都内の古代東海道と古道 ― 2026年01月10日 17:15
1月初めのまち歩きで「隅田川七福神めぐり」の企画を立て、その下見に浅草の対岸にある向島地区を訪れた時のこと。東部伊勢崎線・堀切駅から江戸下町の路地を思わせる道を歩いている途中、正福寺の隣に「首塚地蔵尊」という興味深い場所があることに気がつきました。説明には<首から上の病に効験があると言われている「首塚地蔵」。天保四年(1833年)隅田川橋場附近の浚渫工事の際に、川床よりたくさんの頭骨が発掘されました。関係者は正福寺と共に、合葬し碑をたてて、首塚といったと伝えられています>という記載があります。
さらに、実はこの地蔵堂のすぐ前を東西に横切る道は「古代東海道」とされ地図に記載されていることもわかりました。はるか古代、律令制の時代にここを通過した古道のコースが残っているのです(上)。ご覧のようになんてことない道で、もちろん、遺跡などはまったくありませんが、ここ隅田川左岸地区は武蔵と下総の国府を結ぶ古代東海道(奥州街道)の道筋で、平安時代から幹線道路が通過し、隅田の渡船場があったのです。伊勢物語の古歌や能曲の梅若山王権現の舞台にもなっています。震災、戦災で大激変した街ですが、道中にあるこの「首塚」は古代東海道筋の近隣でどんな惨劇があったのかは不明ですが、何かロマンの一端を感じさせます。
この古東海道については、品川の高輪地区を歩いた時に、江戸時代の海岸沿いの東海道より古い東海道筋が高輪地区を通っていることを知りましたが、最後はこの地を経て下総の国に繋がっていることを再認識しました。
東山道から東海道へ
群馬県(古代は上野国)から埼玉県北部を通って東京・府中まで通じる東山道武蔵道があったことは知られていますが、この東山道は奈良時代になって、都と東国を直接結ぶ東海道(国府経由ルート)に組み込まれます。さらに、8世紀末の宝亀二年(771)、それまで東山道に属していた武蔵国は東海道に属することになったのです(『続日本紀』に載せる太政官奏)
この古代東海道は江戸時代の5街道のひとつであり日本橋で終わる東海道とは異なり、相模国の夷参駅(座間市付近)から下総国までの経路でその間に四つの駅であったとされています(上の地図=多摩市史:東山道から東海道へ)。その中の豊島駅と井上駅の間にこの隅田地区があります。
古代の道はこの東海道だけでなく、東山道が失われた後も上野国と武蔵、下総、常陸、相模などの国を結ぶ道がいくつも存在しました。この隅田地区には隅田川の渡し場があり、東西を結ぶ交通の要衝でした。
古代東海道の近くにも南北方向、東西方向に古道があり、隅田川堤防に沿うこの道もそのひとつとして記録され、説明版が立てられています。現在の堤防には防災機能を備えr壁のような高層住宅が連なり、隅田川も見えす、道は一直線に伸びています。付近に残る古道の曲がりくねった路地と対照をなしています。
AIの時代 ― 2025年12月24日 16:49
数年前から日本も世界も「AIの時代」になっています。同じような「IT」という言葉がビジネスやハードウェア視線での(利用技術の)変革だったのに対して、今度は完全にコンピュータの本質の革命という感じがするところがかなり違います。
コンピュータの高度な情報処理機能についていうと、少し前は「人工頭脳」「人工知能」という厳かな日本語の言い方がありましたが、今はAIが一般的なようです。このなんでも使えそうな曖昧な呼び方になってからというもの、明けても暮れてもAIのことが出ない日はありません。特に2022年頃からChatGPTをはじめとした生成AIというシステムが登場してから、驚くべきスピードで経済、社会、教育、軍事など私たちの生活と仕事に浸透してきているようです。ようです、という曖昧な言い方ですみませんが、私自身の生活には実際にその恩恵も被害もほとんど関係ないからです。確かに何かの調べ物で、ネットの検索時にその片鱗に触れることはあります。それは自然言語で対話しながら、あたかも人間に質問するように操作することができるようになったことへの驚きです。これは以前の「単語の繋がりでの検索を繰り返す」手法にくらべて画期的です。しかも、生成A氏はかなり断定的な言い方というか自信にあふれた口調で結論を出しますので、それが正しいのだと信じてしまいます。事実はそうでないことがあるのは、現実の調査結果が絶対に正しくないのとほぼ同じです。
それは、その結果をもとにさらに別の視点(情報)を追加して、生成A氏を再追及していくことによってより正解に近づけることは可能かもしれませんが、これが本当に私たちの生活を豊かにするのかどうか、考えている間もなく、コンピュータサイエンスは進んでいくでしょう。何しろ、生成A自身が自ら知識を増やしていく機能(ディープラーニング)をもっているからです。どうも、人間の脳の神経回路を模した多層ニューラルネットワークを用いてデータから自動的に特徴を抽出・学習するのだそうで、人間の思考がそう簡単に模倣できるとは思えませんが、本当に実現すれば途方もない「人工頭脳」ができあがり、しかも日々進化し続けます。
