鳥取砂丘再訪2018年09月14日 15:13


30数年ぶりの鳥取砂丘は大観光地になっていました。広いレストラン、道路を超えて砂丘へ到達できるリフト。そしてここにも中国や韓国、東南アジアからの大勢の観光客。かんじんの砂丘の印象はというと、そうした新しい施設の分だけ面積が減って小さくなった様な感じ。何より、あの時の寂しげな荒々しい光景の印象はあまり感じられません。これはこちらの感受性のせいでしょうか。

出雲大社と足立美術館、鳥取砂丘という山陰のメインスポットを巡るツアーのことですから、時間がないのは致し方ないとして、島根の出雲空港から出雲大社へ、夜は鳥取の大山・山麓のホテル、翌日は島根に戻って足立美術館へ、また鳥取に戻って砂丘へという忙しさなので、島根県件・鳥取県という日本の都道府県で一番わかりにくいこの2つの県の位置関係がますますわからなくなります。

出雲大社も足立美術館もそれぞれ感慨はありますが、情報過多なこの時代、噂に聞き、映像で目にしていた「もの」が本当にあったといういう以上のこころが震えるような感動はもうありません。鳥取砂丘も行きたいと思い続けて、夜行寝台列車に乗って朝早く到着したあの時のあこがれの気持ちは再現しませんでした。時間がもう少しあれば? それは違う気がします。

谷川岳で伝説の道標の話を聞く2018年09月23日 16:17


谷川岳はかつでは“魔の山”と呼ばれ、登山事故死者数のギネス記録の山だそうですが、安全になった現在でも依然として人気は高いです。9月19日、地元の山の会(山遊会)のメンバーとこの谷川岳に登りました。とはいえ、私を含めて約半数が土合口からロープウェイに乗って一気に1300メートルの天神平まで行ってしまうという一般向けコースです。それでも午前8時半から午後3時近くまでかかりました。この夏以降一番良いという天候に恵まれましたからで、このルートでも視界の悪い時や積雪期はやはり大変なところなのでしょう。

ゆっくりと天神尾根を登り始めて9時20分過ぎに熊穴避難小屋につきました。ここからややきつい登りもありましたが、途中の天狗のトマリ場という岩場や景色のよいポイントで休憩しながら、11時半、肩の小屋につきました。見晴らしがよく、特に西側、平標山の方へ続くという山々は青々としたゆるやかな尾根が続いていかにも誘惑されそうです。とはいえ、T長老によればなかなか大変とのこと。小屋は真新しく、屋根には太陽光パネル、中には売店があり、ジュースにコーラ、カップラーメンまで売っています。

谷川岳は双耳峰ということで、実際の最頂上部はここから一ノ倉岳へに続く稜線の上に突き出たトマノ耳(1963m)とオキノ耳(1977m)です。少し休憩して出発。途中、雪があったら大変だろうなという場所もありますが、今日は楽しいだけ。途中、若い登山者に次々に出会い、歳を考えだいたい道を譲ります。しかし天候がよく緑の山々が広がる中での歩行は疲れません(ロープウエィ効果?)。頂上付近では一部の下草が色づき、ナナカマドの紅い実が目立ちました。紅葉はまだのようです。頂上の「オキノ耳」には12時30分頃到着でしょうか。昼食後、肩の小屋まで降りて健脚組の動向を待ちました。

ところで、健脚組は、並足と別れてすぐ土合登山口から歩き始めたましたが、少し入った場所に今回の登山の主催者・山遊会の川部会長思い出の道標があるいうことで、そこに立ち寄っています。そこにあるのが上の写真です。ご覧のように石の土台の上に建てられた立派な石碑で、土合山の家、西黒尾根、厳剛新道と分岐の道を示す文字が刻んであります。この日、後から会長に聞いた話では「いまから60年くらい前、この谷川岳で遭難した人の遺体捜索と収容を当時所属の山岳会が行い、それをテーマとした記録映画を岩波映画がつくったのだが、その協力費用でこの碑を作った。今でも年に一度くらいは見に来ている」とのことでした。

調べてみると確かに1957年に『谷川岳の記録 遭難』という長編記録映画(岩波映画・松竹配給)が上映されています。当時は、この山での遭難が多く、そういえば一種の社会事件にもなっていたことを私も記憶しています。しかし60年前のことを実際に立ち会った人から聞くというのはすごい! まるで伝説の中の世界みたいです。

八王子千人同心とは2018年09月28日 17:48


甲州街道が西八王子駅近くで陣馬街道と分岐するところが追分の交差点です。現在、そこに「八王子千人同心の碑」(上の写真)が建てられています。この付近が千人町という地名になっていることでわかるように、この付近には江戸時代、千人同心と呼ばれる職業の人たちが住んでいたのです。あまりなじみのない千人同心という言葉ですが、まち歩きをやっていると必ず「千人同心日光街道」という道に遭遇し、これが八王子から日光まで火之番のために交代で通っていたということを知るようになります。

同心とは江戸時代の下級武士のことですが、八王子では半分農民である郷士という感じのようです。ブリタニカ国際大百科事典では「1590年徳川氏の関東入国に伴い,代官頭大久保長安のもとで甲斐武田氏の旧臣である小人頭を中核として同心250人が編成され,翌年に500人,1600年には1組100人ずつの10組で1000人に拡充されている。これを統率する千人頭は槍奉行に属し,武蔵国八王子に在住し,同心は周辺の諸村に土着した。甲斐国境の警備と治安維持を任務としたが,1652年からの日光火之番,1705年からの江戸火消役なども務め,19世紀からは蝦夷地の警衛や北辺の開発にもあたり,幕末期には八王子千人隊と称された」と記載されています。さらに最近知った情報では昌平坂学問所が作成した「新編武蔵風土記稿」の一部の調査・執筆も行ったということです。私の住んでいる新座(旧新倉郡)地区もその中にはいるとか。

この同心碑をはじめ一里塚などいくつもの文化財を残している八王子地区の甲州街道の(一部ですが)まち歩きを計画しています。また、この甲州街道の現在とは違う小仏峠を超えるルート(甲州古道というようです)も歩いてみたいと思っています。

八王子千人同心については八王子市のホームページが詳しいです。
http://www.city.hachioji.tokyo.jp/kankobunka/003/002/p005303.html