秩父御嶽山に登る2018年12月13日 19:30


12月の初旬、秩父の秩父御嶽山に登りました。三峰山の北に位置するこの山は「ちちぶおんたけさん」と読みます。「おんたけ」は木曽の御嶽山のことをいいますが、この秩父御嶽山を開いたのが、木曽御嶽山の王滝口を開山した普寛行人ということでそう名づけられている山です。

普寛行人は享保16年(1731)に現在は秩父市に編入されている大滝村で生まれた修行僧・修験道者で、各地を遍歴後の寛政4年(1790)に木曽の御嶽山を訪れ、4人の弟子とともに新しい登山道を開きます。木曽の御嶽山はそれまでも信仰されている霊山でしたが、厳しい修行の末に登ることのできる山でした。普寛は3日間程度の軽い修行で御嶽山に参拝登山できる路を開いたことになります。現在の王滝口登山道は普寛の故郷である「大滝村」にちなんでつけられた名称です(残念ながら現在は登山禁止のようです)。普寛はさらに江戸にもどり、当時、富士信仰の普及で盛んだった富士講と並んで御嶽講を主催し多くの人々を御岳山に導いたといわれています。

なお、年代から見て普寛が木曽御岳山に始めて登ったのは61か62歳の時で、江戸時代の感覚では完全に隠居したご老人になります。普寛自身が若いころは剣客でしたから身体も頑健だったものと思われますが、木曽の御嶽山に限らず修験者は山に入り、修行の傍ら、薬草や薬石の発見・摂取も行っていたようで、そうした健康法も功を奏したのではないでしょうか。多分、修験者は里に下りての病人の治療にも加持祈祷ばかりでなく合理的な根拠に基づく薬物治療を行っていたのだと思います。現在でも地元の木曽で2社の製薬会社が「百草丸」という胃腸薬を製造販売しているほどですから実際の効果があったことは確かです。

私は、7名の参加者とともに、午前5時35分発に朝霞台駅から出発。西武線を経由して秩父鉄道終点の三峰口駅には8時20分過ぎに到着。駅からすぐの荒川の深い渓谷を渡ると「案山子(かかし)の里」というの案内があります。この里では家の前や田んぼの中にも、登山道の入口にも、可愛いような怖いような等身大の案山子が立っていてにこやかにわれわれを迎えてくれます。登山開始。30分ほど急坂を進むと今登ってきた場所が見える高山という場所に出ましたが、あとしばらくはスギの植林に囲まれた道をひたすら登ります。スギの木は枝打ちがされよく管理されていることがわかるのですが、登山道上にはその枝が散乱しています。それほど登山者は多くないようです。

山頂到着は10時35分。山頂(1080メートル)といってもそこは秩父御嶽山、途中に狛犬が鎮座し、立派な階段もある小さいながら立派な社殿の普寛神社の奥宮になっています。「御岳大神」が祭られているようです。われわれは神社の周りを廻って周囲の景色を楽しみました。晴天の中、正面には両神山、南に雲取山、北西には浅間山や赤城山、日光連山などの山々が臨まれます。空気は冷たいですが、風もない静かな山頂でした。

木曽の御嶽山の頂上にも社殿があり、座王権現が祀られています。「蔵王権現」ではなく「座王権現」と表記し、この秩父御嶽山に祀られれている「御嶽大神」は、蔵王権現とは全く別の神格として扱うようです。

志木市宗岡の浅間神社2018年12月16日 12:10


私が自宅から簡単に歩いていける富士塚が2つあります。いずれも隣の志木市内にあり、ひとつは「田子山富士」として埼玉県の重要文化財になっている敷島神社内の富士塚です。これは志木市本町という場所にあり、江戸時代以来の新河岸川舟運で栄えた引又河岸のすぐ上の台地上にあり、運河を行きかう船人からも良く見えたと思われ、かなり大事にされているという感じです。

もうひとつは、そこから徒歩で30~40分ほど離れた荒川土手沿いの浅間神社の中に立っています。昨日久しぶりに行ってみましたが、土曜日というのに訪れる人もなく(寒さもありましたが)、神社前の狭い道路を爆走する車の騒音だけが響いていました。さらに、目の前に見える荒川の巨大な土手とそれに直行して羽倉橋に至る県道463号線(通称浦所バイパス)が北と東の視界をふさいでいて、なんとも可哀想な限りです。