ところで、フィクションの世界に目をやると、特にSF小説では、すでにこの「人工頭脳」が大活躍しています。ただし、ほとんどの場合、この、「人工頭脳」はある時、人間の支配をうけなくなり、あろうことか自分を創造した人間を排除しようとさえします。一番有名なのは1968年の叙事詩的SF映画『2001年宇宙の旅』(原題:2001: A Space Odyssey)という映画と小説に出てくる、人工知能「HAL9000」型コンピュータとの闘いではないでしょうか。この作品はSFの巨匠アーサー・クラークの原作(原案)をもとにスタンリー・キューブリックが映画化、さらにその後クラーク自身が小説を書き、いすれも評判を読んだ大作です(上の2つは作品の一画面)。
作品の中では「コンピュータとの闘い」は主要テーマではないと思いますが、全体を通して人間の意識の進化みたいなものが流れていますので、その中では非常に象徴的な役割が感じられます。人工知能「HAL9000」は木星に向かう宇宙船のすべてを管理する役目を追っているのですが、ここで人工知能でよく出てくる「命令されていない思考」あるいは「命令に忠実すぎる思考」を実行しようとして人間の乗員を排除しようとします。そこで船長のデヴィッド・ボーマンはなんとか難を逃れ、逆に「HAL9000」の思考回路を遮断します。
この映画のテーマ─人間(というか宇宙)の意識の誕生の神秘については、この作品だけでは結論が出ていません。その13年後の『2010年宇宙の旅』(現代:2010 Space Odyssey Two)で一応の疑問は解消されます。宇宙をただよう永遠の生命元素がある─しかしそれも最初は肉体を持った生物ということなので謎は持ち越されます。そして、もうひとつの謎─「HAL9000」の反逆についての説明はあまり明確でないように思えます。一応の説明は、「HAL9000」には木星に到達後に乗務員に知らされていない作業を実行する命令を与えられており、それが困難になった段階で思考回路に矛盾を生じ暴走を始めたというものです。先の「命令に忠実すぎる思考」ですね。こんなことは当然予想可能と思うのですが、よくある例として、自動運転の車が避けられない事故で歩行者AかBかを選ぶという究極の選択をしなければならない場面で、それを「人工頭脳」がどうするかという問題があります。「人工頭脳」はたとえ数百分の1でも助かる可能性を判断基準にするかもしれない。しかし、それが自分(運転者)と幼い子供との選択だったらどうなるか。そこまで基準をつくるのか。これは先の「HAL9000」の矛盾と同じような哲学的?な問題です。多分、最後は人間の判断はしないということになるんじゃないかと想像します。人間には一時の過ちを後悔して一生苦しむようなことがありますから。多分、AIは後悔しないと思います。
最近、このAIもそうですが、量子コンピュータや常温核融合、ナノレベル半導体などほとんど理解不可能な科学技術が生産の世界に入ってきました。子供のころのSF小説が実現しそうな勢いなので、なんともそれについていけそうでいけないあるいはついて行きたくないという不思議な気持ちがあります。科学技術の進歩には興奮する一方で、歴史も文化も自然も、できることなら変化しないでほしい。まことに混然とした心の中であります。
(上の写真は『2010年宇宙の旅』のカバー。右の人物がクラーク。この本(翻訳)の出版は1982年─2010年はもちろん2001年もはるか未来だった。一度は執筆をやめたクラークだがワードプロセッサによって意欲をとりもどしたと後書で述べている)
(生成AIは作曲もできます。これはある「YOUTUBE」の中に掲載されている楽曲です。ウクライナの戦局にかかわる番組ですが、その最後に、パロディというか風刺というか、さまざまなジャンル風の曲が流されます。
[「すまいと/Sumait」] )
江戸城の天守模型と清水門 ― 2025年12月15日 18:46
久しぶりに皇居の東御苑を散策しました。20年ぶりくらいになるかもしれません。来年2026年に数回に分けて江戸城の外郭(外堀)にある見附(門と枡形)を順に回るまち歩き企画があり、その予行みたいな感じで皇居内苑の景色や建築物を観察してくる一環でのことです。江戸城が「日本一のお城」であったころ、東御苑の場所には「本丸」と「二の丸」があり、本丸には天守台や有名な大奥を含む壮大な規模の建築群=本丸御殿がありましたが、今は一面の広大な芝生の広場とその北隅にこれも驚くような巨石をつらねた礎石のみが残る天守台跡があるだけです。この公園風でもあり遺跡跡風でもある空間は確かに江戸城の並外れたサイズ感を訪問者に示すには十分ですが、廃棄された城跡とはいえ、戦場になったわけでもなく、あまり歴史のにおいを感じさせる場所でないのが不思議な感じです。
