『平家物語』の生まれた時代2019年09月08日 11:39


日本の歴史で「中世」と呼ばれる時代はおおまかにいって平安時代末期の源氏と平氏の騒乱から始まり、豊臣政権の成立までの約400年間をいいます。この期間は、現代になって“武者の時代”や“戦乱の時代”と呼ばれるようになりますが、確かに、日本各地で内乱が打ち続いた時代になります。特に、前半の源平合戦と後半の戦国時代は小説や映画の題材になっているのでなじみが深いです。しかし文学作品(いわゆる古典ですね)という意味では、戦国時代を扱ったものがほとんど残っていないのに反して、源平時代の『平家物語』を頂点とするいくつかのすぐれた軍記は今だにその人気は衰えていません。

逆に、後半の戦国期は特に近代になってからのいわゆる時代小説のテーマとして隆盛を極めています。その理由はいくつかあるでしょうが、いわゆる信長や秀吉による天下統一の過程が複雑で人物舞台も大きいのでひとつの作品にするには複雑すぎるため、明治以降の近代小説のような表現形式でないと描けなかったこともあると思います。また、戦乱が終わったあとの江戸時代の社会や民衆文化が(出版というメディアの台頭などもあって)多様になり、過ぎ去った戦乱の時代の記録を「文学」にまで高めるような気運が少なかったのではないかとも考えられます。

戦乱の記録は戦いが行われている場所で生まれるものではないでしょう。戦いの中ではほとんどの人にはその戦いの理由も意味もわかりません。戦いが悲惨であり個人の運命にとっていかに重要でも、心の中に深い後悔や悲しみを刻んでしまう場合でも、それを他人に語るとか、さらに客観的な形で記録するというようなことは、かなり長い時間をおいてからでないとできないと思います。中世ではありませんが、20世紀前半に生まれた日本人の多くは太平洋戦争という未曽有の体験をしています。そしてその体験が、個人的な愛憎を超えた共通の体験に昇華していくのは多分戦後20年~30年以上たっています。例をあげると大岡昇平の『レイテ戦記』は1960年代末に書かれています。ほぼ戦後25年後のことです。また多くの個人の戦争記録もこの頃に盛んに書かれていると思います。

時代は違いますが中世の庶民も、ある程度の時間が経過したあとで、自分たちが巻き込まれたあの時代を思い出し、その背景や活躍した貴族や武士たちの実際の有様(活劇的な活躍も含めて)を知りたいと思ったことでしょう。当時の庶民の多くは文字を読めませんし、出版もありません。したがって「源平戦乱」の数十年後、人々はその記録を琵琶法師などの大道芸人から聞いたのだと思います。その最高峰が有名な覚一検校(けんぎょう)です。

『いくさ物語の世界』(日下力・著)によると、『平家物語』が成立したのは鎌倉政権発足後の1230年から1240年頃というのが現在の定説だそうです。『平家物語』の有名な写本で延慶本というのがあり、これは1308年から1310年までの期間を指しますが、その数十年前の1240年に『治承物語』という6巻本の原型があったことが確認されているのです。覚一検校が最終的に話をまとめるのはさらに後の1330~1350年頃のようです。

その『いくさ物語の世界』によれば、『保元物語』『平治物語』などもやはりこの鎌倉前期の同時期に完成しているとのこと。時代を追った三部作みたいに考えられていますが、その成立の契機は同じようなところにあるのかもしれません。その中で『平家物語』が、その質においても分量においても圧倒的であるのはいうまでもありません。ただ、そういう関係で、この3作品と、承久の乱といわれる鎌倉政権と朝廷の闘いを描いた『承久記』を中世の「軍記=いくさ物語」とみなし、これらの中にあらわれる人間同士の争いのありようを様々な角度からとらえたのが『いくさ物語の世界』です。

 (上の画像は「平治物語絵巻」より)

