長崎・軍艦島2019年09月24日 10:05


長崎県に行きました。といっても、ほんの一部、長崎市と佐世保市を通り抜けただけの感じですが、実は一度も足を踏み入れたことのない場所でした。長崎といえば平和の鐘に象徴される被爆の地であり、隠れキリシタンと信仰の地でもあります。なにより出島に代表されるように近世日本が唯一西洋に開いていた窓であり、蘭学を通して明治維新の変革につながる契機となった場所でもあります。憧れの場所でもありましたから結構うれしかったです

長崎は狭い湾に面した細長い平地に南北に伸びているそれほど広くない街です。着いてすぐ、長崎駅前で市電のフリー乗車券を購入し、市内東西南北を縦横に走るこの軽快な乗物に乗って歩き回ることにしました。平和公園から大浦天主堂、グラバー庭園などのいわゆる観光スポットはこれで苦労なく移動できます。いまや国際観光都市でもありますが、この市電の他に平行して市バスや観光バスも走っていて非常に公共交通が発達しているという印象です。坂が多いせいか自転車をあまり見かけませんでした。つねに海を意識させる美しい場所だと思います。

印象に残った場所はいくつもありますが、最初から行きたいと思っていたのが軍艦島で、2日目の午後に長崎港からクルーズ船に乗船できました。ほとんど波もない海面に出て三菱造船所のドックを左右に眺めながら約40分ほどで、特徴的な長い島が見えてきました。正式には端島という変哲のない名前ですが、その形状が土佐という軍艦に似ていることから通称「軍艦島」として有名になった炭鉱跡の小島です。現在は無人で、島内での危険性をかなり聞かされていましたが、上陸地点はかなり制限されていて、建物の内部などには立ち入りできませんから、指定範囲から出ない限りはまず問題ありません。

軍艦島は、ほんの50年くらい前まで数千人のひとが働き、暮らしていた島です。ここで採れる良質炭は八幡製鉄所の溶鉱炉に欠かせない資源だったようです。それが閉山後の半世紀で、海からの荒波や暴風雨さらに年月による風化劣化により、建物や道路、岸壁が崩れ、廃墟になってしまったというわけです。数年前の世界文化遺産登録まで、訪れるのはほんの少数のマニアだけでしたが、いまや、この島は長崎の主要見学ルートになっているのです。あと100年くらいはその観光価値を保つでしょうか。

島内観光の手順はかなり整理されていて、3か所のポイントをまわり、それぞれの場所で、島での生活経験のある人だと思いますが、高齢のボランティアの方が、そこに見える施設や島内での生活の様子の説明をします。海が荒れるとき以外、観光客は毎日のように来るようで、説明は要領をえてなかなか上手なものです。上の写真は第2ポイントで、後ろに見えるのは島内で一番深い600メートルの立鉱があった場所。専用のエレべータでその地下に下り、さらに水平に数堛百メートル以上の坑道が伸びていて、その暗闇の中、高湿度で摂氏30度という過酷な条件で大変な採掘作業が行われていたのです。こうした厳しい作業の対価として、当時の日本人平均の2倍以上の賃金と当時では想像もつかないような鉄筋コンクリートのアパートに高価な家具という生活が保障されていました。狭い島には、学校、病院から映画館、パチンコ店、飲食店、プールにお寺、神社まですべてがあり、それなりに充実したコミュニティが成立していたと思われます。

確かに、今の島は崩れ落ちた残骸だらけの廃墟なのですが、その歴史には、原爆で破壊された街を見るときのような悲惨さはありません。人びとは(少なくとも戦後は)自分の意志でここに住んで、楽しい思い出もあったでしょう。それは救いです。

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