一方、白鳥濠を挟んだ二の丸にも「二の丸御殿」があり、家光の世嗣・竹千代(四代将軍家綱)の住まいや、前将軍の側室が晩年過ごした屋敷が置かれていたらしいです。しかしこの場所も明暦の大火(1657)で破壊されてから、二の丸御殿ともども焼失と再建が繰り返され、江戸開城の直前、全焼しました。その後、紆余曲折を経て、第2次大戦後の昭和58年になってから園内の造成が行われ、現在は多くの落葉樹や下草類が植えられ、武蔵野の風景を残す雑木林になっています。これは昭和天皇の意志によるとされています(国民公園協会のホームページから)。この日も冬日の中でコナラやクヌギなどの紅葉が圧倒的でした。
東御苑には以前見られなかったものとして、本丸跡休憩所の隣に「江戸城天守閣の模型展示」があります。小さな小屋の中に置かれ、近くで見るとその精巧な出来栄えがわかります。美術品という観点でも充分な完成度を持っています。聞くところでは3Dプリンタを使い、総額で1億円の費用を要したといわれています。現代の最新機器とソフトウェアさらに職人の工芸技能を組み合わせたもので、永くここの名物になるでしょう。ただ、こうした新しい「文化財」は、確かに素晴らしいのですが、最初の印象が強烈で、2度目以降になると感動が失せるような気がします。
北桔橋門(きたはねばしもん)から東御苑を抜け、北の丸公園に向かうと、科学技術館の先で深い崖に遭遇します。崖の下は内堀=清水掘で、連続する牛が淵につながっています。さらに外堀=牛込門まで続くこの高い崖は自然地形で武蔵野台地の最終線であり、江戸城の防衛ラインでもあります。ここに造られた門は非常に守りに強そうです。清水門は当初からの形式を保ったまま江戸城に残る門と櫓で、さらに、城内への坂道・雁木坂も唯一当時のままです。現存する江戸期の門で重要文化財になっているのはこの清水門の他には田安門と外桜田門だけです。中でも人通りのすくない清水門は見学の穴場スポットです。
鐘楼2題 ― 2025年11月24日 18:21
・中世の風格─鑁阿寺
博物館友の会の「バス見学会」で、秋の一日、北関東を訪れ。太田市の山城─金山城と足利氏の足利氏居館(鑁阿寺=ばんなじ)、太田天神山古墳などを見学してきました。私が中心になっての見学会自体がここ数年ありませんでしたので、事前準備がけっこう大変でした。ただし、参加者30名の多くがいつもの「まち歩き」や「街道歩き」の参加者でしたので、あまり気も使わず、和気あいあいという感じでした。
今回、印象に残ったものにひとつが、足利氏館─鑁阿寺の鐘楼でした。本堂は国宝指定の建築物で見学者がほぼ全員訪れますが、すこし離れた場所にひっそりと立っているのが上の写真の鐘楼です。いわゆる鐘つき堂ですね。
「足利氏館」は、この地の豪族・2代足利義兼が12世紀末頃築造した「館」で国指定史跡です。中世豪族の居館のたたずまいを今日に残し、その規模はやや東西に長い不整方形状のおおむね2町四方。周囲に下幅8~10m、上幅2~2.5m、高さ2~3mの土塁と幅4~5mの濠がめぐり、土塁は設けず、見事な橋と門をが置かれています。日本100名城にも選定されています。
本堂は国宝ですが、この鐘楼もそれにおとらぬ重要文化財です。寺の伝承によれば、この鐘楼が建てられたのは、本堂と同じ建久7年(1196)だそうです。その後、再建されていますが、その時期はわかっていません。金網で塞がれているので中は全く見えないのですが、その中央に鐘が吊り下げられ、四方吹放しとなっています。ただし、鐘は江戸時代の天明鋳物の再鋳です。「木鼻(きばな)や斗栱(ときょう)をはじめ、建物の形状やそのつくり方など、全体に鎌倉時代の禅宗様建築の特色がよく現われている大変珍しく貴重な建物」(解説より)です。写真は、その部分がわかるように明暗を調整しています。
お寺の鐘楼なんてあまりじっくり見学することがありませんが、鑁阿寺のこの鐘楼は見ただけで古風で力強さを感じさせ、いかにも鎌倉時代や中世というものを実感させる建築物です。
・ 山上からの鐘の音─弘法山
その20日ほどあと、今度は地元山の会で神奈川県・秦野市の「弘法山」を訪れ、ここでもその頂上で「鐘楼」に出会いました。ただし、こちらの鐘楼は特に文化財指定などもなくかなり傷んだ様子でしたが、釣られている鐘は堅牢そうでした。いまでもその音を響かせているのではないかとも思われましたが「秦野市のホームページ記事」によると「時刻を知らせる『時の鐘』として、江戸時代から1956年(昭和31)まで秦野周辺地域の人々に親しまれてきた」そうで、今ではそれが鳴ることはないようです。また、1757年(宝暦7)に最初に鋳造されたものの、その後、火災に遭い、現在の鐘は1801年(享和元)に再鋳されたものだそうです。
