本栖湖でのテント生活2017年07月07日 11:17


・最初は尾瀬沼の予定だった

富士五湖のひとつ、本栖湖の西岸にある「いこいの森キャンプ場」で3日間のテント生活をしてきました。おなじみの地元(朝霞)山の会の人たち5人で、男性3人はテントに分散、女性2名はコテージに泊まりました。当初は尾瀬沼に向かう予定だったのですが、天気予報がかなりの確率で雨ということで、急遽、天候のよさそうな富士山付近に予定を変更しての出発になりました。

Sさんの車で午前6時前に出発。途中も順調でかなり早く午前9時頃にはキャンプ場に着いてしまいました。宿泊の申し込みやテント設営を済ませても時間は十分なので、どこに登るかという相談。結果は、この日は観光を兼ねて身延山、明日は毛無山(1945メートル)に決定。どうして毛無山かといえばそこに富士山付近の地図があったからです。

・実は大変な2つの山

軽く決定してしまった2つの山ですが、実際には結構大変な山でした。まず身延山。麓にあるのが日蓮宗の大本山という信仰の寺であることは確かですが、奥の院のある身延山は単なる山号ではなく1183メートルの本当の山です。道は整備されていてまったく危険はありませんが、折り返して続く急坂の連続で足腰の疲れること。また、この日は暑く、風もほとんどないという気象条件で、私(筑井)は上から下まで汗びっしょり。これが悪夢の始まりでした。

なんとか下山してキャンプ場に戻り、カレーライスの夕食。慣れないテントでしたが少しは寝られました。しかし、思えば眠りは浅く、おまけに何度か足がつるのです。これはあまり経験のないことでやや不安に感じました。

翌日、パノラマラインを縫って毛無山登山口へ。早朝の朝霧高原には見渡す限りの牧場のなかに悠然とそびえる富士山が広がっていました。これは感激です。麓にある駐車場から出発。毛無山という大変失礼な名前の山は日本に20以上あるそうで、富士山の麓にも3つくらいあるとか。しかし、この日登った毛無山はその中で最高峰。おまけに登り始めてすぐにわかったようにもっとも大変な山でもありました。

急坂に次ぐ急坂。しかもごつごつした岩がかさなり、ロープのかかった岩場も続きます。この日も前日同様に蒸し暑く、無風。思えば台風が接近していたのですね。とにかく、3時間以上、休み休み、なんとか頂上へ(写真)。まったくのへとへとでした。そして前日以上の大量の汗。食欲もあまりない。これはよくない。下山になっても、険しい岩場だけに足元に気を使い時間がかかります。自分ではそうも思わなかったのですが、やや体も揺れていたそうです。1合目ごとにある表示版を通過するかしないかの距離で少し休ませてもらいながらの情けない状態でした。最後の沢を渡るときに水を汲んでもらい生き返りました。

・毛無山の主に遭遇

下山の途中、まだ少し元気のあったとき、北アルプス展望と書かれた大きな岩から降りてくる登山者に出会いました。すごく慣れた様子だったので話を聞いてみると「ほとんど管理人」でいままでこの山に2000回?以上登り、今では年間260回くらい登っているという信じられない話。さらに「この山は富士山の外輪山では一番大変な山、ここを登れればアルプスは全部登れる」「それもで上には上がいて最短45分で登るクライマーもいる」などの話をしたり、トリカブトへのシカの食害のことも話題にしたあと、われわれを置いてあっという間に下っていきました。

あとで気が付いたのですが、登山道入口の駐車場には、利用者が500円をいれるポストがあり、このひとはその管理を委託されているのではないかと考えます。ほとんど毎日ここに現れる理由もそれでわかります。毛無山の主(ぬし)です。

帰りに道の駅に寄り、冷たいアイスクリームを食べて思わずため息。その夜は何もせず(前の日だって同じですが)、作っていただいたトマトソースのスペゲッテイをなんとか食べきりました。2日目はなんと足の小指がつるという事態に。痛くはありませんが、気持ちがよくない。どうも大量の発汗による電解質の不足が原因と思われます。

