歩くことは生きること2015年12月16日 20:51

「歩く」ことは「生きる」ことだという思いが強くなっています。

歩くことは生きること。生きることは考えることです。このテーマにかかわる思いと記録を少しずつ書いていきたいと思っています。最終的には、ブログ責任者(筑井信明)の個人的な思いになります。(http://www.longview.jp/webmaster.html

グレートジャーニー2015年12月17日 17:04

関野吉晴氏サイトに掲載されている図です
現代人は健康や息抜きなどのかなり気楽な理由で歩いたり旅をしたりしますが、そもそも移動というは体力を使いますから多くの動物は意味なく歩くことはまずありません。俗に“千里行って千里帰る”といわれるトラは大型動物ですが、毎日かなりの距離を移動するようです。これは餌となる動植物を求めているからで、かなり必死な行動だと思えます。アフリカの大型野生牛のヌ―なども乾季には大移動をしますが、これも雨と草を求めてのことです。

ところが、人間は居場所があり、食料・飲料などが十分に満たされている時でも歩きまわります。動物としての必然性はあまりありません。つまり人間は「意味なく歩く動物である」ともいえます。ただしこれは一種の比喩で、人間も動物なのですから、本当に意味のないことはしないはずなのでなにか精神活動としての役割はあるのでしょうが、単純な生存本能でないことは確かです。

人類がまだ誕生して間もない数百万年前。これは東アフリカだそうなのですが、ここから人間が歩きだし、西アジアを経て、ヨーロッパ、北極、そしてアメリカ大陸への移動したという説があります。これをグレートジャーニー(偉大な旅と訳しますか? 大旅行かな)というそうで、医師で探検家の関野吉晴氏がこの行程を南米から逆に辿った旅行その記録で一躍有名になりました(上の図は関野吉晴氏サイトに掲載されているものです。これをみるとヨーロッパは通っていない。アメリカにはベーリング海経由ですね)。

実際に、アフリカの人も南アメリカの人も同じ現世人類(ホモサピエンス)なのですから移動があったことは間違いないでしょう。この移動の年代を遺伝子から推定する方法があります。これによると日本列島に現世人類が渡ってきたのは3万年くらい前とのことで、それ以前の人骨が出たら(出ていませんが)これは旧人類ということになります。意外と新しいことになります。


2013年には、国立科学博物館では特別展「グレートジャーニー」が開催され、現在は、日本人のルーツに迫るという引き続いての旅行その記録映画上映・講演が各地で行われています。この記録をみると、ほとんどの場面で、自転車はもちろんカヤックでの航海、橇(ソリ)など動物を利用しての移動が多いようで「徒歩で歩く」ということは少ないようです。ただし、必ず古代人も使えた手足を基本とする交通手段を使用していることは確かです。

(関野吉晴氏サイト http://www.sekino.info/

グレートジャーニー その22015年12月19日 18:34

関野吉晴氏の著書などからもう少し正確に「グレートジャーニー」のことを調べました。1949年生まれ(私と同年齢)の関屋氏がこのグレートジャーニーを南米・チリの南端開始したのが1993年5月。最終地の東アフリカに到着したのは2002年10月。準備期間を含めると10数年にわたる冒険旅行ということになります。最終地のエチオピアには人類最古の足跡と思われる化石が発見されていますので、そこを人類の起源の場所としたのだそうです (写真:国立科学博物館=トリップアドバイザー提供)。

関野氏によると人間の人間たるゆえんは「家族、言語そして直立2本足歩行」。この足跡は、その中の家族と直立2本足歩行の証拠だそうです。化石の残る地層は360万年前なので現生人類ではないのでしょうが、人類のルーツであることは確かだと彼は信じています。

移動の手段は、平地では自転車が多いようですが、山岳地帯はもちろん徒歩、乾燥地帯はラクダにも乗っています。海はボートを手漕ぎ。どの場所も苦労の連続ですが、特に、南米パタゴニアやヒマラヤの氷河地帯の移動は、19世紀以来の多くの極地探検者の残した記録の中の苦難を思い出させます。それでも、GPSや乾燥食料などの近代装備や通信手段、さらにこれは記録のための取材旅行で、バックには応援スタッフがいるというのは、孤立無援だったかつての冒険者との大きな違いです。

意外なのは、移動の障害が自然ばかりでなく、国境紛争やアメリのイスラム戦争そこから生まれたテロなどの政治的要因であるということ。関野氏も述べているように、この世界的な大移動を可能にしたのは、東西冷戦の終結と、9.11以後の対イスラム戦争の間という微妙なタイミングだったからかもしれません。関野氏の「グレートジャーニー」は、単なる冒険記録でなく、この地球が、いつの間にかそこに住む人間が細かく分割する不自由ななわばりの連続になっていること、その中で、今でも貧困、差別、文明、野生が共存していることを示しています。

大宮から浦和まで歩く2015年12月20日 17:47


月に何回か、さいたま市にある「埼玉県立歴史と民俗の博物館」に行きます。多くはこの博物館の関連団体である「友の会」の会合やそこが主催するイベントへの参加のためです。大宮公園の一角にあるあるこの場所は、私がまだ高校生だったころから(確か文化会館とかいう建物だったような記憶)親しいものですが、この友の会には8年ほど前に入会しています。