戦時中、金属品として供出されそうになったところ地元の人々の強い反対で残されたということですから(同記事)この鐘もそれなりの歴史をたどっています。今では、山麓の大用寺に鐘楼門付きの立派な鐘があるようです。山頂から響けば本当に「山のお寺の鐘がなる」でした。
弘法山のあと、反対側に山を下りて参加者みんなで「ミカン狩り」を楽しみました。なんと、この場所は10月終わりにも家族で来た場所でしたが(もちろんその時は登山は無し)ミカン農園は別でした。
塩の道─昨年の続きを歩く 2 ― 2025年11月13日 14:53
2日目 木崎湖から白馬まで
朝、7時過ぎの大糸線に乗車して昨日の簗場駅まで移動します。この日は快晴の予報だったのですが、夜明け前から濃い霧が立ち込め、民家の屋根も濡れています。信濃大町駅の待合室で、家族を送りに来たらしい高齢男性に訪ねてみると「いつもこんなもの。寒いから霜がふる。今朝は零下2度だった」ということです。この日の東京ではまだ一桁の気温になっていないはずで、標高700メートルでも長野の山地は違うものです。下旬になると雪が降り出すのでしょう。
簗場の駅に降りても深い霧の中で、GPSを使わないと位置が分からないほどです。中綱湖という小さな湖の近くを歩いているうちにだんだん気温が上昇して霧も薄くなり、湖面から水蒸気のような霧があがり、遠くの湖岸の紅葉した木々も目に入るようになりました。ひと一安心です。あたりに人家も見え始めて、どう間違えたのか、歩いていたこの道は湖岸一周の市道のようです。おかげで働いている集落のひとと出会い、道を聞いたりできましたが、この日あった地元の人のほとんど全員から「クマに気をつけてください」といわれました。クマ被害の報道は私も聞いていましたが、この付近でもかなりひんぱんに「野外放送」されるようです。
霧の中を迷いながら、中綱湖を過ぎ青木湖畔に到着しました。ここでも紅葉している木々の向こうの湖に立ち込める霧(ガス)を眺めながらの湖畔一周です。道は整備されていて快適ですが、途中のキャンプ場にも人影が見えず、湖岸まで迫るけわしい原生林の中はなんとなく不気味です。遠くから人の声が聞こえて、近づくと、山際につくられた公衆トイレのどこかでラジオが鳴っているのでした。気にもしなかったクマの存在が急に身近に感じられます。鈴も持っていますが、ここは大きな声で歌をうたって気分をあげました。道は一部、湖岸に出るルートがあり、釣りにでも来たのでしょうか、地元の人に「塩の道はあっち」と教えてもらいました。
湖の南岸に着いたあたりで、道が湖岸からやや山中に入ります。一帯はかなり太いスギ林になります。ここからが佐野峠とよばれ、古道の雰囲気を色濃く残している場所のようで、歩いていくと、路傍の木の陰に地蔵像がたたずみ、道を少しはずれた藪の中に菩薩菩薩像がまるで埋もれるように置かれています。どうやら観音札所のひとつになっているようで、ここを通った人々の心の有様を現している気がします。街道は古来そのままの道かと思いますが、道幅はかなり広く、牛や馬の隊列が通ったことが偲ばれます。
今ではこうして訪れるのはモノ好きな旅人だけでしょう。付近にはまったく人の気配がなく、山側の斜面林はアルプス前衛の千数百メートルの深い山に直接つながっています。私はのんきなのか、クマの恐怖もすぐに忘れて、実感として、実に気持ちのいい場所だと感じました。こういう経験ができるのもあと何年くらいだろうかと余計なことを考えてしまいます。
しかし、現代の白馬地区は観光の街でもあります。さらに旧道を進んでいくと巨大な構造物に遭遇しました。大糸線のトンネルです。この付近には旧道を残す余地がなかったのか(地図も)線路をまたいで進むようになっています。そこを過ぎると「白馬方面のスキー場」用のリフトも目に留まります。
途中で休憩後、さらに進んだ大糸線の踏切のあたりでちょうど保線工事をやっているらしい、2人連れの高齢の作業員と出会いました。電車は1時間に1本も通らない日本屈指のローカル路線なので作業員もヒマみたいで、すこし会話。ここでもクマの話がでました。
線路をわたって道がやや広い平地のほうに蛇行。そこで振り返ると、ここではじめて白い雪をかぶったアルプスの山々を眺めることができました。感動です。五竜岳から白馬岳までの峰々のようで、ここからはずっと、この山々が遠くに見えていました。近くの民家の方に聞くと雪はほんの数日前に降ったそうで、そういえば最初の日に見た鹿島槍ヶ岳はまだ白雪していなかったので、初雪の微妙な時期だったのかもしれません。旅人の私にはアルプスの白い峯はあこがれを誘いますが、土地の人々には雪の季節の到来でうれしくないのかもしれません。しかし、そこに登山やスキーなどの需要があり、清冽な水の流れがあるわけで、生活の質は簡単にいえません。