高尾山の富士信仰道2019年09月17日 12:19


ようやく涼しい日が出てきましたので少し山歩き訓練をしようと高尾山へ出かけました。ただし、今回はいつもの稲荷山コースではなく、いわゆる表参道から薬王院を通って山頂へ向かうことにしました。最近の「まち歩き」で訪ねている富士塚にちなんで高尾山の富士信仰関連の跡を見てみようというのが理由です。

薬王院にはここ数年、お正月に参拝しています。今年は、薬王院の隣に鎮座している飯縄神社にも足を運び、高尾山の山岳修験の跡をたどるようにしましたが、この高尾山が近世以降いわゆる富士信仰の高まりの中で果たしてきた役割については、おおまかなことしか知りませんでした。

何事も知りたいと思わなければわかるものではありませんし、見たいと意識して探さなければどんなに重要なことでもあっさりと見逃してしまう――こんな経験ばかりですが、富士信仰の観点からみた高尾山も、そういう角度から光を当ててみると、思い当たることが多いものです。

高尾山に浅間神社があることは知っていましたが、その場所は薬王院のさらに上の不動堂の裏手で、そこは確かに高尾山のひとつのピークになっており、登山道や観光用(?)道路がうるさいほど整備されてしまった現在では想像が難しいですが、かなり峻険な山頂の岩場に設置された奥の院であることは新しい発見です(上の写真)。

また、その浅間神社から山頂までの尾根道は「富士道」と呼ばれ、裏高尾(小仏城山など)方面に少し歩いた見晴らし台で富士をあおぎ、富士山登山が難しかった時代の代わりの「富士詣」としたことなどもあらためて確認しました。

高尾山では今でも「高尾山修験道」の行事が開催されています。薬王院のホームページの「高尾山修験道」(https://www.takaosan.or.jp/about/syugen.html)にくわしく書かれています。以下はその中から。

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高尾山内に御祭りされております富士浅間社は、天文年間(四百五十年前)に北条氏康により建立され、その後、寛政10年と大正15年に再建されました。江戸時代に於いては富士・信仰が、その隆盛を極め、江戸八百講と呼ばれる程、富士信仰が民衆の生活に浸透し、多くの人たちが富士山を目指してその歩みを進め富士道が確立されました。
高尾山内の富士浅間社は、その富士道の重要な拠点であり、富士登拝が出来ない人々はその思いを先達に託し高尾山にて富士浅間社を拝み、その御利益を頂いていたのです。 その後、時代と共に幾多の衰微を繰り返し、現代に於いては富士道を歩む人々の姿が見られなくなった現状を、当山、御貫首の発願により、北条氏康が富士浅間社を建立してから、四百五十年目に当たる平成19年6月末より7月上旬の十日間に渡り、昔ながらの富士道を徒歩による富士登拝修行の再興を成されたのです。そしてこの富士道を徒歩による富士登拝修行は毎年、高尾山修験道により行われて行きます。
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また、この高尾山浅間神社の周囲には「富士山十界修行」をこの場で簡単に行うための仕掛けも設置されています。上の説明のように昨年(2018・平成18)に行われた修験体験の際に新たに造営されたようです。

長崎・軍艦島2019年09月24日 10:05


長崎県に行きました。といっても、ほんの一部、長崎市と佐世保市を通り抜けただけの感じですが、実は一度も足を踏み入れたことのない場所でした。長崎といえば平和の鐘に象徴される被爆の地であり、隠れキリシタンと信仰の地でもあります。なにより出島に代表されるように近世日本が唯一西洋に開いていた窓であり、蘭学を通して明治維新の変革につながる契機となった場所でもあります。憧れの場所でもありましたから結構うれしかったです

長崎は狭い湾に面した細長い平地に南北に伸びているそれほど広くない街です。着いてすぐ、長崎駅前で市電のフリー乗車券を購入し、市内東西南北を縦横に走るこの軽快な乗物に乗って歩き回ることにしました。平和公園から大浦天主堂、グラバー庭園などのいわゆる観光スポットはこれで苦労なく移動できます。いまや国際観光都市でもありますが、この市電の他に平行して市バスや観光バスも走っていて非常に公共交通が発達しているという印象です。坂が多いせいか自転車をあまり見かけませんでした。つねに海を意識させる美しい場所だと思います。

