供養塔の千手観音2018年05月17日 15:15


おなじみの博物館友の会の「まち歩き」。今回は「毛呂山・鳩山町の史跡と文化財、新緑の鎌倉古道」ということで、5月のいち日、快適な気候の中、埼玉県中央部に位置する比企郡の毛呂山町、鳩山町にまたがる歴史文化財、史跡をまわりました。参加者は28名。この日歩いた毛呂山町の鎌倉街道には、往時の面影をしのばせる古道の景観が残り私の大変好きなまち歩きコースでもあります。

「鎌倉街道」とは中世に政治の中心であった鎌倉と関東諸国や信濃、越後、陸奥を結んだ主要道路のことで、鎌倉幕府の御家人たちが街道を行き来するなかで、鎌倉街道沿いでは数多くの合戦が行われ、軍事道路であり、物流の幹線でもありました。参詣道でもあり、一名、善光寺街道といったそうですが、現在では中世の古道一般をいうのかもしれません。

東武越生線の川角駅から県道(114号線)に出て少し左に進んだ細い農道の入口に「鎌倉街道へ」の標識があります。ここから雰囲気は何となく古道になります。10分ほど田園地帯を進むと「鎌倉街道遺跡」の白い杭が目に入ってきます。薮に覆われて今は使われていませんが、ここから高麗川方面に向かって鎌倉街道の本道があったことが発掘調査の結果わかってきました。そして、ここから先の、遺跡道の延長線上にある雑林中の掘割状の道路が現在に残る鎌倉街道というわけです。

その先に毛呂山町の歴史民俗資料館があるので学芸員の方に解説をお願いしました。。資料館を出てすぐの鎌倉街道の左右の林の中に小さな古墳が目につきます。川角古墳群です。別れ道に面した円墳の上に江戸初期の庚申塔がおかれ、周囲の静かな自然の風景に溶け込んでいます。林内の古道を左折すると崇徳寺跡になり、さらに進むと3メートルを超える延慶の板碑(県重文)が現れます。板碑には「沙弥行真」と「朝妻氏女」の2人の名が刻まれていて、県博にもレプリカがある重要文化財です。

ここから先は街道の周囲に特別支援学校や運動施設が作られ、かつての風景は失われていますが、越辺川沿いの苦林宿があり、近くには苦林の古戦場もあります。古戦場跡ははっきりしませんが江戸時代に造られた合戦供養塔が苦林古墳群の中に残っているので、それを探しに向かいます。

すぐ近くですが、ここは苦林古墳群となっていて、林の中や畑の中に大小の古墳が残存しています。味気ない道路整備は行われていますが、一帯のゆるやかな丘陵の雰囲気はかなりのどかです。丘陵を少し登った林の中に十社神社があります。ここには苦林合戦の戦死者を祭ったという伝説があります。その先の畑の中に2つの前方後円墳がありますが、奥にある古墳の上に、目指す合戦供養塔がありました。正面には状態もよく立派な千手観音菩薩像が刻まれています。こうした石碑に刻まれた千手観音像は割に珍しいようです。

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