大浦天主堂のこと2019年10月05日 13:03


先月の長崎旅行で、もうひとつ印象深い場所が大浦天主堂です。長崎市の南、西岡の丘に向けて坂道を登っていくと目の前に現れるゴシック建築の白い協会が見えてきます。質素ですが、上が丸い飾り窓と中心に建つ尖塔―青い三角の屋根とその上に伸びる十字架が美しい大浦天主堂です。

大浦天主堂は、西岡の丘に面しています。西岡の丘は、近世初頭、日本のキリスト教普及の黎明期に時の権力者によって磔の刑罰に処せられた26聖人の殉教の地であり、その長い暗黒時代が解けかけたとき、そこを遙拝するように建てられた日本最初の協会がこの大浦天主堂なのです。

上の写真はこの創建時の大浦天主堂の姿です(「大浦天主堂物語」より)。記録によれば建設されたのは1864年つまり江戸時代末期です。ご存知のように1858年(安政5年)に日米修好通商条約が結ばれ、日本の鎖国政策は終わり、ヨーロッパ諸国との関係が始まりますが、日本人のキリスト教禁止令はまだ解かれていない時代で、欧米人に対する攘夷運動もまだ盛んだったころです。したがって、この大浦天主堂も、日本にいる外国人キリスト教徒のために建てられたわけですが、26聖人のことは(悲劇の)当時からローマにも知られていましたから、堂々とキリスト教の協会が建てられることになったとき、この地が選ばれたというわけです。

これだけでも歴史的なことですが、この天主堂では建設の翌年に「信徒発見」という世界の宗教史に残る出来事が起こります。江戸時代の長いキリスト教迫害の中、信仰を守り通した人たちが、大浦天主堂を訪れ「私たちも信徒です」と名乗ったのです。隠れキリスタンの出現です。天主堂の中にはこの時に信徒たちが懇願して見たというサンタマリアの像が祭られています。

その後も明治初年の弾圧、1949年の被爆という障害を乗り越え、尖塔やステンドグラスの光りに満ちた礼拝堂など主要部分は現存したまま無事に残り、国宝として指定されている建築物でもあります。今年11月には、この地へのローマ法王の2度目の来訪が予定されているそうです。

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