武蔵嵐山でシンポジウム2016年02月03日 13:48


1月の最後の日、嵐山史跡博物館で開かれたシンポジウム「検証! 古代から中世へ―東国の視点から」に行ってきました。東武線・武蔵嵐山駅に行くのは昨年末、生越線の川角駅から鎌倉街道を歩いた時以来です。あのほぼ一日がかりの街道歩きで一帯の地理がよくわかるようになった気がします。やはり、実際に歩いて体験してみることは大事なことです。駅から目的地まであるいは車で目的地まで直接行ってしまうと、微妙な道路の屈折の仕方やところどころにある目立ない道祖神などが醸し出す、時間を超えたその土地の雰囲気が読み取れません。

これはまた地方の駅前商店街や市場通りを通った時に感じるその街の生気というものにも通じます。確かに人通りも少なく、店や事務所にも人かげはまばらで真冬の空気の中に閑散としているだけなのですが、これが案外正確な印象なのかもしれません。しかし、街の別の場所にいくとまったく違った印象をもちます。それはかつては知りませんが、現在では大きな通りに沿ったショッピングセンターであったり、その近くにある遊戯施設であったりします。鎌倉街道沿いの家々が過ぎ去った過去を象徴しているとすれば、それらの施設はまさしく現代をあらわしているということです。

私が現代のパチンコスロット施設でなくいまや歩く人もない古びた旧街道をとおり、古墳や板碑を巡っているのはなんのためなのか。今のところで合理的な説明はできませんが、このように、過ぎ去った時代の文化を懐かしみ、その世界に浸ろうとする人が増えているのは確かなようです。

さて、シンポジウムは午前から午後までいくつかの講演が続き、最後に、パネル討論会があるという形式です。東国特に都市鎌倉成立以前の北武蔵の動向という興味深いテーマなのですが、いつもながらの真面目一方の講演者と主催者が時間を気にしながらの進行。会場がほぼ満員(500名以上!)でありながら笑い声一つありません。昼に休憩に出ると友の会の知り合いと出会い近くの店でラーメンを食べました。254号沿いなので結構店はあります。

午後からも最初の講演には出ましたが、かなりの窮屈感があり、最後のパネル討論も(たぶん、いつもように)討論などはほとんどなく、要するに、質問と回答を交互に述べあうだけだと思いましたので、途中で失礼してしまいました。

森林公園内の鎌倉街道2016年02月06日 11:05


嵐山史跡の博物館が数年前に出した『歩いて廻る比企の中世・再発見』という冊子があります。比企郡内の遺跡・史跡を中心にした手軽なまち歩きを13コースに設定したガイドブックで現在も発売されています。お分かりのように、コースのメインはこの地域の古寺、山城そして鎌倉街道です。少し前からこの中のいくつかを歩き始めていますが、先日は、「もうひとつの鎌倉街道」と題されたコース6に行ってきました。場所は森林公園内という手軽さなのでちょっとした散歩のつもりで出かけられます。ただし、コース後半の古寺訪問は公園を抜けて嵐山町方面に向かいますので少し大変です。

国営武蔵丘陵「森林公園」には行った人が多いと思いますが、子供を連れてのハイキングという感じがほとんどなので、この中に鎌倉街道や山城があることをご存じないかもしれません。実は私もこの本で教えられたんです。実際に行ってみると、駅から歩いても行ける南口から入場してすぐ右の丘陵地帯の中に山城跡も古街道跡も簡単に見つかります。山城の周囲には空堀がきれいに残っているのですぐわかります。整地された廓の中に「山田城跡」の案内版が立っていますが、城自体はとても小さく、松山城の出城といった感じです。ガイドブックでは、この城の北にも谷城跡、山崎城跡などがあることになっていますが、「近年発見」とあるようにあまり明瞭ではなく、伝承もないようです。

この山城群に沿って走っているのが鎌倉街道とのことで、街道から城への入口と思しき地形も確認できます。土塁ともども実際の遺構なのでしょうか。

城跡から少し途切れていますが、笹薮の中に一筋の小道が現れます。歩いていくと「古鎌倉街道」の案内版が建っています。この小道が古くからあるものなのか定かではありませんが、いずれにしろ公園内で終わってしまいます。実際の街道はここから北上して熊谷を通り、深谷市本田(鹿島古墳群の近く)を通って寄居で本道(上つ道)につながっていたとのことです。逆に南下すれば、笛吹峠を通っている本道に合流できます。全体に公園内なので城跡も古道もよく管理・保存されています。こうした場所の見学には落葉も下生えも少ない今から3月頃までがちょうどよいと思います。

