仏像のふるさとガンダーラ2018年10月06日 14:17


松戸市立博物館で開催中の特別展「ガンダーラ仏教文化の姿と形」を見学してきました。この博物館は1993年、松戸市制50周年記念事業の一環として開館した施設で、通常展示では、旧石器・縄文時代から戦国時代の高城胤吉一族の活躍などを経て、昭和30年代の公団住宅誕生までの「松戸市を通した日本の歴史」をかなり充実した内容で見ることができます。面白いのは常盤平団地2DKの原寸大・再現展示で、日用品や雑誌、テレビ画面に映るCMまで当時のものを使用している凝りようで、われわれ世代には非常に親近感があります。


この博物館は松戸市立博物館は美術館機能も持とうということで早くから「ガンダーラ仏教遺物」を始めとする美術・文化財を保有していてそうで、これまでも数回、ガンダーラ関係の展示をやっていますが、25周年記念の今回は国内各地の博物館や現地発掘成果なども含めての大規模な展示のようです。

ガンダーラ仏教仏教とは、知っているようで知らない世界ですが、ガンダーラというのは、現在のアフガニスタン東部からパキスタン北西部にかけて紀元前6世紀~11世紀に存続した古代王国のことで、特に1世紀から5世紀には、仏教を信奉したクシャーナ朝のもとで最盛期を迎えたそうですが、その後、他民族に征服されてしまいましたので、ガンダーラという地名は失われ、現在までイスラム支配地域となっています。

重要なことは、この地で、ギリシャ、シリア、ペルシャ、インドの様々な美術様式を取り入れた仏教文化・仏教美術が生まれたことです。インドで生まれた仏教は当初、仏陀そのものの偶像を崇拝することを否定してましたので、いわゆる仏像というものはありませんでした。それが、ガンダーラ地で西方のギリシャ文明と出会い、その影響を受け仏像というものが初めて創られたのです。そして中国や日本にも伝わり、当時の日本の白鳳文化や仏教受容にも多くの刺激を与えました。

もし仏像がなければ、経典=思想という抽象的なものだけであったなら、その後の日本での仏教の普及はおそらくなかったろうと思います。その意味で「ガンダーラ」は日本の仏教文化の発祥の地・ルーツもといえる場所なのです。「ガンダーラ仏教文化の姿と形」展示は11月25日まで開催されています。

西行物語の不思議2018年10月11日 13:55


 心なき身にもあはれは知られけり 鴫立つ沢の秋の夕暮れ
 ねがはくは花のもとにて春死なむ その如月の望月のころ

この2首の和歌は広く知られています。最初の歌は『新古今和歌集』を代表する一首でしょう。鴫(シギ)とは水辺に多い鳥のことです。多くは秋に日本にわたってきます。人の足音に気づいて飛びたっていく一羽のシギ。いかにも静かな晩秋の雰囲気が伝わってきます。「あはれ」の意味も、特に説明がなくとも理解されます。2首目も有名な歌ですが、まるで自分の死後の世界がすぐ隣にあるような想像、われわれを一種種異次元の世界に誘い込むような感じが残ります。サクラの花は精神の永遠性を象徴しているようです。

この2つの歌の作者は西行。出家・修行した僧侶でもありますので西行法師ともいいます。『平家物語』で描かれた平清盛と同時代、つまり平安末期・源平合戦の動乱の時代から中世が始まってゆく時代の人物です。平清盛とは、生まれ育ちが地下階級の武士であったことも似ていますが、人生の途中から、西行と清盛とはまったく違った生き方を選んでいきます。

 年たけてまた越ゆべしと思ひきや いのちなりけり小夜の中山 

これは亡くなる数年前の歌だそうです。西行の生涯も厳しいものでしたが、「いのちなりけり」という言葉は生老境に入った漂泊の旅人・西行の生への執着でしょうか。西行はこの他にも優れた歌をたくさん残しています。高い名声をえた西行ですが、「ねがはくは花のもとにて春死なむ」と歌った通りの見事な往生をとげたこともあって、その奇跡の様な生涯が古くから「西行物語」として語り継がれていたようです。「西行伝説」といってもいいでしょう。

これは高橋英夫著の『西行』(岩波新書)によると、この西行伝説にはかなり人間的な一面があり「修験の荒行に涙する西行」、「老女や幼児にからかわれる西行」などの伝説が残されています。なかでも興味深いのは魔術師・西行の伝説です。これは西行が高野山中で人骨を拾い集めて人の形を作り命を吹き込んだという奇怪な話です。確かな伝承ではないようですが、こうした話が伝えられるあたりに、当時のひとびとの、西行の超人的な才能への恐れともいえるような驚きがあるように思います。

はるか後年、松尾芭蕉がこの西行に心酔し、その歌枕の地を訪ねて旅したのが『奥の細道』であることも有名です。さらに現在まで、多くの人がこの『奥の細道』に記された場所(歌枕)を巡る旅にあこがれていることを考えると、時代を超えた壮大な精神の歴史がつながっているように思われます。(上の写真は、センチュリー美術館本「西行物語絵巻」第二巻 《西行、如意輪の滝を拝む》より)

