一千一秒物語2018年06月01日 18:55

現在、稲垣足穂(いながきたるほ)という作家を知っている人は、中年以上、いや現代の言い方では高齢者に属するのではないでしょうか。この作家が『少年愛の美学』という作品で騒有名になったのは今から50年前の1968年(昭和43年)です。稲垣足穂はこの時の年齢がすでに68歳でした。

当時、私は19歳前後、もちろん『少年愛の美学』も読んでいませんし、その後の活動も、ほとんど知りません。あの頃は三島由紀夫の「楯の会」とか、今とは違う形の男性愛が認められだした時代だと思いますが、私は関心がなかったのですね。

しかし、これも偶然とは思いますが、この稲垣足穂の代表作である『一千一秒物語』だけは読んで、その時の新鮮な驚きを今でも覚えています。形態としてはショートショートということになるのでしょうが、SFとも童話ともつかない、それまでの日本文学にはないような奇妙な超現実の世界。冒頭は次のような話です。

 月から出た人

 夜景画の黄色い窓からもれるギターを聞いていると、時計のネジが
 とける音がして向こうからキネオラマの大きなお月様が昇りだした。
 池から1メートル離れた所にとまると、その中からオペラハットを
 かむった人が出てきて、ひらりと飛び下りた。オヤ! と見ている
 うちに、タバコに火をつけて、そのまま並木道を進んでいく。つい
 ていくと、路上に落ちている木々の影がたいそう面白い形をしてい
 た。そのほうに気を取られたすきに、すぐ先を歩いていた人がいな
 くなった。耳をすましたが、靴音らしいものはいっこうに聞こえな
 かった。元の場所へ引きかえしてくると、お月さまもいつのまにか
 空高く昇って静かな夜景に風車がハタハタと廻っていた。

 その他に「星を拾った話」「ポケットの中の月「箒星を獲りにいった話」「自分を落としてしまった話」など68編が載っています。これ、発表がなんと1923年、大正12年ですよ。この作品の後継はいまでも出ていない気がします。ちなみに「キネオラマ」とは幻燈という今ではほとんど見ない器具を使った見世物のこと。いかにも時代を感じます。

先日、図書館で別の作家の小説を探していて「ちくま日本文学全集」の1巻に稲垣足穂があるのを見かけて本当にひさしぶりに目を通しました。文庫版の小さな全集で、夏目漱石などそうそうたる大作家とならんでこの稲垣足穂や宮本常一が1冊を占めているのも面白いです。

上の写真は初夏の味覚、ビワ。豊かに育った黄色い果実が濃い緑の中で星のように輝いています(埼玉県新座市内で)。