印象に残った場所はいくつもありますが、最初から行きたいと思っていたのが軍艦島で、2日目の午後に長崎港からクルーズ船に乗船できました。ほとんど波もない海面に出て三菱造船所のドックを左右に眺めながら約40分ほどで、特徴的な長い島が見えてきました。正式には端島という変哲のない名前ですが、その形状が土佐という軍艦に似ていることから通称「軍艦島」として有名になった炭鉱跡の小島です。現在は無人で、島内での危険性をかなり聞かされていましたが、上陸地点はかなり制限されていて、建物の内部などには立ち入りできませんから、指定範囲から出ない限りはまず問題ありません。

軍艦島は、ほんの50年くらい前まで数千人のひとが働き、暮らしていた島です。ここで採れる良質炭は八幡製鉄所の溶鉱炉に欠かせない資源だったようです。それが閉山後の半世紀で、海からの荒波や暴風雨さらに年月による風化劣化により、建物や道路、岸壁が崩れ、廃墟になってしまったというわけです。数年前の世界文化遺産登録まで、訪れるのはほんの少数のマニアだけでしたが、いまや、この島は長崎の主要見学ルートになっているのです。あと100年くらいはその観光価値を保つでしょうか。

島内観光の手順はかなり整理されていて、3か所のポイントをまわり、それぞれの場所で、島での生活経験のある人だと思いますが、高齢のボランティアの方が、そこに見える施設や島内での生活の様子の説明をします。海が荒れるとき以外、観光客は毎日のように来るようで、説明は要領をえてなかなか上手なものです。上の写真は第2ポイントで、後ろに見えるのは島内で一番深い600メートルの立鉱があった場所。専用のエレべータでその地下に下り、さらに水平に数堛百メートル以上の坑道が伸びていて、その暗闇の中、高湿度で摂氏30度という過酷な条件で大変な採掘作業が行われていたのです。こうした厳しい作業の対価として、当時の日本人平均の2倍以上の賃金と当時では想像もつかないような鉄筋コンクリートのアパートに高価な家具という生活が保障されていました。狭い島には、学校、病院から映画館、パチンコ店、飲食店、プールにお寺、神社まですべてがあり、それなりに充実したコミュニティが成立していたと思われます。

確かに、今の島は崩れ落ちた残骸だらけの廃墟なのですが、その歴史には、原爆で破壊された街を見るときのような悲惨さはありません。人びとは(少なくとも戦後は)自分の意志でここに住んで、楽しい思い出もあったでしょう。それは救いです。

落合川湧水の源流へ2019年09月28日 13:31


地元の環境団体の活動で、東久留米にある落合川を歩いて、源流付近までいってみました。落合川は、このブログでよく出てくる黒目川の支流ですが、豊富な湧水が有名です。

まだ暑い空気の残る日でしたが朝霞台駅に14名が参加、西武バスの「ひばりが丘行」に乗って移動、神宝大橋という埼玉と東京の境になっている場所に到着しました。橋の上から上流を眺めると、右に黒目川本流、左側が落合川です。

落合川に沿って設けられている遊歩道には川側にファンスがあり、護岸で守られた河川敷は一段低く、そう広くありませんが、豊富な水量とその中で揺れている水草が鮮やかです。岸辺の植物群とともに、この景観は散歩する人たちの楽しみになっていると思われます。河川改修を経た現在の落合川の姿です。

左右の景色を眺めながら進むと新落合橋付近で右岸側に立野川が流れ込んでいます。きれいに澄んだ水で、これも落合川の湧水群のひとつということで、2キロほどの長さがあるそうです。さらに歩き続けて西武線の陸橋を越えるあたりで、ここにもやはり右岸に流れ込む流れがあります。本流を離れて、この支流を遡ると、よく整備された竹林に行き当たり、一帯は竹林公園という広場になっています。うす暗い竹林を降りた窪地に、湧水池があり、砂を巻き上げて湧き出ている場所も確認できます。藪蚊の巣窟みたいな場所でもあります。