石母田正『中世的世界の形成』2016年02月11日 08:47


この本は日本歴史学界の“伝説的古典”の一冊とされています。戦後古代史学の巨人である石母田正(いしもだしょう)が、太平洋戦争末期の昭和19年7月、たった一か月で書き上げた(岩波文庫版の解説より)というからこれだけでもすごいですが、その時の石母田は数え年で33歳という若さです。現在は岩波文庫版で読めますが、8ポイント活字サイズで本文が420ページあります。

ウィキペディアの解説では「戦前に脱稿していたが、戦時中の空襲で自宅と共に原稿は焼失した。しかし、敗戦により今こそ発表すべきと考えた石母田は自宅にこもり、雨戸を閉め切ったまま一夏で再び書き上げたという」と、さらにすさまじい神話が語られています。

岩波文庫版の解説でも石井進氏が(たぶん、こうした研究書の解説としては異例なことなのでしょうが)本書の執筆や発行の経緯について触れ、「(戦災で印刷所が焼け、戦前には出版できず)敗戦後の1946年6月、伊藤書店からはじめて公刊された」と述べています。どうも原稿も焼けていちから書き直したということはないようですが、とにかく最初の執筆の事情は壮絶なものであることがわかります。

読み始める前に、こうした執筆・製作過程に興味がいってしまいましたが、そもそも、なぜこの本を読んでみようと思ったかというと、日本の中世史研究の古典に触れたいという気持ちがないわけではありませんが、それ以上に、著者・石母田正氏のことが知りたかったためだす。それは石母田氏がこれもいまや古典的名著である『平家物語』(岩波新書)を書いているからです。平家物語をきちんと読んで記録をつけてやろうと思い始めたのは最近ですが、ここ1年ほどは古典を少し勉強し、かなりきままですが、『今昔物語』などを読んできていました。そしてもうちど『平家物語』にもどって、歴史的事実との照合や成立の背景などを考えながらじっくり読み直してみたいと思ったとき、この石母田正の『平家物語』をあらためて手にとり、その的確な分析とこの古典に対する深い知識や愛情に感動したのです。そして、この名著の作者についても知りたくなったというわけです。石母田正が日本古代史の第一人者ということ程度はなんとなく知っていましたが、「古今未曾有の大学者である。この大学者を超えることは至難の業」(安良城盛昭氏)という言葉が送られているほどのひとなのです。なまはんかな気持ちでいえる言葉ではありません。

『中世的世界の形成』の内容自体は、伊賀の国・東大寺領荘園の中世から近代にいたる歴史をたどりながら中世武士団の勃興と封建制社会の成立を具体的に解き明かした研究書です。私などのような素人が一貫した興味をもって読み切るのは、難しいというか、能力的にもほとんど不可能です。戦前にこのような研究が行われていたのだからすごいことだと思うばかりです。

ということで、全体について読むだけでも困難なので、論全体の流れからやや離れ、「平家」などの文学にも触れている第4章第2節「中世的世界」だけをできる範囲で考えてみることにします。

「鎌倉街道を歩く」に参加2016年02月17日 20:46


嵐山史跡の博物館主催の「文化財めぐり2─鎌倉街道を歩く(鳩山町~嵐山町)」(02/12)に参加しました。

同博物館の40周年記念企画で行っている見学会シリーズの第2回目です。けっこう人気があるらしく、1月の1回目は3倍の倍率だったそうです。今回は多分運よく「当選」ということでしょうか。博物館側の準備もかなり熱心で集合場所までのバスが出る坂戸駅には担当の学芸員さんが立って案内し、バス停まで同行してくれました。集合場所の鳩山町役場では、博物館の学芸員、ボランティアの友の会?の皆さんなどかなりの協力者が集まっていました。館長も一緒に参加です。

さて、今回の企画は、博物館の趣旨は「文化財めぐり」ですが、なんといっても(報告者が)注目したのがこの地域に残る鎌倉街道伝承地を実際に歩けることです。特に今宿から笛吹峠を経て大蔵館跡にいたるルートは、舗装された現代の道がありますが、そのやや東よりに伝承の鎌倉古道の跡があるらしく、博物館の作成したガイドブックの地図上でも点線で示された「山道」があり、本文には「こちらが上道である可能性も高い」と謎めかして書かれています。

場所としては、探せばわかるとはいうもののやはり専門家同行のもとの確認が必要です。大橋の石仏群や鳩山中学校脇の畑の中の鎌倉街道跡を歩いたあと、いよいよ笛吹峠へ。峠下の林中の小さなお堂「はぐれ堂」の地蔵菩薩像は鳩山町内最古とのこと。名前の由来にも伝説が残ります。少し上がった途中にある「海道端沼」という溜池のそばからいよいよ山道へ。別段急な坂があるわけではありませんが、篠竹が生い茂り、先日の雪のなごりなのか、頭上に垂れ下がる小枝でトンネルのようになった場所や地面がほとんど見えない箇所もあり、ほとんど人がとっていないことがわかります。