最後の一日は、鳴沢の入浴施設で富士山を眺めながらの露天ぶろや食事など観光気分で、天候の悪化を心配しながらの帰宅となりました。

講演会「山岳信仰の歴史と民俗」2017年07月17日 14:58

博物館友の会で『山岳信仰の歴史と民俗』と題する講演会が開催されました。講師の鈴木正崇先生は慶應義塾大学名誉教授であるとともに日本山岳修験学会会長さらに日本山岳会にも所属し、自ら山に登り、世界の民俗研究を行ってきた方です。中公新書の著書『山岳信仰』を読んでから、日本山岳修験学会にお願いして実現したもので、当日は酷暑の中、大宮公園内の博物館講堂に110名におよぶ参加者が訪れ、大変うれしいことでした。
 
最近の「山の日」の制定など日本における山岳に対する関心は高くなってきているように思えます。しかし、現在、その多くはスポーツ登山や観光資源としての山岳への関心が中心です。かつての日本においては、人びとは「山」に対して、崇高な畏敬の念をもち、神のいらしむ場としての信仰心も考えられないほど強かったようです。山岳信仰は日本の精神文化の根底にあると考えることもできます。鈴木先生は、講演の最初に、こうした山岳信仰に対する意識の変化を考えることで、日本の近代化の意味を浮かびあがらせることができるのではないか述べました。以下、当日の資料に沿って、講演の概要をなぞってみました。

なお、鈴木先生は別の著書で「昭和40年代以降のモータリゼーションで簡単に山に入っていけるようになったことも山への畏敬の念を失わせた要因だ」としています。車やバスのお世話になっている身として苦しいかぎりです。

①山の信仰=日本の山々は里からほどよい距離にあり、暮らしの中に山が溶け込み、人々は山に親しみと畏敬の念をいだき、多様な信仰が生まれた。山は日本人の精神文化を育んできたともいえる。②開山伝承と神仏混淆=日本の山の信仰の特徴は神仏混淆である。仏教の伝来以来、修行の場として山林に寺院が建設された。現在も残る寺院の「山号」はその思想である。明治維新による「神仏判然令」による神仏分離がこの状況を激変させたが、それ以前の長期間にわたる仏教の土着化、展開と創造の長い歴史がある。各地の山の開山伝承は伝説化されているが、国家の起源と重ね合わせる意図的な遡及史観でその正当性を強めている場合も多い。

③神仏習合の思想= 日本の山には仏菩薩や仏教思想にちなむ名前が多い。山に登ることは神や仏と出会い、願いをかなえてもらうことだった。平安時代以来、神と仏は、本地(本源)を仏菩薩、垂迹(仮に現れる姿)を神とする神仏習合思想で統合されていた。各地に修験僧が活躍したが、その歴史が多くの山々の名称に残っているといえる。④山の意味づけ=山中の様々な風景や景観が、「地獄」や「極楽」「浄土」として意味づけされ、現在でも山中の地名に残っている。修験では山全体が修行の場であり、山全体が曼荼羅であった。

⑤修験道の展開=仏教の山岳修行の内容を体系化し、峰入り修行の中で得た霊力を取り込み、里で祈祷、除災、招福、治病などの活動を行ったのが修験道である。⑥山の信仰と農耕民=山の中には多くの社があり寺院もある。元来は山中の巨岩、大樹、湧水、湖沼、洞窟など自然物に対する祭礼の場であったものである。自然と一体になって生活していた人々にとってはこうした自然の中での神々との交流、崇拝は当然のことであった。高山に残る雪形で季節を占うように、山の神は稲作などの農耕の守護神であり、海の幸の源泉でもあった。また、先祖の霊が見守っている場でもあった。

