天狗の話からガルダへ2017年06月09日 14:21


小さな同窓会の集まりで「天狗」についての講演がありました。講演者は民間の民俗研究家の高橋成氏で「知ることは楽しい」という気持ちで研究に入ったという自己紹介がありました。どんなテーマでものめり込むと面白いことは確かですが、やはり自分の興味のあることが第一のようです。

一般的に、妖怪や幽霊の話など科学の的に実証できないものは科学や学術研究の対象にはなりません。ただし「天狗」や「河童」については民俗学の世界では取り上げられることが多いようです。伝承が多く、実在の動物や職業?などモデルが特定できるからかもしれません。

高橋氏の調査では、天狗については物語の世界ではかなり古く『源氏物語』などの平安文学に登場します。山の森の妖精のような神秘的な対象だったようです。中世に入ると天狗は、『今昔物語』に登場するように、悪役=仏教の敵です。まともに成仏できなかった精神が陥る魔界の主人公という感じです。しかし、安土桃山時代から江戸時代になると、不思議なことに、こうした天狗の話はほとんど出てこなくなるとのこと。代わりに信仰の対象やフィクションの世界では人気者になります。

こうしたことから高橋氏は「天狗のモデルは『山岳修行者』ことに『修験者』ではないか」と考えているそうです。また伝統的な民俗社会では天狗は「異人」「漂泊民」「差別された人々」を象徴するのではないか。そして天狗の様な妖怪が減少したのは近代の日本社会の中で自然との関係が希薄になってきたからだというのが結論でした。

私もその通りと思います。明治時代の神仏分離政策で日本古来の修験道が壊滅したとされていますが、本当の意味では、近代化に伴う科学的な意識の普及、ことに昭和40年代以降の現在につながる工業化、エネルギー・交通通信革命の波が、山や川への畏敬の念を失わせたのだと思います。そこに山の天狗、川の河童が生きる余地はなかったのです。

さて、他方で天狗については、古代インドの神に起源をもつガルダ神信仰が仏教とともに伝来し、上記の素朴な民間の自然信仰としての天狗と結びつき、また、その外観がカラスに似ていることから「烏(カラス)天狗」となっていったという考えもあります。

もともとのガルダ神というのオウムやクジャクなどの「人頭鳥身型」で、ガナダータ美術の影響で鷹になり、さらに漢字訳の「迦楼羅」になると鶏になり、カラスになっていくようです。鳥型の神が登場する理由としてはインド北部での鳥葬の風習が影響しているといわれています。

ガルダ神が鷹に変化していく過程では古代ギリシャや古代ローマ文化の影響も指摘されていますから、この鳥を神聖化する文化というのは世界の東西文化の相互交流という非常に大きな背景を持っています。ちょうど、神社の狛犬のルーツをたどると獅子=ライオンになり、最後は古代エジプトのスフゥインクスに至るという話にも似ています。

ちなみに、インドネシア航空のマークもガルダですし、タイ王国国章は、ガルダです(上の図)。すごい迫力ですね

参考:「天狗信仰の研究―迦楼羅炎からの考察」森田喜代美(『山岳修験』19号)、「飯縄権現と迦楼羅についての一考察」森田伸雅(『山岳修験』58号)。

第六天社の天狗2017年06月13日 13:45


予定のイベントが中止になったので、先日の「天狗の話」で講演者から聞いた岩槻(さいたま市)の神社=第六天社に行ってきました。いろいろな天狗を祭ってあるということでしたが、第六天社のいわれにも関心がありました。私にとってはこれも散歩のひとつですから、多少の時間がかかってもいいということで地図で調べてみると、東武スカイツリーラインの北越谷駅で降りて元荒川沿いに歩いていけばなんとかたどり着けるということがわかりました。

道順としては確かにその通りだったのですが、元荒川沿いの道が(多くの河川のように)遊歩道になっていると思ったのは間違いでした。駅から元荒川に向かっていくと確かに土手があり、その上は快適な散歩道になっています。少し歩くと公園もあり、その向こうには宮内庁の鴨場と思われる広大な緑地が広がっています。雰囲気もあり、自然度も満点。しかしそれはその先の梅林公園という場所までの20分間くらいでした。そこから先は車の行き交う普通の道になってしまいます。もちろん歩いている人はほとんどいません。

それでも川沿いに歩き続け、さいたま市(岩槻区)に入る頃には幅も狭く歩道もないというようなことになりました。道の途中には香取神社などいくつかの神社やお寺がありますから、これは古い道筋ということはわかりますが、あまり散歩にふさわしいところではありません。

1時間半くらいかかったでしょうか、ようやく第六天神社の参道に到着しました。参道は結構長いですが、あまりにぎやかではありません(失礼。日が悪かった?)。この第六天神社というのは少し変わった神社で元々は神仏習合の時代に第六天魔王(他化自在天)を祀る神社として創建されたということになっています。第六天魔王は、かの織田信長が自称したと伝えられるものですが、天魔とは仏道修行を妨げている悪魔のことらしいので、これが修験者のことであれば、この神社がそのモデルである天狗をお祭りしている背景がわかります。

ただし、明治の神仏分離の政策で、いまの神社自体は普通の形態になっています。天狗がご神体ではありませんので、探した結果、本殿脇の「納札殿」の中にたくさんの天狗のオブジェともいうべきものが展示されているのがわかりました。その中心には2体の石造りのカラス天狗がこちらを向いています(上の写真)。身長は1メートル強でしょうか。子供の様な感じもあります。それほど古いものとは思えませんが、だれがいつ奉納したものでしょう。