道はまた飯森駅付近で大糸線をまたいで山麓にもどり、山村を通り抜けます。飯森神社や十王堂に置かれたたくさんの石仏や庚申塔、道標が目につきます。これらはすべて街道のそこここに置かれてあったものでしょう。こうした多くの石造物がこの街道の特徴だと説明版に記してあります。近世から明治以後のわりと新しい年代表記が多いので、多分、昭和以降つい最近まで「塩の道」が使われてきたことを示しているようです。雪深い冬、一本の道の在りかを示すものはこうした道路の左右に置かれた石仏だったのではないかという想像が浮かびます。松本市の塩の道の出発点に「牛つなぎ石」なるものがありますが、道標だって利用したでしょう。
この付近から大糸線の西側山麓の平地が広く、その先のやや低い山陵、その向こうに雪をいだいた北アルプスの峰々が広がります。広大な大地の展望をゆっくり歩く中、「絶景五竜岳」というガイドブックの文字が目にとまりました。正面に雪をかぶった五竜岳とその北方の峰が一列に見える場所のようです。少し前に渡った橋の上からはさらに北方の白馬連峰も視界に入りました。この辺り白馬の語源となった「代掻き馬(しろかきうま)」の雪形が良く見えた場所のようで、確かに、かなりの豊かな耕地が広がっている地域です。
まもなく白馬の駅に到着。すでに午後2時を過ぎ、2日間の歩行で私の足もだいぶ疲れているようですので、ここで引き返すことにしました。残念ですが、大糸線の便数は極端に少なく、帰りのことを考えると、白馬で休んで戻ったほうがいいと考えたためです。しかし、白馬の駅の近くの店はほとんどが閉まっています。スキー客が来訪する冬まで観光客は少ないでしょう。かろうじて開いていた喫茶店で食事をして時間をつぶし信濃大町まで帰りました。実は、塩の道は、難関である「大峰峠越え」を含めて、ここからが本格的な山道になるのです、次回がもしあれば、今度は春、この駅から出発してみたいと思います。
塩の道─昨年の続きを歩く 1 ― 2025年11月12日 16:50
1日目 信濃大町から木崎湖まで
昨年9月の記事『爺が岳からフォッサマグナへ』と同12月の『フォッサマグナと塩の道』で書いた長野県松本と新潟県糸魚川を結ぶ古道である<千国街道─通称塩の道>の続きということで先日3日間の日程で旅行してきました(実質の歩きは1日半です)。この地方は、もう秋の終わりといいた感じで、町はずれの街道から見える北アルプスの山頂部には新雪が鮮やかで、蒼空の下、前景の山塊の紅葉とあいまって実に美しい景色の中を歩くことができました。これは残り少ない人生の珠玉のひと時でした。
3日間の予定で、最初の日はまず大糸線の「信濃大町駅」に到着。この時点ですでに正午前後になっていましたが、ここから午後いっぱいをかけて、できれば「白馬駅」くらいまで歩きたいという目標です。信濃大町駅のある大町市は<立山黒部アルペンルート>の中継地です。大きなホテルもあり、駅前通りは実に多くの商店が軒を連ねています。しかし、地方都市の典型で、その街中を歩いている人の姿がほとんど見あたりません。また、持参した地図(『塩の道トレイルガイド』)での予測と実際の道路の違いは大きく、最初の「追分道標」からしてなかなか見つかりません。そのほかの目標の神社や道標探しと見学にも時間をとられてなかなか歩みが進みません。それでも徐々に地図の読み方や本来の塩の道を探すのにも慣れてきて、この日の目標のひとつである木崎湖に到着した頃にはだいぶ歩くペースがわかってきました。
追分道標は庚申塔
ここまでの道はほぼ市街地から里山の景観ですが、これから青木湖へ向かうあたりから、街道は、整備された道をはずれて少し山側に入ったり出たりを繰り返していきます。これが本来の旧道だと思います。また、大町の市街を出ると、進行左方面ののアルプス前衛の多分標高1500メートルくらいと思われる山塊が迫り、その山肌が紅葉した樹々に覆われていのでようやく山地に入ったことを感じさせます。3000メートル級の北アルプスの山々はその向こうなので、見えてくるのはまだ少し先のようです。
気が付くのは街道の横の小さな水路とそこに流れる水のきれいでその量の多いこと。山々から流れ出る伏流水があふれ、谷間の川に流れ込んで大渓谷をつくるという地形がよくわかります。このほんの狭い土地に道路があり鉄道が走り、残りのわずかな隙間に人家と田畑が続く─日本中の山間地で見られる景観ですが、日本最大の山脈に沿って南北に百数キロ以上続くこの場所は特別です。