それでも敷地内の2カ所になんとなく誇らしげに掲げられている説明版によれば、この浅間神社は建久4年(1193年)の源頼朝が行った富士山麓での巻狩に由来するということが記載されいます。神社の歴史的な起源がはっきりわかるのは珍しい。隣の富士塚は明治になってからの建立のようですが、これも説明版によれば、幾度も繰り返されたに違いない荒川の氾濫を耐え抜き、流路の変更さらに道路整備などにより2度もその場所を変えて造り直しながら、現在まで維持されてきたとのことです。地元の人の神社や富士塚に対する愛着がしのばれます。

この富士塚はかつては(いまの堤防ができるまでは)もっと荒川に近く「樹木を多く植えて近隣の景勝地となっていた」そうですが、現在はかなり乾いた感じの岩石のみの御山になっています。少し前、保護のためとは思いますが表面の表土をコンクリートで固めました。妙に白く、そこに黒い溶岩でおかしな感じがしましたが、久しぶりにみるとコンクリートは歳月で黒ずみ、かなり自然な感じになっています。

敷島神社の富士塚に比べ、保存会などもないようです。これも歴史と人びとの素朴な信仰の象徴として大事にしたいものです。

浅間神社の富士塚(続き)2018年12月22日 17:25


前回の記事「志木市上宗岡の浅間神社」の続き。

この志木市上宗岡の浅間神社にある富士塚に関係しますが、熱心な富士講の信奉者として、羽根倉富士と呼ばれるこの富士塚の造営にも参加した星野勘蔵という人の石碑が、すぐ近くに建っていました。

上のように、「大教正日行星山彦命碑」とあります。日行星山(にちぎょうせいざん)というのが通称のようですが、掲示されている志木市教育委員会の説明によると、本名を星野勘蔵といい、明治5年(1872年)の羽根倉富士の計画に参加しています。明治8年には自ら富士山に参拝、以来富士参拝登山を70回行い、お中道廻りを7回行ったということですから、交通の不便なこの時代に大変な行動力の持ち主ということになります。さらに、明治25年(1892年)には「吉田胎内(現在の吉田胎内樹型)」を発見しています。

「大教正日行星山彦命」という名前は富士山北口協会長から受けた行名と説明がありますが、明治13年とのことなので、当時富士山北口浅間神社にあった神道の協会かと思います。
亡くなったのが昭和8年(1933年)ですからかなりの長寿であったようです。

懐かしい街を歩いていたら2018年12月23日 11:46


日本橋のほうに仕事があり、その帰り道、靖国通りに出てから、神田駅周辺を通って秋葉原、御茶ノ水、水道橋と廻りまた神保町へ降りて、九段、飯田橋を経て最後は神楽坂から早稲田まで歩きました。

この日歩いたあたりは私が20代の頃から40歳代まで、勤めていた会社があり、その後も仕事やその他もろもろの用事でさんざん歩き回った場所です。どこにいっても思い出の街角や路地、建物が視界に入り、数十年前の記憶がそのまま蘇るような風景が次々に展開していく、懐かしい映画を見ているような不思議な感じでした。

東京都内に行くことはよくありますが、たいていの場合は目的や何かの用事があり、終わればそのまま帰るあるいはどこかの店か施設によっていくだけということがほとんどです。何も考えず、ただ東京の街をゆっくり歩くということはあまりありません。

今でも自宅の近くの街中や自然の中を歩く「散歩」やいわゆる「まち歩き」でも同じように昔から見慣れた中を歩いているのですが、多分、そこで目に入るものは、私の中の生き生きした体験が投影されている風景ではないのでしょう。そうしたノスタルジアを感じることはほとんどありません。

老後の楽しみのひとつに「思い出」があるといわれます。過ぎ去った過去の記憶も私たちの貴重な財産です。これは経験を重ねなければ蓄積されません。思い出すのは楽しい。たとえ当時は苦しく悩んだことであっても過ぎてしまえば懐かしいだけです。