もうひとつ、この神社の独特なところは完全に元荒川に面していることです。本殿のすぐ裏に満々たる水をたたえた川がまるで池のように見えます。ご存知のように、元荒川というの現在の荒川が西に瀬換えをする以前の荒川本流の取り残された旧河道です。上流はなく、流れもほとんどないので増水をすることもありません。堤防が必要ないのです。神社の境内には船着き場が2か所あります。

昔、東京(江戸)から第六天神社にお参りする人びとは、静かなこの元荒川の流れを遡ってきたといわれています。

信濃川の源流へ2017年06月21日 21:30

奥秩父にそびえる甲武信ヶ岳は、山梨(甲州)と埼玉(武蔵)、長野(信州)の国境にあるので、その名があります。標高は2475メートル。すぐ隣には8メートルの差ですが埼玉県で一番高い三宝山という山もあります。甲武信(こぶし)という名前の語呂の良さ、あるいは<古武士>を思わせるイメージでその名を知っていましたが、今回はじめて登ることができました。

甲武信ヶ岳は、重要な上記3つの国の分水嶺にもなっています。山梨県を流れ富士川となる笛吹川。信州では千曲川そして新潟に入って日本海に至る信濃川。秩父を流れ下り、埼玉、東京を縦断して東京湾に注ぐ荒川です。

どれも日本を代表する大河ですが、特に日本一の長さを誇る信濃川が奥秩父山地から流れ下っていることに驚きます。今回の登山は長野県側の川上村の毛木平から、この信濃川(千曲川)を遡るというルートでしたので、まるで源流探検の様な面白い登山になりました。

コケに覆われた岩や倒木の間を縫って歩くこと約3時間、「千曲川信濃川水源碑」と書かれた大きな木柱が建っている場所に到着しました。谷川の一番奥、川底の砂の間から澄んだ水が湧き出している場所です。飲んでみるとおいしくて、しかも冷たいことに驚きます。つい2~3週間前まで雪に覆われていた場所です。

荒川の源流は反対側の斜面にあり、小さめの石碑があるようです。笛吹川の源流は東沢という難ルートにあり、一般には立ち入ることができないようです。本当に大きな山です。

甲武信ケ岳の山小屋2017年06月25日 09:05


前回の登山の続きですが、信濃川源流でひと休みした後、甲武信ケ岳の頂上を目指します。見晴らしのいい斜面を登っていると、いかにも大きな山だという感じがしてきます。この日は曇りで霧がかかり、遠くはほとんど見えないかと思いましたが、2500メートルを超す頂上につくとかなりの展望がありました。山のことはよくわかりませんが、西には八ヶ岳のごつごつした山並み、はるか北方には槍ヶ岳などの北アルプス連峰が雪をかぶってそびえているのが確認できました。

この日は頂上直下にある山小屋=甲武信小屋に泊まりました。山小屋はほとんど経験がないのですが、燕山荘のようにホテルの見まごう大きな施設と違って、甲武信小屋は丸木づくりのいかにも素朴な感じの山小屋という名前がにあいます。写真のように倒壊防止(?)のためのつっかえ棒があります。2階もかなりゆれます。

予想はしていましたが、夕方になると気温が下がり、4~5℃。手が震えてしまうほどです。また室内でも窓から外気が自由に入りますので、食堂では石油ストーブを焚いていますがそれでも寒いくらい。夕食のカレーライスはおいしいです。夜はウインドブレーカーを着た上に毛布と布団をかけて、7時半過ぎには就寝しました。

翌日は、朝4時前に起きて、頂上へ行ってみましたがガスがかかり、何も見えず。ただし、出発後に急速に天候は回復し、シャクナゲの花を眺めながらの快適な下山になりました。

日本一小さな市を一回り2017年06月27日 09:31

埼玉県蕨市(わらびし)はさいたま市と川口市に挟まれた<日本一小さな市>です。ある団体の主催の「まち歩き」でを市内をほぼ1周しました。かなり寄り道をしましたが3~4時間くらいでしょうか。

最初に寄ったのは駅から15分ほどにある「塚越神社」。6メートルほどの小山の上に稲荷神社があります。地元の伝承ではこの山は「経塚」で、旅の出家僧お告げによりここにに法華経一万部を埋納して経塚を築いたもので、塚腰(塚越)という地名の由来となったといわれています。経塚がこれほど大きいものかの疑問は残ります。

神社内には定正寺という観音霊場のお寺や同地の機織業の発展に尽くしたという高橋新五郎を祀った機神社などもあります。かつて綿畑などのひろがるのどかな農村地帯だった頃がしのばれます。

JRの線路をわたり、用水路の跡を利用した遊歩道にでます。ほとんど埋め立てられていますが、このように用水の跡がかなり残っています。低湿地だったことがわかります。やがて(財)河鍋暁斎記念美術館へ。河鍋暁斎は幕末から明治にかけて活躍した狩野派の人気絵師で、道釈人物画から浮世絵版画、戯画・風刺画まで幅広い作品を描きました。記念美術館は1977年に暁斎の曾孫にあたる河鍋楠美氏が自宅を改装して開館したものです。

ついで、旧家に残る庚申塔(道しるべ)のある「善光寺道」を通って土橋公園で昼食休憩。午後、ほどなく、静かな通りにでました。旧中山道です。通りにはいくつかの旧家や「蕨市立歴史民俗資料館・蕨本陣跡」などがあります。さらに歩くと中山道に続く参道があります。三学院です。

この寺は金亀山極楽寺と称し、真言宗智山派。本尊は平安後期の慈覚大師作と伝えられる十一面観音で山門前には六地蔵などのおさめた大きな地蔵堂があります。ここで参加者の記念撮影(上)。

蕨宿には地元の方たちの保存意欲が感じられ、埼玉県内の中山道宿場のなかでは一番雰囲気の残る町並みになっているように思います。