「塩の道」の大部分はこんな感じの道です。
この日の中心は木崎湖、青木湖という山沿いの大きな湖をめぐる古道歩きです。木崎湖のほとりには集落や公園などがあり、釣り場などもあり、山里とはいえ明るい雰囲気です。その湖畔の公園で昼食を食べているときに、サイクリングをしている男性に出会いましたが、白馬に住んでいるそうで優雅な生活のようです。この街道を歩いている人にはこの他にまったく出会いませんでした。
道は、木崎湖の左岸を越えていきます。右に明るい湖、左には迫る急な崖、その間を縫う一本の道となります。それでも閉鎖されてはいますがキャンプ場もあり、なんと古城の跡も見られるなど人里離れた山中という感じではありません。総じてここまでの「塩の道」は一部を除いてすべての地点にかつての賑わいを感じさせる雰囲気が残っているようです。これが山中だけを歩く登山道との違いです。
木崎湖をすぎると、地図でも、旧道は舗装された本道と交差あるいは一部は重複するようなルートになっています。山際ぎりぎりまで湖が迫り、一部はトンネルですが大糸線の線路が通り、さらに車の通る2車線の国道があるのですから、もうここに旧街道の跡を残す余裕がなかったのでしょうか。それでもちょっとした平地には人家があり水田がつくられています。
次が青木湖で、湖畔にはさらに険しい山肌が迫っています。その中のやや高所をくねって通る街道は暗い杉木立のようです。ここからが良い感じの街道歩きなのですが、残念なことに時刻も遅くなってきましたので、ここで一番近い「簗場」という駅から、信濃大町にもどることにしました。正午前後からの歩きでしたからしかたありませんが、白馬駅までいくという目標にはるかにおよびません。しかし、無理するつもりはないので無人駅でしばし休憩です。戻った信濃大町駅で暗い中、マーケットまで買い物に出かけました。宿泊はホテルルートインです。
古綾瀬川の最終地点 ― 2025年10月20日 13:44
何回か前の記事<綾瀬川の起点─備前堤>で、埼玉県東部を流れる綾瀬川の変遷とその結果としての荒川との分離さらに桶川市付近での河川の締切りと始まりことを掲載しました。こうして現在の綾瀬川は思わぬ場所が起点になり、埼玉県東部平野をゆっくり流れ下って東京都にいたり、足立区綾瀬付近で隅田川に合流するという中小河川になりました。
この綾瀬川は、江戸時代初期の瀬替という大変化のあとも、寛永年間(1624から1644年)に幕府による改修が続き、現在の草加市付近を一直線に流れる流路が開削され、これが現在の綾瀬川本流になっています。そして、残された旧河道は草加市金明町付近で締め切られた古綾瀬川になっています(草加市史など)。これにより、現在の観光地としての「草加松原」の景観が残ったのは幸運なことですが、断ち切られた古綾瀬川は人びとが行き交う華やかな「草加松原」の始まる前に視界から消え去り、終わったところにまた現れるというほとんそ忘れられた川になってしまいました。
この忘れられた川の様子がどうなっているのか、そして、もうひとつ大きく変わった綾瀬川の墨田川合流点付近はどうなっているのか、つまり、先の「起点」とこの古綾瀬川の流れ、そして隅田川残るかつての綾瀬川合流点を見ることで、綾瀬川の全体像を見てみたい。そして、それを「まち歩き」のテーマのひとつとしてみようというのが私の目的になりました。多分、埼玉県草加と東京都足立区の「裏町散歩」みたいな感じになりそうですが、歩行距離的にはそれほど難しくなくいけそうな感じです。歩いた順に報告します。
・東武スカイツリー線の「新田」駅から
駅名は「しんでん」と読みます。ここは草加の2つ前の駅で、南越谷からも2つ目です。1つ前の駅が「蒲生」ですから、ガマの生えた沼地の広がる中の水田のイメージです。現在は、かなり新しい新興住宅地ですが、随所に残る用水(跡)に江戸期以来の新田開発の歴史を感じます。その中を日光街道に沿って綾瀬川がまっすぐ南下していますが、ほどなく、巨大な地上のトンネルを思わせる首都圏外郭環状線の高架道路が横切っている箇所につきます。ここで左(東)に直角に曲がっていくのが古綾瀬川です。巨大な水門があり、普段は水は流れていないのか、古綾瀬川の水面には塵芥が浮かび不気味な緑色に淀んでいます。古綾瀬川はそのまま外郭道路と並行に流れ、反対側には広い遊歩道が設置されています。とはいえ、休日の午前も散歩する人の姿はありません。

・外郭道路と別れ、再合流点は「草加松原」