⑦山の信仰と狩猟民=山を生活の場とする狩猟民は山に対する独自の宗教観を伝えている。入山に際しての儀式やおきて、動物や植物に対する神聖な信仰があった。⑧基盤としての山中他界観=山への信仰の基盤には他界観がある。山には神の連想が伴い、人びとが亡くなったあとに霊魂が赴く場であると信じられてきた。日本中に死後の霊が集まるとされる山がたくさんある。

⑨祭祀から登山へ=もともと山は聖域とされ、禁足地とされていた。やがて、山への信仰が祭祀から登拝(参拝登山)へと変化してきた。特に江戸時代には民衆の経済力上昇に伴い山岳登拝が盛んになり、富士講や大山講、御嶽講などが組織化され、多くの人が参加することになった。⑩山岳信仰から近代登山へ=日本の近代登山は明治初年に始まる。第一次、第二次、第三次と登山ブームがおこるなかで、近年は、山岳信仰への関心も復活している。特にユネスコの世界遺産登録で2004年の「紀伊半島の霊場と参詣道」では大きな論争が起こった。2013年には「富士山―信仰の対象と芸術の源泉」が指定された。その他に、日本国内でもいくつかの山岳霊場を「日本遺産」として登録する動きが始まっている。観光資源化が進む中で山岳信仰は新たな岐路に立たされているといえる。

断崖と鎖、ロープに挑戦!2017年07月23日 10:38


地元の山の会で、先日のキャンプに続きまた富士山周辺の山へいってきました。同じく外輪山ではありますが、西湖、河口湖の北にそびえる毛無山と十二ヶ岳です。8月に槍ヶ岳登山の計画を立てているのですが、そのために「岩場でのロープ、鎖の練習」が今回の目的です。参加者は男女7名でした。

このコースは西湖東岸の毛無山登山から始まりますが、本来の登山口を過ぎて文化洞トンネルの少し先が登山者用駐車場でした。農作業中の地元の方から登山道への近道を教えてもらい、出発したのは8時20分頃です。この道は付近の集落の生活道路でしょうか、個人のお墓や古びた神社が目につきます。ほどなく本来の登山道に。ここから毛無山ですが、この毛無山は、前回登って苦労した朝霧高原の西にある毛無山(天使山塊にあるので天使・毛無山というようです)とは別の山です。1500mと標高も低いですが、登りのきつさも違います。アカマツの森を過ぎると広葉樹の林で秋には紅葉がきれいそうです。余裕で頂上についてみると地味な標識です。眼前に河口湖と西湖が見える絶景ですが、その向こうの富士山は裾野もほとんど見えません。両湖の岸辺が白く、水不足の深刻さがわかります。

ここから尾根伝いに目的の十二ヶ岳に向かいます。この2つの山の標高差はあまりないのですが、途中にいくつかの小山(コブ)があり、それぞれ一ヶ岳から順に番号がついていて最後が十二ヶ岳ということになっていますが。そのコブの下りがけっこうな岩場になっているところもあります。これが練習ですから皆さん真面目に取り組んでいました。やや体調不良の参加者もいて脚をいためたようですが、なんとか十一ヶ岳まで到着。ここで12時近くになったので昼食休憩。

登山再開。この十一ヶ岳から深いキレット(断崖)を隔てて、そそりたつ立つ十二ヶ岳が見えます。20メートル以上はある深い崖は、上から見るとけっこう大変そうですが、ロープと鎖の練習にかかります。なんとか下ると吊り橋がありました。金属製のきれいな橋で「ひとりずつ渡れ」という看板があります。揺れるためでしょう。ここを渡りきったところで、上からカタコトの日本語が聞こえてきました。みると白人の女性がひとり、反対側から来てこの先のことを聞いている様子。ジョートパンツ姿にあまり丈夫でなさそうな靴をはいています。声援に送られてわれわれと逆に橋をわたり長い断崖を登っていきました。勇気があります。この女性がこの日出会った唯一の登山客でした。