今回は、その友の会の話ではなく、そこからの帰宅のこと。通常は、この博物館からは大宮公園を抜け、氷川参道を二の鳥居まで戻ってからJR大宮駅に向かい、そこから埼京線・武蔵野線を乗り継いで最寄りの北朝霞駅に向かいます。本日は時間がありましたので、大宮からこの武蔵浦和駅まで徒歩で帰ることにしました。武蔵浦和駅から浦和まで国道17号線を歩いたことはありますが、大宮から浦和までは過去にも歩いた記憶がありません。


氷川神社参道二の鳥居まではいつも通り、今日は、ここから、駅に向かう一の宮通りに入らずに、参道をそのまま直進、18丁の参道をすべて歩いて、中山道(旧道)に出ました。この氷川参道自体が大宮宿ができるまで中山道の本道だったとのことなので、まさに古道歩きですね。とはいえ、JR新都市新駅前付近にはショッピングセンターなどができて街道の雰囲気はまずありません(写真上)。そこから1時間ほどで、与野を過ぎて北浦和へ。ここで大きく右に曲がってJRの線路を超えていきます。昔の中山道は戸田の渡しから板橋宿に向かうのでJRの線路のようにまっすぐ上野にはいかないのです。

浦和宿あたりでようやく雰囲気を残す店構えの家が少し現れて、「街道歩き」らしい雰囲気になります(写真下)。調(つきのみや)神社を過ぎ、岸町公民館あたりで武蔵浦和に向かうため右折、別所沼に向かう道を登って17号国道に。そういえば、昔は旧道に対してこの道を新国道と呼んでいましたね。広々した歩道をゆっくり下りていくとすぐに武蔵浦和の高層ビル群が見えてきました。ここまで大宮から2時間強です。思ったより近いというべきでしょうか。江戸時代の風流人は上尾あたりまで出かけてその日のうちに江戸府内にかえっています。その足跡を少しは感じることができました。

高尾山に登りました2015年12月24日 09:59


12月22日、好天が予想されたので高尾山に登りました。今回は、稲荷山コースを選び、さらに城山から景信山まで一気に歩いて帰るという、初心者の私としてはやや冒険の要素を含んだ山歩きです。12月にはいってから高川山、陣馬山と中央線沿いの山を登りましたので、最後の締めくくりとしての景信山という感じです。私にとって初めてのコースがあるとはいえ、この山自体に難しいことはありませんが、一人であることや往復5時間以上のほぼ休憩なしの運動量が少し心配ではありました。

稲荷山コースは、高尾山の一般的なルートの中では一番距離が長い、ガイドブックでは「本格的な尾根歩き」と説明があります。平日なので登山者はおおくありません。この山では珍しく前後に人影が見えない場面もありました。登山道や標識がしっかりしているので地図を見なくても迷うことはありません。やがて歩くうちに様々な登山者の姿が現れ、声をかけながら追い抜いたり、追い抜かれたり。グループも多いですが、壮年から老年(失礼)のひとり登山者が多いのもここの特徴です。ひとりの人でも、男女を問わず、あいさつして簡単なやりとりができるのが山歩きの良さですが、この場合でも同世代の女性のほうが話しやすく面白いのは、登山以外の通常のイベントと同じです。反対に、何か悩みでも抱えているのか、修行者のように、堅い表情でもくもくと歩いている人にはなかなか声をかけにくいものです。展望台や紅葉台付近にはこの日の「ダイヤモンド富士」を撮影しようというカメラマンがたくさんいました。夕方まで好天でしたからいい写真が撮れたと思います。

登山路というのはどこもそうですが、古代の道がそうだったのだろうと思わせる一筋の踏み分け道です。熊野古道も信仰の道であり、生活道路ですが、あれも一種の「登山道」でしょう。高尾山の道は一般的に広くて何人も並んで歩けるところが多いですが、<写真>のような道ももちろんたくさんあります。稲荷山ルートでもビレッジセンターのあるにぎやかな頂上に出られますが、迂回して直接、城山方面に向かう5号路というのがあります。ここを行くと高尾山でもかなり違った雰囲気になります。帰りはここを通りました。

午前9時、登山口出発、午後3時下山。思ったより疲労はなく体力にひと安心。都心は16度Cまでなったという暖かさで、歩くうちに暑くなり、景信山の頂上では風が強くやや寒かったですが、とにかく下山して日が傾く頃まで、ダウンの上着は脱いだままでした。歩く途中での服装の調整は慣れないのでややあわてました。

グレートトラバース2015年12月27日 19:30


これは「大横断」とでも訳すのでしょうか。現在ではこの言葉は主にNHKの衛星放送で放送されているアドベンチャーレーサー田中陽希の徒歩による日本列島縦断の登山旅行番組のことをいいます。登山するのに「徒歩」は当たり前だろうと思いますが、ここでは、山と山の間の移動もすべて歩く、海があればカヌーで渡るということを基本にしているのが新しいところです。しかも日程を区切り、同じ道は歩かない(一筆書き)ということもルールのため、単なる登山記録が過酷な人間ドラマになっているのがけっこう人気のある所以でしょう。(上の写真は、NHKの番組ホームページから)