その思い出の街の中では私はすでに現在進行形で生きているわけではないのだと気づくとやや寂しいですが、人生とはそうしたものでしょう。

さて、歩いている途中、神保町の古書店街(靖国通)を通りました。街の雰囲気はあまり変わっていません。いくつもの古書店の店先に、1冊100円以下の古書が乱雑に陳列されています。ふと見るとどこかで見たような書籍が…。私が出版の仕事をしていた時に出した『世紀末文化論』という本です(上の写真)。20年以上前で著者は私の友人でした。特殊な本で多分200冊も流通していないと思います。それがたまたま歩いていた私の目に留まる場所にあったのはまさに奇跡です。厳松堂という大きな古書店でした。

法政むさし野会とは2018年12月29日 13:39


法政むさし野会という団体があります。その名の通り、法政大学の同窓会なのですが、大学公認の正式(?)団体ではなく、主に埼玉県に在住している通信教育課程の卒業生を構成メンバーにしています。多い時には50名くらいの会員がありまして、年に数回程度の会合―総会、講演会、勉強会、見学会などを開いてきました。さらに年3回、A4版4ページの会報を継続的に発行していました。

この会が珍しいのはやはり通信教育課程の卒業生がメインということでしょう。私は途中に休学期間があるので結構長い時間をかけて法政大学の文学部(地理学科)の通教課程を終了していますが、通信教育の基本は郵便等によるやりとりですから同窓生というはありませんし、友人関係というのもほとんどできません。

単位習得試験や夏・春秋のスクーリングでは受講生として机を並べますが、年齢構成がばらばらですし、期間も短かすぎます。地理学科には巡検という制度があり、数人が数日の間泊まり込みで調査活動を行いますので、一時的に親しくなる人はいましたが、遠方でしたので長い付き合いには至りませんでした。卒業後は特に大学を意識することもありませんでした。

そんななか、20数年前、2人の方より「通教課程の同窓会をつくりたい」というお誘いがあり、私は第1回から参加をしていました。会員は卒業年度はもちろん年齢、学部それぞれ違う人たちですが、みんな学習意欲が強く、昼間の会合、夜の懇親会と、いつも楽しい時間を過ごすことができました。

しかし、最近は個人情報保護というおなじみの理由で新しい卒業生に直接の連絡をとることが難しくなって新規会員がほとんどないことに加え、会員の平均年齢が上がるという、多くの組織で共通する“高齢化”に直面していました。自然解散でもよかったのかもしれませんが、会長の意向で今年度(2019/03)で会を解消することになりました。

それ以後は有志による不定期の集まり(懇親会?)を継続することにはなっていますが、まぁ普通の同窓会はこんな感じですよね。この法政むさし野会の最後の会合が2018年11月に埼玉県寄居で開かれました。出席者はそう多くはなかったですが、荒川の崖の上にたつ堅固な古城として有名な鉢形城を見学した後、城跡の対岸にある京亭という料亭でゆっくりと懇談しました。上の写真はこの料亭の庭で撮ったものです。

高校を卒業して50年!2018年12月31日 19:03


前回に続いて同窓会の話。私の卒業した高校(埼玉県立大宮高校)のクラス同窓会が毎年、年末に開かれています。出たり出なかったりでしたが、最近は出席が多くなりました。学校公認の同窓会は別として、個別の同窓会が続くかどうかは熱心な幹事役をやってくれる人がいるかどうかに尽きるようです。われわれの場合も大宮在住のK君が当初から熱意をこめて毎年の参加呼びかけと会場確保をやってくれたおかげです。感謝するしかありません、

高校というのは卒業した後の進路がさまざまで、どのような人生をたどるかの予想がつきません。われわれの生きてきた、この30~40年の社会の中では成功、失敗、勝組み、負組みなどという言葉で語られる格差ができてきました。仕事ばかりではなく、結婚、子供さらに孫という家庭の幸不幸もあります。うまくいくときばかりではありませんから、一時はこうした集まりを鬱陶しく感じるときもありました。

しかし、ほとんどの者が退職し親の介護、余生?の生きがいや生活をどうするかという同じような悩みを持つようになると、企業社会の中で夢中で走ってきた時とは違った、学生時代のような語らいができるようになってくるもののようです。

特に今年は卒業して50年ということになりました。深い感慨はありませんが、元気に集まった者たちとは楽しく語り合いました。みなそれなりの生き方と悩みをかかえていることもわかりました。ただ、同窓会に一度も出てこない者も多く、彼らも個々に違う事情をかかえいるはずで、そのことも気にかかります。