さらに進み笛吹峠付近の将軍沢では進行方向に直行する「観音道(巡礼街道)」と呼ばれる間道が現れます。これをたどって行くと現代の「鎌倉街道・笛吹峠」へ出ます。休憩所になっているので一休み(なお、笛吹峠は新田軍と足利尊氏軍が戦った古戦場です。『太平記絵巻』では<うすいとうげ>とよみがふってあり碓氷峠との説もあったようですが現在はこの地が定説との説明あり)。また下の古道にもどり歩くこと10数分、将軍沢の藪を抜けると隠れ里のような谷間に出ます。ここは古代の窯跡のあった場所だそうです。さらに進んだところが明光寺。町内最古の板碑があります。
 
このあと、源義賢の墓や広大な土塁と堀割の遺構が残る大蔵館跡さらに都幾川の段丘沿いの山王遺跡を見学。中世の歴史が豊富に残るこの地の貴重さを再確認しました。なお、山王遺跡は菅谷館の西にあり、かつてはここにある掘割が鎌倉街道跡とみられていて「街道の碑」も立っていますが、現在ではここではなく国立教育会館の中央を通っていたと考えられるとのことです。古戦場といい、道といい、中世の場所の確定はなかなか難しいものです。

旧中山道針ヶ谷の庚申塔2016年02月25日 20:48


この写真はさいたま市(旧浦和市)の旧中山道・針ヶ谷にある庚申塔です。庚申塔は埼玉県内でも各地にたくさんありますが、この庚申塔はとても状態がいいです。青面金剛の口のまわりが少し欠けていますが、それ以外は、庚申塔の見本のようにきれいな姿を保っています。たぶん当初から現状のように屋根のついたお堂の中に安置されていたのでしょう。月と太陽、踏みつけられる邪鬼、三猿、鶏とおなじみのメンバーですが、この地ではいまでも大事にされているようでお花や賽銭もありました。建立は正徳4年との記録があり、享保の前、江戸時代が転換点に来た頃にまつられたいうことがわかります。

最近、大宮の氷川神社参道から浦和まで、旧中山道を歩いて帰ることが多くなり、だんだん沿道の風景に目が行くようになりました。特に、与野駅から北浦和にかけては若いころ一時暮らしていたことがあってなんとなく故郷に帰ったような郷愁を感じる地区です。この庚申塔も当然昔からあったのでしょうが実はまったく記憶にありません。逆に、与野駅前には大きな樹があったと思うのですが全然見当たりません。40年の歳月は一瞬のごとくでありまた永遠のようでもあります。

実は、この庚申塔に感激したこの日、私は大宮から浦和のどこかで胸のポケットに入れた名刺入れを落としてしまいました。現金はありませんでしたが、SUICAや保険証、図書館カード、回数券などがはいっていました。帰宅後、落としたと思われる店に連絡しましたが該当品はなし。あきらめていたところ、翌日になって私の地元・朝霞の市役所から電話があり「あなたの図書館カードの入った名刺入れが浦和警察に届いています」ということ。今日受け取りに行ってきましたが、二人連れの女子中学生さんが届けてくれたとの話でした。なんとなく、この庚申塔のご利益かなという気がしないでもありません。

東山道武蔵路遺跡を見る2016年02月26日 14:13

右の住宅の立っている場所も古代の道

友の会クラブ主催の「大宮住吉神社神楽見学及ぶ周辺歴史散策」に参加しました。かなり寒い日で、住吉神社の神楽は震えながらの見学かと思いましたが、関係者の焚くドラム缶ストーブと風よけテントに助けられました。この模様はブログに掲載されているのでご覧ください。

 →http://hakutomobulog.at.webry.info/201602/article_3.html

この日の見学では勝呂地域を通っていた「東山道武蔵路」の跡にいくことができたのが収穫です。とはいえ、道は開発のための発掘で発見されたものなので現在は跡形もなく、そのそばにあった古代寺院(勝呂廃寺)も広場だけが残り風が吹いているだけです。東山道武蔵路は上野国(群馬県)新田あるいは足利から南下し、この地を通ってほぼ直線で武蔵国府(府中)を通り相模国府(大磯)まで続いて東海道につながる古代の官道です。ただし、解説によると元亀2年(771年)には武蔵国が東海道に所属換えになり、交通路は相模→上総→下総→武蔵というルートに変更になり東山道武蔵路も使用されなくなったとのことです。