そこからまた岩場が続き、なんとか十二ヶ岳(1683m)へ。山頂には最上権現と書かれた溶岩とスチールで作られた真新しい社と賽銭箱があり中に不思議な形の像が安置されています。朱塗りの古い社もあり、ここも信仰の山なのでしょう。休憩後、大きなブナの樹がある林の中の道をひたすら下り、2時間ほど降りると、最初に出発した「文化洞トンネル方面」という分岐道がありました。ここからさらに下っていくとやがて林の間から湖の青い水がかすかに見え、湖岸を走る車の音も聞こえるようになります。山裾を廻る細い道は今にも崩れそうなのですが、なんと「通学路」という標識に遭遇しました。?と思いながらさらに進むと「旧根場通学路」という看板が立っています。そういえば山中ながら古い石垣や廃屋が点在しています。かつて集落があり、湖岸道路ができるまで子供たちがこの山道を通っていたのでしょう。ほどなくして、朝、われわれが出発した場所に到達。時刻は午後4時になっていました。

ところで、地図でみると十二ヶ岳の先にも「節刀ケ岳」とか「鬼が岳」とかすごそうな山が続いています。来るときがあるでしょうか。

喫煙風景の盛衰2017年07月30日 12:50

地元の市の環境審議会の委員というのになっていて、たまに委員会があります。市役所の担当者が作成した「環境計画」をほぼ追認するだけのものですが、意見をいうことはできます。つい最近の会議で私が発言したのは「野良ネコの餌やり」と「タバコのポイ捨て」という、共に、必ずしも行政の大問題とはいいかねるテーマについてでした。多分、野良ネコのほうがシリアスな問題とは思いますが、ここではタバコについて横道にそれてみます。

つまり、タバコがこんなに嫌われる社会になったのはいつごろからだろうかということです。こう思ったのは上記の委員会のこともありますが、ほぼ同時に(偶然に)アメリカの戦前のミステリー小説を読んでいたからです。1930年代、日本流にいうと昭和10年代に書かれた作品で、そんな古いものをと思われるかもしれませんが、私の読んだレイモンド・チャンドラの『大いなる眠り』や『長いさよなら』『さよなら、愛しい人』は、2000年代後半に翻訳され、さらに最近ハヤカワ文庫に収められたものです。もちろんどれもとっくの昔に翻訳されていて、それなりに人気があった作品ですが、(あの)村上春樹が新しく翻訳を行ったということであらためて評判になったようです。

この時代のアメリカの(たぶん日本でも)小説に登場する人物は、男も女も、ほとんど例外なくタバコを吸っています。紙巻き、パイプ、いずれにしろ、もしタバコがなかったらどうするんだろうという具合に、普通に、自然に、シガレットケースから取り出し、結構苦労してマッチを擦り(当時はそうだったらしい)見事な煙の芸術をつくりあげ、ときにフロァに吸殻を捨ててもみ消したりしています。

これはミステリー小説だからというわけでもなさそうで、そういう時代だったとしかいいようがないようです。たとえば、これも小説ですが、ウイリアム・フォークナー『八月の光』のジョー・クリスマスは、火気厳禁の代表みたいな「おが屑工場」の中で平然とくわえタバコで仕事を続けていますし、もう少し新しいところではテレビ映画の名作『刑事コロンボ』(これもミステリー作品?)で主人公は葉巻を吸いながら(つまり灰を落としながら)悠然と殺人事件の実況検分に立ち会っていました。これは1980年代でしょうか。

それが現在では、駅前でタバコなど吸っていようものなら、通行人に叩き落とされる、とまではいかなくとも「喫煙スペースに行きなさい!」と注意され、コンビニの裏にある物悲しく暗い場所で、まるで日陰もののようにこそこそ吸うしかないのです。

ちなみに私は30歳ごろに禁煙し、その後当時はまだあまり問題視されていなかった職場での喫煙で会社に苦情をいうなど、禁煙権の推進者のひとりでした。