流れ出る伏流水があふれ、谷間の川に流れ込んで大渓谷をつくるという地形がよくわかります。このほんの狭い土地に道路があり鉄道が走り、残りのわずかな隙間に人家と田畑が続く─日本中の山間地で見られる景観ですが、日本最大の山脈に沿って南北に百数キロ以上続くこの場所は特別です。




   「塩の道」の大部分はこんな感じの道です。
 


この日の中心は木崎湖、青木湖という山沿いの大きな湖をめぐる古道歩きです。木崎湖のほとりには集落や公園などがあり、釣り場などもあり、山里とはいえ明るい雰囲気です。その湖畔の公園で昼食を食べているときに、サイクリングをしている男性に出会いましたが、白馬に住んでいるそうで優雅な生活のようです。この街道を歩いている人にはこの他にまったく出会いませんでした。


道は、木崎湖の左岸を越えていきます。右に明るい湖、左には迫る急な崖、その間を縫う一本の道となります。それでも閉鎖されてはいますがキャンプ場もあり、なんと古城の跡も見られるなど人里離れた山中という感じではありません。総じてここまでの「塩の道」は一部を除いてすべての地点にかつての賑わいを感じさせる雰囲気が残っているようです。これが山中だけを歩く登山道との違いです。


木崎湖をすぎると、地図でも、旧道は舗装された本道と交差あるいは一部は重複するようなルートになっています。山際ぎりぎりまで湖が迫り、一部はトンネルですが大糸線の線路が通り、さらに車の通る2車線の国道があるのですから、もうここに旧街道の跡を残す余裕がなかったのでしょうか。それでもちょっとした平地には人家があり水田がつくられています。



次が青木湖で、湖畔にはさらに険しい山肌が迫っています。その中のやや高所をくねって通る街道は暗い杉木立のようです。ここからが良い感じの街道歩きなのですが、残念なことに時刻も遅くなってきましたので、ここで一番近い「簗場」という駅から、信濃大町にもどることにしました。正午前後からの歩きでしたからしかたありませんが、白馬駅までいくという目標にはるかにおよびません。しかし、無理するつもりはないので無人駅でしばし休憩です。戻った信濃大町駅で暗い中、マーケットまで買い物に出かけました。宿泊はホテルルートインです。