田中陽希は、すでに「日本百名山人力踏破」を終えているので、昨日(12/26)の放送は、その続編としての「日本2百名山踏破」の第5集「晩秋・北アルプスから西へ!」でした。次回、1月末の放送で九州まで行って終わりになるようです。26日の番組を見ていると、後半の西日本の各山ではそれほど険しくないということもあってか頂上に多くのファン(?)が田中氏を待ち構えていて拍手喝采で、前半の北アルプスと対照的です。

前に書いた「グレートジャーニー」とはスケールと思想が違いますので比較はできませんが、人力で大自然に挑む(しかも自分の脚力で)という構図自体はほぼ同じです。発達した交通手段や機械に完全に依存している現代社会の中で、少しでも原始の自然に回帰するためには「自分の肉体」しかないということになりそうです。ただし、ここでもあくまで時代は「現代」なので、番組「グレートトラバース」では、演出がうまいために目立ちませんが、歩き、奮闘する田中陽希を撮影しているカメラマンやディレクターが複数同行しているわけです。ときにヘリコプターからの映像も挿入されます。

私はこの番組は今年の途中からしか見ていません。興味をもってから思うのは、登山に関する番組がかなり多いことです。ブームは長く続いているようです。
 
 番組ホームページ: http://www.nhk.or.jp/greattraverse/

柳瀬川を遡る2015年12月29日 15:07

時間のある年末年始は普段面白そうだと思いながらチャンスがなかった「近くの遠出」を試みる機会です。27日は、自宅(埼玉県朝霞市)宅からわりに近い柳瀬川という川をやや上流まで歩くことにしました。私の散歩範囲には黒目川、新河岸川、柳瀬川という3本の中小河川が流れています。新河岸川については志木市にある環境団体の企画で何回かに分けて最下流の浅草まで歩いたことがあります。黒目川もかなりの場所まで行ったことがありますが、柳瀬川についてはほとんど長い距離を歩いた記憶がありません。

この川は、最上流が多摩湖(村山貯水池)で、全長はかなりあります。半年ほど前からの体力強化(?)で脚力に多少の自身がでてきたこともあっての実行ということでしょうか。地図を見ると、東武東上線の「柳瀬川駅」付近から南西に蛇行しながら約8~9キロでJR武蔵野線の「新秋津駅」付近に達しています。多くの河川の土手には遊歩道があり、しかもほぼ平坦ですから、とりあえず、ここまでなら3時間くらいで行けると思われます。今回は東上線志木駅から斜めに川越街道付近まで続く道を使って一部をショートカット。実際の歩きは川越街道の英(はなぶさ)橋付近からになりました。

橋から右岸に降り、川沿いの桜の植えられた広い土手通りをしばらく進みます(写真)。やや! 水面に白い泡のようなものが見えるようになりました。泡は右岸にある施設からの排水のようです。この付近の柳瀬川は埼玉と東京の境界になっていて、右岸は東京都の清瀬水再生センター(=下水処理施設)です(左岸は所沢市)。この処理水のためにここから下流ではかすかなおいが漂うことなりますが、それでも柳瀬川は最終地点(志木市役所付近)までアユなどの生息する清流であることは確かです。

関越自動車道をくぐりJR武蔵野線が見えるあたりから、左岸には公園が現れます。「滝の城公園」です。所沢市内では貴重な中世の山城の遺構が残っていますが、今回は時間がないので寄りません。この付近は柳瀬川が形成したかなり大きな谷で、畑も多く、気持ちのよい景観が広がっています。さらに進むと同じ左岸にまた公園。左岸は清瀬市で、ここは金山調整池とそれに続く緑地公園です。金山調整池内はビオトープとして整備され、木道の上を歩くことができます。植生も豊かなようで、野鳥観察や撮影を楽しむ個人や団体の姿がありました。約2時間あるきましたので、ここで簡単な昼食。じっとしているとやや寒く、持ってきたレインェアを着込みました。

徒歩を再開。川が大きく蛇行するあたりからまた所沢市内になりますが、しばらくは左右の遊歩道を進みます。しかし、空堀川との合流点付近で川沿いの道は突然消滅します。ここから柳瀬川沿いに進むことはまったくできません。川自体もやや細くはなりますが、土手ぎりぎりまで建物がたっていて、川に平行する曲がりくねった道路を進むしかなくなります。15分くらいこんな感じで街中をあるき、柳瀬川に架かる松戸橋をわたったところで西武線の「秋津駅」が見えてきます。ほぼ3時間、時間的には予定通りの到着でした。

どうも柳瀬川は、この付近から多摩湖までは川沿いに歩くことはできないようです。

昨日と本日は完全休養2015年12月29日 15:26

腰がやや重い。疲労と思われます。12/22に高尾山での5時間以上連続歩きが効いたのか。そのあともジムでのランニングとマシン、3時間の川歩きと続きましたからね。グレートトラバースに刺激されちゃいけない。土台が違います。昨日と本日は完全休養。