遊歩道を30分ほど進むと川の行く手にまた水門らしき建築物が見えてきます。ここで、外郭道路と流れを直角に変えてからゆっくり右に輪を描くように流れて、数キロ先でまた現在の綾瀬川に注ぎます。この間が現在の古綾瀬川ということになります。川の両側にはいわゆるカミソリ堤防で、遊歩道もなく、歩ける場所はありますが、行きどまりになったり、浄化槽があったり、あまり人が近寄る場所ではなさそうです。それでも、水面との間の狭い隙間にわずかに緑の植生があり、釣りをするひとがいたり、アオサギやカワウなどの大型水鳥の姿も観察できますので、水の流れがあれば一定の自然は残るものだと思います。
ただ、両岸の様子はあまり芳しくありません。草加市と八潮市の境堺辺りで、かつての田園地帯が工場地帯になり、宅地になりという場所だと思いますが、少し離れた東武線駅周辺の賑わいに取り残された裏町感が濃い場所です。それがずっと続きます。
この古い川ががふたたび綾瀬川と再合流するのはちょうど草加松原付近になります。草加松原は史跡になっていて、ドナルドキーン氏のみごとな揮毫になる記念碑も見ることができます。ここは地味な綾瀬川では唯一の誇らしい場所といえます。手入れの行き届いた松並木はきれいですし、左岸にはかなり広い公園があり、休日ですので多くの人の姿があります。
さて、ここから綾瀬川を下って最下流の隅田川沿いまで歩けばいいのだと思い、一度はそう考えたのですが、全体の距離と川沿いの景観にあまり期待がもてないので、ここから一気に加速して、足立区の最終合流地点付近まで、交通機関で移動することにしました。すぐ近くが東武スカイツリー線の「獨協大学前駅」です。ここは少し前まで「草加松原団地」という駅名で、巨大な団地は有名でした。
・東武線で「堀切」駅に移動
行く先は東武線で北千住から乗り換えてた浅草の2つ手前の「堀切」という駅。改札口に駅員の姿はなく、用事があったらボタンを押して呼び出してくれという感じ。多分、東京23区内で一番小さな駅ではないかと思います。駅のすぐ隣に荒川の堤防が高く聳えて何も見えません。堤防を登り、荒川と反対側を見渡すと東京未来大学という建物があり、その隣も学校のようで、その先に目指す古綾瀬川の最終地点があるはずです。堤防を少し進むと青く塗られた鉄の歩道橋があり、その上から写真のように斜めに流れる運河のような川が見えました。これが地図上に再び姿を現わした古綾瀬川です。上を通っているのは首都高速向島線。
高い堤防に遮られた川沿いに進むと、広い道路に出ます。これは隅田川に沿って作られた隅田堤の上の道路です。道路を越え、川沿いに進むといよいよ最終地点に出ます。ごみ処理用の川船が浮かんでいて、いかにも都会の果てという感じが強いです(一番上の写真)。荒川の本流であることをやめ、明治以後は埼玉県から東京東部の下町・裏町の生活用水・雑排水を一手に引き受けてきた川の最後の姿です。
ファーブルの『昆虫記』 ― 2025年09月12日 16:11
「あひるの沼」は『昆虫記』第7巻第7章のなかで水生昆虫の話の途中に書かれたエピソードです。観察記録とは直接の関係のない、こういう小さな、しかしおもしろい挿話が出てくるので「昆虫記」は永遠の文学になっています。残念ながら、壮年になってからの再読では子供のころの感動は蘇りませんでしたが、あのころ手がでなかったファーブルの精緻で丁寧な文章を時間をかけて楽しめるようになりました。
ファーブルの『昆虫記』はいくつかの翻訳があるようですが、有名なのは私が時間をかけて通読した岩波書店版の『完訳 ファーブル昆虫記』全10巻で、1989年に出ています。すぐに文庫版となり、現在まで発行され続けています。本当のロングセラーです。私の読んだのはもちろんこの文庫版です。最近では、ファーブルを敬愛するフランス文学者の奥本大三郎氏の『完訳版ファーブル昆虫記』(集英社・全10巻・20冊)が知られています。私はこの本を最初の巻から購入していたのですが、すぐに読むためではなく、豪華で、たくさんの綺麗な写真の入ったこの本を鑑賞するためでした。しかし、途中で何年間も発行が止まったりして、奥本氏の健康まで心配しましたが、10年以上の年月をかけて完結しました。そこであらためて本文をゆっくり読もうと思ったのですが、年齢のためか、あるいは同じ内容を読む気力・意欲がなくなったのか、現在はむなしく書棚の華になっています(しかし、今回もう一度開いてみたところ、本文の文字サイズが大きく、老後に?読むには最適と思い直しました)。これが上の写真です。
その下はおなじみの岩波文庫版。翻訳は山田吉彦・林達夫の共同訳となっています。本文はわかりやすく、適度に硬く、まさに名訳と思います。林達夫氏は高名な哲学者・評論家ですが、もうひとりの山田吉彦というのは、なんとペンネームを「きだみのる」という破天荒な人物の本名です。どうして、このふたりが戦前から戦後まで10年以上もかかってこの『昆虫記』の日本語訳を行うことになったのか、その辺の事情はわかりませんが、最初に翻訳を開始したのはきだみのる(山田)で、『昆虫記』の内容と美しい文章に魅了されたためのようです。きだみのる(山田吉彦)の個人訳部分もかなりあるようです。