本流に戻り、またいくつかの橋を過ぎます。橋の名前は美鳥橋、老松橋、不動橋などユニークで、数も多く近接しています。川と生活の場が近いのではないでしょうか。老松橋の先に、川岸の囲いがなく、自由に遊べる「いこいの水辺」という親水広場があり、この日も小魚やザリガニ取りなど川遊びをする親子の姿を目にすることができました。

多門寺という名刹を過ぎ、毘沙門橋を越えると、落合川最大の湧水である南沢からの流れが合流しています。流れに沿って南沢へ向かうと氷川神社があります。この湧水自体がご神体になっているのでしょうか。一帯には、林の中をいくつもの流れが交差するような水路が流れていて、これはただの湧き水ではないことがわかります。この南沢湧水は多摩地区で最大の水量とされ、湧水の量は1日約1万トン。隣接する東京都水道局の給水所から汲み上げられた地下水と合わせて久留米市の水道水としても利用されているそうです。南沢湧水群は、2008年(平成20年)6月に「落合川と南沢湧水群」として平成の名水百選に選ばれています。新座市の妙音沢湧水も平成の名水百選で、朝霞地区にも湧水があり自然地形的には同じなのですが、参加者は武蔵野台地から湧き出るこの豊富な伏流水を目にして感激の様子です。

ここにある緑地公園で昼食。その後もいくつもの橋を通り過ぎ、小金井街道も過ぎて、いよいよ落合川の源流へ。川幅はますます狭くなり、台地の端に到達したようで、右岸には段丘が続いています。アシなどの背の高い植物で覆われ水面が見えなくなりますが、水中や河川敷にはいくつもの湧水があるようで「湧水ポイント」の標識が立てられています。

八幡橋という小さな橋の先の段丘と住宅に囲まれた数メートルの水路が確認できる最上流地点ということです(上の写真)。ここはかつて生活排水などで汚染されていましたが、地元の人たちの活動で清流に戻ったとのこと。緑も清流も人の手で保全しないといけないのが都市の環境です。

那須岳をへて三斗小屋温泉へ2019年09月30日 14:47


9月の下旬、福島県の那須岳(茶臼岳)登山そして三斗小屋温泉に行ってきました。最初の日、天候は快晴なのですが何とも風が強く、特に那須岳の火口壁に到着してから風はさらに強烈な感じでした。牛ケ首で一休みしてから、11時40分頃、姥ヶ平という樹林に囲まれた平坦な場所に出て一息、振り返ると那須岳の火口から白煙があがっているのが見えます。那須は巨大な火山です。ここまで来て山麓から山頂部に至るまで紅葉はあまりありません。ブナの葉も色づいていませんから、まだ早いのか、9月の暑さで変化したのか、ナナカマドも赤い実をつけているのに葉は黄色く枯れているような感じがします。ただ、山腹の方角によってはきれいに見える場所もあるようです。

ここから三斗小屋宿温泉まではササやブナの見事な天然林でいかにもクマの出没しそうな場所です。険しい道のようですが、かつての会津中街道の一部のようで、かなり整備された箇所もあります。途中にはこの地の歴史を示すプレートなども置かれていました。それによると、江戸時代初めの日光大地震で会津西街道が水没で通行不能となったため、会津藩3代藩主松平正容によって1695年(元禄8年)に整備された新たな街道とのこと。次第に使われなくなりますが、幕末の会津戦争ではこの地でもかなりの戦闘があった模様です。その後は山の中の温泉ということで営業しているのでしょう。午後1時40分、その三斗小屋宿温泉・煙草屋に到着。いかにも古風な造りの素朴な宿です。

当然、携帯電話は通じませんが、電気も電話線もないようで、自家発電の生活。電話は衛星を使うのか30秒200円という青電話が外界との唯一の連絡手段です。草屋屋旅館は(名前と異なり室内は禁煙)野外に大きな露天風呂があり、男女は時間を区切って入ります。一行は、非常に気持ちの良いこのお風呂に順番通りにつかりました。