台風24号の被害2018年10月20日 20:26


先月末に本州を縦断した台風24号の被害はさまざまなところに広がっているようです。数週間たっても<塩害>などによって農作物の収量が相当落ち込んでいることが報道されています。私の住んでいるような、ある程度の内陸部でも、塩害はわかりませんが、一番わかりやすい倒木ということがかなり起こっています。

先週の金曜日(10/12)に八王子の高尾山に行きましたが、裏高尾の小仏城山に向かう途中の登山道が倒木により閉鎖され、枝道が迂回路になっていました(上の写真)。かなり太い木ですが、案外中心が空洞化しているものがありますから注意が必要です。今回は強風の時間が真夜中でしたから幸いでした。

14日には、地元・朝霞市の「まち歩き」で、新座市の平林寺と野火止用水を巡りましたが、周辺の道路や林内での、この24号の影響なども見ることができました。新座市内の野火止用水は国道254号線(いわゆる川越街道)を超える陸橋を渡ってから用水脇の緑道を歩くようになっています。この付近一帯は平林寺までクヌギやコナラを中心とした武蔵野の雑木林が続きますが、途中にかなり太い木が倒れかかっている箇所がありました。明らかに24号台風の影響と思われます。

また、平林寺の総門前にある睡足軒の森にも立ち寄りましたが、この日は園内の多くが立ち入り禁止でした。管理の女性の話では遊歩道の整備とのことですが、先日の台風での倒木などの処理もあるとのこと。さらに、一帯の緑地の中心となっている平林寺の境内林もこの台風でかなりの被害を受け、今年の秋は見学日も制限しているとのこと。24号台風は多くの影響を及ぼしましたが、これはほんの狭い経験のなかでの一例です。台風の大型化の原因のひとつが海水温の上昇ということです。地球の環境はすべてつながっていることを実感します。

チェジュ島ハルラ山の噴火口2018年10月26日 09:40


韓国チェジュ島・ハルラ山に登りました。地元・山遊会の4人に知人の女性の7名のグループで、なんと2泊3日という短期旅行。チェジュ島は韓国の南端、緯度はそれほど南でもありませんが対馬海流が流れているため温暖で、韓国最大のリゾート地になっています。

ハルラ山はこの島の中央部にそびえている韓国(地元の人は南韓国といいます)で一番の高山です。標高は1950mですが、独立峰というより、多くの寄生火山を含めて、いわば島全体がハルラ火山といえるほど巨大な存在です。

男性4人。いくつかの登山道がありますが、今回は最も一般的で難易度の低い「城坂岳コース」を、高さんという女性のガイドの方と一緒に登りました。高度差は約1200m、往復約8時間程度になるようです。登山道は、階段や木道が非常に多く、道の両脇にロープが張ってあることもあって、森林公園を歩いているような感じのところもあります。

ハルラ山は、日本でいえば富士山みたいに韓国中の人が登山に訪れるようです。(韓国)全土から集まる人で平日にもかかわらず、登山者の多いことに驚きます。日本のようなシニア層はほとんどいません。しかも軽装にスニーカーというのんきな若者も多く、こっちが心配になります。しかも彼らは早い。われわれはどんどん追い抜かれます。

ハルラ山は火山ですから、山頂は火口壁になります。そのすぐ下の広い場所に数多くのデッキが作られていて登山者がくつろいでいる景色はまるで真夏の海岸のようです。巨大な噴火口を囲んでいる火口壁自体は狭く、現在では一周=いわゆる御鉢巡りはできないようです。火口の底は池になっていますが、今は3分の1程度の大きさでしょうか。冬は雪も降りますので、春先には観光写真で見るような湖になると思います。立ち入り禁止の火口壁に一段高い岩場がそびえていて、ここが最高部とのことです。

私にとって韓国も初めてなら、いわゆるLCCも初めて。飛行時間はわずか2時間です。近いような遠いような隣国の一端にも触れることができました。

旧中山道・碓氷峠の紅葉2018年10月29日 15:20


中山道を北上すると群馬県と長野県の県境に差し掛かります。ここが碓氷峠になります。高速道路や新幹線であっという間に通り抜けてしまう現在ではあまり実感がわきませんが、歩いたり鉄道もまだ十分発達していなかった時代には、ここが中山道でも最大の難関のひとつでした。徒歩の時代の中山道(旧中山道)の道筋はいくつか残っていますが、この碓氷峠付近も観光地・軽井沢のひとつのアクセントみたいな場所として歩くことができます。

本来の目的地ではなかったのですが、ここを訪れ、ちょうど見ごろを迎えている紅葉を楽しむ形で散策することができました。軽井沢駅から続く商店街も旧街道ですが、しばらく行くと峠への車道とは別に山道がつくられています。30分ほど適度な傾斜の細道を登ると見晴らし台に到着します。シュールなまでに赤い紅葉が植栽されています。遠くを見渡せば、浅間山から上州の山々まで一望することができます。

横川(安中宿)の方から京都方面に中山道を登ってきた旅人は、碓氷の関所を通り、息を切らせながら山道を登り、ここで、目の前に噴煙をたなびかせる浅間山の威容を眺めたことでしょう。峠の上には現在でも、熊野神社があり「力餅」を名物とする茶屋もにぎわっています。気候が秋なら、現代のわれわれよ同じように紅葉を楽しんだかもしれません。しかし、それより、前途の旅の厳しさに暗然とした人が多かったような気がします。