ただ、現在、パソコンのAIなどに聞いてみると
<文庫版の「訳者あとがき」や「解説」では林氏の筆が中心になっている巻が多く、読者の印象にも強く残るのは林氏の思想的な語り口かもしれません。>
というAIとは思えない返答がかえってきました。しかし、第1巻の最後に記されている「訳者から」の「ファーブル略伝」と「ファーブルの旧地を訪ねて」はどうもきだ(山田)が書いたような雰囲気です。困難な翻訳作業の合間に楽しんでいるようなユーモアに満ちた楽しいエッセイです。AIの回答にも?が残ります。
* 『きだみのる―自由になるためのメソッド』(太田越智明)という本で、これが、きだ(山田)が書いたものであることを確認できました。
勇気づけられた『冒険記録』 ― 2025年09月05日 11:25
そんな中、ふと思いだしたのが、10年以上前に夢中になったノンフィクションのこと。そのときの思いをかなり以前に書いた「メールマガジン漂流記」という本の中に入れた思いがあったので、探してみるとありました。「2001年8月13日」のことで、15年前です。以下がその内容。
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「新潮文庫の一〇〇冊」というキャンペーンに乗ってうかうかと買ってしまった本が『エンデュアランス号漂流(原題 : ENDURANCE)』。ノンフィクションは大好きですから選択に間違いはなかった、というよりこれは驚くほどの傑作でした。第一次世界大戦のころ、南極大陸横断に挑戦した探検隊が沈没した船を捨て、揺れ動く流氷と荒れる海を乗り越えて十七か月後に全員無事で生還を果たす──とこれはまさに典型的な遭難事故ですが、体験は記録されることによってはじめて歴史になり、後世に残ります。
その漂流記録を作家のランシングが調査しまとめたのが一九五九年。「これから述べる話はすべて真実である」という冒頭の一行でリアリティを保障された想像を絶するストーリーが、詳細、緻密に絶妙の構成で一気呵成に展開します。これほどの内容の本の日本語訳が出たのがなんとその五十年後の一九九八年です。文庫版の解説のなかで、アラスカで亡くなった動物写真家星野道夫氏が座右の書としていたというエピソードも紹介されています。実際の冒険家を感動させるというのはちょっと信じがたいですが、この本の迫力はそれほどすごいものがあることを示している実話だと思います。
南極探検での極限を描いた記録としてすぐ思い浮かぶのはチェリーガラードの『世界最悪の旅』です(私は筑摩書房から一九七二年に出た「世界ノンフィクション全集」版の抄訳を持っています)。しかし、その内容は比較になりません。『世界最悪の旅』は実際の参加者の体験記なので、作家の手になる『エンデュアランス』と比べてはいけないかもしれませんが、それ以上に、同じように死と隣り合わせの極限の苦闘を描いてはいても生存のための条件が違いすぎるように思えます。
この歳になると、勇気づけられる体験に出会うことはめったにありませんが、この本を読んでいる時間は、まさしくそれに値するものでした。この記録がノンフィクションの古典となるのは間違いないでしょう。
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『漂流記』つながりでややこしいですが、この本に関連しては隊長のアーネスト・シャクルトンの出した回想記『エンデュアランス─奇跡の生還』も購入し、これは実際の体験者の手になるものですから違う意味でなまなましく疑似体験的な面白さがあります。ランシングというプロの作家の手になる「記録小説」のほうが、ストーリー展開や記述の巧みさや危機に直面していくドラマチックな構成力という点では断然上ではあるのですが、これはしかたのないことでしょう。
海底で海底でみつかった船体の鮮やかさ
南極大陸に面するウェッデル海の大氷原の中でのエンデュアランス号の破壊・沈没で当初の目的の探検は終わり、しかし、そこから次の本当の意味での劇的な冒険旅行が始まるというのがなんともドラマです。ここにもうひとつの後日談ですが、上の感想を書いてからまた10数年後(沈没からは108年後)の2022年になって、南極海の底からこのエンデュアランス号が発見されるというニュースが流れました(2番目の写真)。写真をみると水深3000mの海底で、この船はじつにきれいな状態のまま横になっています。記録にたがわず、頑健な船だったことがわかります。































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